豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

心のそこで

2016-04-14 14:37:12 | 読者に人気の記事
こんにちは。

今日も、だらーっと、昼過ぎに起きてきました豊田です。

このごろは、とあるバーに飲みに出たり、悠聖くんのヤマハデビューを見守ったり、たまに嫁さんとネット越しに喋ったり、花見で馬鹿騒ぎして、みんなのヒンシュクを買ったりしてました。

座禅は、もう、まったく。

でも、今年は、なんか、すげー年だな。

けっこう価値観が、がらっと、変わりました。

20歳くらいまでは、まあ、できが悪い人間だけれども、好きなことには夢中で、ある程度、てきとーにやって、そこから、まあ、馬鹿騒ぎしだして、楽しいことばかりでもないけど、ちょっと特殊な観念で生きてたなあ。

でも、基本、信頼が求めてるもんで、まあ、甘えただっただけって言うww

いろんなところで働いて、いろんなところで遊んで、まー自由きまま、ここに極まれり。

で、こんなブログまで書いて、いろんな人に会っても「なんなんあれ」とか「読んでも意味が分からんのやけど」とか言われると、笑

僕は、けっこう、様々な人に出会ってきたほうだと思いますが、この手の宗教的な情報と、一般の感覚には、ほんとはズレがないんだけれど、専門的な用語とか、自己の特殊な状態に対する思い込みとかで、交流がなくなるんだなあと、そう感じています。

非二元とか、悟りなんていう言葉は、どうも、あやしすぎるのだけれど、思いやりとか、尊重とかの話なら、みんな分かる。

ここの問題点は、宗教的視野が、自分だけの体験によってしまうと、ある状態に依存して、世界との交流が、普通でないようになることです。

例えば、絶対安心の、沈黙が目覚めて、そこから世界との距離をとると、自分は、苦しんでいても、そこに焦点が合うというか、そこが起きてくると、平安である。

しかし、ここで世界との距離を詰めるために、世界が、この沈黙の創造主と、ひとつであると、そこに開いたとして、今度は、世界が、ただ起こりくる無感情な、いや、喜びなのだが、違った種類の喜びで、それは他者とは共有されない。

そして、遂に、そーいった自己の意志による、あれこれをする前に、自然は、自然のままに、何もかもが、これ以上ない、そこで、あるがままに展開しているのであって、いいもわるいもないという理解になっていくが、結局、そーなっても、その見方、世界に対する距離をとっているので、ほんとに生き切るところから、離れている。

この宗教的な観念、スピリチュアルでも、なんでもいいのだが、世界や他者との壁を創り出す、そのような、見方から、他者を自己の理解に引き入れよう、引き入れたいという願望が、生まれてくる。

世界中の宗教が、この見方を尊重して、人間を蔑ろにしてしまい、対立、争いを、している。

諸行無常は真理だが、その言葉を、忘れて、はじめて救われるのだ。

そこに固執して、例えば、そのような見方から、人間関係や生活を疎外するような言動が始まれば、自分にとっても、他人にとっても、弊害になってしまう。

事実は、ある人が、心の底から、他者や自己を、また世界を愛おしく感じて、楽しげに、思いやりをもって、接すれば、そこで、困難が生じたときに諸行無常の、理解によって、救われるとき、その観念を相手に伝わるように、ああ、そうか、自分だけの人生じゃなく、生かされてあるんだと、心底、分かるように、通常の会話、その人、その人との深い心の通い合いがある上で、伝えられなくてはいけない。

それは、信頼がもとになっていて、知識との答え合わせ、謎解きゲームではない。

普段の何気ない会話や、表情や、他者への理解や、そのような普通の付き合いの中での、優しさが基本にあるのだ。

そして、宗教なんか、まったく興味のない、また、その他の、概念的なこだわりのない、人の方が、感情的には、豊富な愛情をもっている。

直に、学んでいるから、概念を通した理解に寄っている人よりも、こころが豊かなのだ。

このような純粋で、信頼できる、気持ちの人たちは、ほとんどいない。

ぼくは、ぼくにとって、それが入ってくる人に出会わなければならなかったのだ。

ほんとうに、素晴らしい人間に出会ったら、人は、疑う気もちが、消えていく。

なぜなら、ほんとうに、自己がどのように振る舞いをしても、これらの素晴らしい人は、心の底からの優しさが揺らがないからなのだ。

揺らがない思いは、人格にあるのではなくて、本質にある。

この本質が、どのような奇跡なのか、自然に美しい人が存在するのだ!

このような人に救われるのは、考え方を教えられたとか、何からの意識の変化を感じたとか、そーいうものではない。

ただ、こころの繋がりなのだ。

オープンで、限りない優しさをもっている、その人の言葉や行為、姿勢が、疑いをすべて、根こそぎ、持ち去ってしまう。

長く書きすぎて、何が言いたいのか、わからなくなってきたww

そーそー、だから、大事なのは、その場での、自己の発現であって、概念ではないし、特殊な意識の状態ではないのだ。

それらはテクニックなのだ。

そのような、意識的努力が、自己の閉鎖性を除き去って、しまうことに有効ならば、いいのだが、自分の経験では、それらは、最初の、本質の傾向に、影響を及ぼさない限り、弊害である。

存在に開く、とか、自己を救うのは、他者に対する思いやりがなく、ただ、そこに留まるならば、自分だけの自己満足である。

まして概念を与えて、人を、ある境地に導くことで、幸せの伝搬を目指すのは、逆に、集団と集団の対立や無関心を生み出す。

単純な、こころの通い合った関係性の中で、他者を大事にできる、には、心の底から、信頼できる、愛しく思う、もしくは、楽しんだり、悩んだりが、通常の感性の中で、起こらなければならない。

考えで強制したものは、役に、立たない。

ほんとうに心が触れたら、その人の存在、が、ネガティヴな感情を押し流してしまう。

ここで、僕は、成長しなくてはいけない。

偽物の、こころの傾向の変化を伴わない理解には意味がない。

感情の奥底から、溢れるような、深く、揺るがない、そのような、質において、変化する。

少しずつ、そちらへ行こう。

それが、ぼくの、償いきれないほどの罪への、また、返しきれない温情に対する、少しでもの、感謝になるように。

ここに書いても、しかたないが、とにかく、このことに気づかせてくれた、おそらく、人生ではじめての、普通の人、人間である人、心の温かい人に、ありがとう。

めちゃくちゃ、感謝!

なんか、今日のは、むちゃ長いし、かなり恥ずかしいけど、このまま載せますw

ほいでわー


相手を尊重する

2016-04-05 08:12:12 | 日記
おはようございます。

日曜日の新聞を見てたら夫婦円満の要素が載っていて、

1.相手を尊重する、思いやる。

2.一緒に御飯を食べる。

3.できるだけ会話をする。

と、あった。

これ、使えるよね?

ってことで、今日も人を見る、相手を大事にするの練習を試みまーす。

成長期やってきたかなw

能動的に創り出す

2016-04-05 00:00:45 | 日記
こんばんは。

今日は、朝方、嫁様に電話したけど、妙にテンション高くて、子供の写真の話とかされる。

いつ帰るのか尋ねても、分からない。

もう、そっちにずっと居たいってことなのかと訊いても分からない。

ふう(溜息)

お金はくれと言ってくるし、笑

ぼくは何かが、完全崩壊して、遂に、おかしくなってきたのに、それを助けてくれるのが、もはや嫁様ではなくなっているというww

なんとノウテンキに子供の話をするんか。

って、まあ、あんまり非難はよくないのだが、ホント、もう、どうしようもない。

でも、ここで、昨日からの、人を大事にを実行するには、もう、嫁様を完全自由にさせておくしかなさそうだが、そうなってくると、僕が全く彼女のことを気にしないで居るしかないが無理だし。

マジで終わりかも。

仕事中は、がんばって、良いところ探しをしてましたが、良い方法があった。

前からやってる、頭部前方上方から世界の画像が、自分自身を照らしているような、意識の持ち方をしながら、背中の中央くらいにある負の、ネガティヴな感情を抑えていく。

意識は、できるだけ、相手を見るようにして、優しいところを探す。

もちろん、相手は人間なので、個性が様々にあって、 瞬時に問題点も見えるが、それは無視。

無視というか、それでもオッケー。

という思いでいて、弱点を見ないでおく。

どんな人でも必ず、親切なことをしてくれるし、気遣いもしてくれるので、それを、見逃さずに、人は優しいと感じる。


で、これをやっていくと、必ず、自分の欲望と対峙して、葛藤するようになっている。

状況を支配したい、つまり、自分の愛情欲求、承認欲求などが満たされる環境を望むので、そうでなくなると、ムクムクとネガティヴエモーションが現れる。

まあ、嫁様の場合もそーなってるね、完全w

しかし、ここで更に崩壊させる。

つまり、僕が求めているのは、優しさ、信頼、許し、愛、等々で、それは、能動的に自己から働きかけた時に、はじめて相手との交流が生まれるのだ。

ここに問題の核心がある。

利欲は、快楽を得ようと訴えるが、そうなると完全自己中が発動して、相手との信頼関係は不可能になる。

この自己が不当に扱われている等々と感じることを内的考慮と言う。

なので、ここで自己の叫びを脳内妄想ごと滅却して、相手を尊重して、大事にすることに視点を移してしまわないといけない。

従来の心理的習慣があるので、簡単に、自己の声に支配されるので、極めて高度に、自己を見ないといけない。

この高所からの視点、観る働きが、世界に開かせている、状況。

まあ、グルジエフさんなら、事実の世界からの眺望とでも名付けそうな、エネルギーの流入の力を借りて、この、事実の世界が、内面の流れを遮断して、方向性を変えるのだ。

これがオクターブの流れかもしれない。

第二のショックは感情の不調和の解消であるが、それは自己の利益が忘れられ、相手を大事にする視点に移行することだ。

結果的には、この、能動的な働きが、十分に相手に伝わるほどに頻繁に発動することで、求めていたものが手に入る。

信頼は、相手がもたらすものではなく、自己の働きが、相手を許すことで、発生する。

そして、この信頼の中に、安心がある。

しかし、ここで、自己の利益は明らかに無視されてしまうので、その求めていた欲望を放棄しないといけない。

習慣的に、愛されたい、認められたいと、常に、飢えの中で渇愛しているので、放っておいたら、すぐに、負の感情に支配される。

この利欲よりも、人を大事にすることに、非常な価値があると言い聞かせ、更に、欲が叶えられない絶望に耐えられるように、肯定的なエネルギーを大量に外部から自己に導き入れないといけない。

無心になり、外部の事実世界、上空からの、光、意識の、エネルギーを大量に当て、背中の負の力を流していく。

ここに完全に注意深く在り、相手を見て、楽しげな雰囲気を能動的に作り出し、そして、優しさを探し、リラックスできる環境を作れる機会を見つけていく。

この間、習慣的な心理傾向が、常に渇愛、利欲によって自己を不安にさせるので、延々と、この環境を作り出すための努力をしないといけない。

忘れられたら、あっという間に、自己のなすがままになるのだ。

この辺りの方向性には、可能性を感じるので、しばらく続けようと思います。

能動的に、自己を楽しませるので、また、相手を許していくのに、自己の利益を犠牲にしなくてはならないが、本当に欲しい利益は、信頼なので、そこで、充足感が得られるようになるかもしれない。

まあ、まだ、何も出来ませんが、始まったばかりだから、今度はどうなるもんか、楽しみです。






はじまりはじまり

2016-04-04 07:24:10 | 読者に人気の記事
おはようございます。

昨夜はコーヒーの飲み過ぎなのか、興奮のせいなのか、全く眠れず、1時間しかし寝ていません。

眠い。

そして月曜日、特有の憂鬱感の中です。

7時に起きて、お風呂浸かってから、朝食を済ませました。

テレビに向かって文句を言う習慣がありますが、ああいうのもよくないね。

疑うことが多すぎる。

信頼モードへ移行していくのは、昨日からスタートだから、すぐに、前のように反応する。

ものごとの見方を、徐々に変えていこう。

ちょっとだけ時間あったので、コーヒー飲みながらブログ更新しています。

人の優しさに触れた時、自分の小ささを知りましたと歌詞にありますが、それだなあ。

まずひとつ、使えそうなのが、無意識に非難している心を相手の良いところを見るように変えることだろうと思います。

何しろ人を大切にするには、馬鹿にしてはいけないのは当たり前だ。

良いところと悪いところがあり、悪いところは赦し、良いところは褒める。

自分が、自分が、となるところを押さえて、相手の気持ちと交流をはかる。

今まで、無意識だったところを、非難から感謝に変える。

ありがとうが、ホントになるように、優しさ収穫モードもおもしろいかもしれない。

優しくされたことを見つける。

ちょっとだけでも普段から変えていく。

心が通いだすようになるように、褒める。

相手を見る。

自己想起ではなく、相手を自分に入れる。

怖がらずに、受け入れる。

恥ずかしがらずに、開く。

まあ、そんな感じで、すぐには、無理そうだけどちょっとずつ始めていきまーす。

人は素晴らしいものだ。

そうやって見方を、ぜんぶ変えていく。

まじめに楽しいことを探すww

というわけで、皆さん、応援、よろしくお願いしまーす。

いってきまーす!

はじめて、大事にされて、僕は、気がついたかもしれない(長文)

2016-04-03 23:17:39 | 読者に人気の記事
こんばんは。

どうも人間として、問題のあることに、ようやく気がついてきた豊田です。

いろんな人と交流をさせていただいたお陰で、自分の至らなさにようやく気がついてきました。

このブログでも日常生活や、精神世界関連の読書や日常での実践などで感じたことを書いてきましたが、そのような流れの中で、実生活では、妻を疲れさせ、怒らせたり、友人、知人、家族にも心配させるようなことばかり、延々とやってしまいました。

妻子が家を出てから、外で飲むことが、多くなり、人様に、失礼な言葉や態度をとってしまうし、反省して変わる時だと感じています。

以前から、この問題は、ずっとあるのですが、僕はまったく気がついていなかった!

親切な人たちが、心配してくれたり、こんなに人のことを大切にできない僕を受け入れてくれたりしている事実。

ホントに迷惑ばかりかけて申し訳ありません。

別に僕は、全然努力をしなかったとは、思いませんし、一生懸命、自己が向上する方向性を探して、自分なりに感じた、また、考えたことを追求していたはずだと思います。

ところが、ぜんぶ、的はずれな方へ行ってしまいます。

例えば、早起きして座禅、読書、ブログの更新をしたり、生活の計画を立てて、家族サービスや、いろんな、目標をクリアして、向上しようなどということが、一緒に生活している妻を疲れさせたのが、今回の発端ですね。

でも、僕は、なんとも完全すぎるほどの自己中で、こういったことが自分を助けたり、よくする努力だと、勘違いしていたのです。

今日は、ある優しい方が、僕の、恐らくは幼少期から抱えている問題に気づかせてくれました。

人との付き合いの中で、人のことを考えた行いが、僕はまったくできないのです。

もちろん表面上は、人との繋がりがあるわけですが、どのような関係性でも、ほぼ完全に自分のことしか考えてなかったのです!

これには、びっくりしました。

今までずっと、誰も、信頼できない状態で、人のことを大切に扱うこともできなかったのです。

脳内には、様々な、精神世界教師の言葉が記憶されていて、また、いろんなテクニックも知っているのですが、それが、全部が全部、ただ、己のみのためにあるだけだったのです。

思いやりを大切にという、よくある言葉でも、まったく理解できていなかったのです!

これは、ぜんぶがぜんぶ、自己の都合でコロコロ変わってしまう意味のないものとなっていました。

何が僕は欲しかったのか。

悟りや覚醒の話へ向かわせたものも、ただただ、己の世界で、一人相撲していただけです。

このような探求の中で、ホントに僕が求めていたのは、愛情とか、許しとか、心の解放、もっと端的に安心だと思います。

安心が欲しいが為に、座ったり、また、自己を世界に開いた視点や、自己を観察したり、奮い起こして想起したり、または、今を感じたりしていたのですが、そこで気づいたり、到達したものは、全部、一瞬の儚い気づきだった。

例えば、世界が流れ込んでくると、2014年の禅寺での質問で気がついたことを中心に、散々、この手のことを書きましたし、非二元が人気になった昨年は、生命の声とか、ライフ、つまり、この大いなる存在の中に解放されるということが、最初からあるとか、盛んに、そういったことを書いたりしました。

これらの、全部が全部、ただ、自分の中で起こっていただけです。

肝心の安心は、この、ヘンテコな信念のようなものの中に閉じこもる、つまり、究極の自己中、何も周りが見えてない中にしかなくなってしまっていました。

これは、異常に病的な状況ですが、僕は、何かがおかしいのは薄々わかっていましたが、一体全体、その問題は、どこにあるのか、全然、気づきませんでした。

今年になってから、色々、頑張ろうとして、全部、崩壊してしまうというのが顕著になってきて、ようやく僕は、考えることができたのかもしれません。

当然の流れですね。

自分のためだけに生きていたら、人が幸せになれるはずがありません。

このような目標やら、努力の前に、そこにいる人が安心したり、楽しい気分でいられるように、人を見なくては、人の気持ちを感じなければいけなかったのだ!

こんなこと、が、ホントに分かっていなかったので、全部の努力が、おかしな方向へ行ったに違いありません。

小さな頃から問題児で、人に迷惑ばかりかけ、おかしいところがあらから虐められ、また殻にこもって、ただ自分のことばかりになってしまう。

誰も、今まで、気づかせてくれなかった、この構図に気がついたのは、この生活崩壊のお陰もありますが、とてつもなく素晴らしい人が、現れたからです。

その人は、普通の人です。

普通とは、別に、何かの先生とかではないということですね。

宇宙一いい加減な博士とか、大和田菜穂さんとか、そういった世界は何も知らない。

でも、人間なんです。

って、この言葉は、変ですが、僕は、人間というのは、心が通うことであると感じるようになってきました。

とにかく、心の触れていなかった部分が、見えてきたのは、普通の人間に出会ったから。

特別じゃないとは、よく書かれるし、僕も何度も書きましたが、ほんとに、それ。

僕が、なぜ、いつまでたっても救われないのかは、ただ、自分のためだけに努力していたからなので、ホントは、交流が生まれたら、解放されるのだ。

人のことを信頼することができないという、そのことが、今まで、ずーっとあった。

信頼、愛、許し。

この言葉の意味が、まーったく分かっていなかったという衝撃すぎる事実。

そして、欲しかったのは、これだった。

ここで、理論なんか、また、テクニックなんか、役に立つはずがない。

心の通った人間であることが必須である。

無味な信念や、体験に寄っては、人は開かれていくことはない。

許されて、初めて、大切さが分かるのだし、一期一会や、その他の宗教的な言葉も意味をなしてくる。

教条的に宗教を学ぶことは、普通に生活しているよりも、尚、悪い状況をもたらしてしまう。

ただ人との出会い、また、普通の心の通う学びの中で、自己が投げ出された時に、救われる。

それは努力ではなく、許しなのだ。

そして自分が感じている以上に、人は、素晴らしい存在であり、この世界に生まれた意味は、ここにあるのかもしれない。

心の溶ける瞬間。

なにしろ、僕は、今まで、まったく勘違いしたままで38年も生きてきてしまった!!

なんというアホ。

人とは素晴らしいものだったのだ。

誰も、僕を困らせようとはしていないのだ。

それどころか、僕を助けようと、手を差し伸べてくれている!

だというのに、この僕は、ただただ自分のことだけを考えていたとは。

恥ずかしすぎる、苦笑

僕は人のことを、人の気持ちを汲むことのできる人になりたい。

まったく、それをしてこなかった!

方法は、まだ分からないけれど、座禅や読書、以前の、もっと普通の気持ちの通いあいとか、信頼、愛、許しとか、そういったものの中にあるのは、間違いない。

このような、心の鍛錬なら意味がある。

鍛錬というのか、姿勢の正かた。

こういうのって、普段の心の、思いが大切になってくるので、いつも、相手のことを大事にしようとすることが必要だろうなあ。

自信ないけど、、、

今まで、たくさんの人が、僕を許して、見守ったり、助けたりしてくれたのに、なんで、僕は、それができなくて、些細なことで、人を馬鹿にしていたのか!

特別じゃなきゃならないとか、アホすぎる。

人を大事にできるようになる。

それを目標にして、少しずつ、成長できるように、しよう。

ヨチヨチ歩きの赤ん坊が、しっかり歩けるようになるまで時間がかかる。

解放は許しだ。

そして、その許しは、心の通った人間として生きている、たくさんの、普通の人々によって、今日も毎日、どこでも、普通に見られる。

人間って、素晴らしい。

素晴らしすぎる!

僕に、教えてくれた、人。

人生で、はじめて、僕に、気づかせてくれた人は、なんという愛!

しかも、そのことすら、意識してされたわけではなく、ただ正直に生きているだけなのだ。

知識は、心に響くことがなければ、逆に、弊害になってしまう。

大事にする。

とにかく、人間は、素晴らしい。

もちろん、そうでない人もいるが、それは、僕自身だ。

僕が、まったく分からなかったように、気がついていないのだ。

人間は、本来的に、素晴らしい。

ただ、僕がそうだったように、信頼について、疑いが生じたときに不幸がやってくる。

僕が幸せだったのは、信頼があるときだったので、その気持ちが揺らぐことで、不幸になっていたのだか、分からなかった!

ホントに、今まで、まったく知らなかった。

びっくりすぎる。

人は、優しいのだ。

優しくない人は、信頼が揺らいだのだ。

しかし、普通に生活しているだけで、どれほどの許しの中で、いるのか。

普通に見て、僕が、今あるのは、気づかないところで、僕のことを助けてくれたり、許してくれたり、した、人たちのお陰であるのは、間違いない。

間違いないのに、それに気づかず、ただ己のみのために生きていたとは!

久しぶりに、長くなってしまいました。

なにしろ、まだ、明確な、成長の仕方は分かりませんが、やっと、スタート地点。

これが、欲しかったのだ!

昔から、幼少期から、これが、求めていたものであり、発信したいことも、これだったに違いない。

よくわかっていなかった。

普通の優しさ。

普通の交流の中での信頼関係。

そういったことが、必要とされている。

それは、現代社会では、特に、超重要要素だ。

普通に実践している人が、たくさんいる。

宗教なんか、全く関心のない人たちである。

日常の中に、学んで、成長して、優しい人になった人たちなのだ、それは。

もちろん、宗教性に溢れて素晴らしい人もいるが、僕が求めていたのは、これ。

具体的に、すぐに、何かがあるわけでは、ないが、これは、必ず、広める。

座禅をしましょうとか、経典を読みましょうじゃない。

自己啓発セミナーで、感じたのも、これだったのだ。

まあ、問題のある、閉鎖空間の問題も、すべて、ここから来ていたのだ。

やばすぎる。

普通の、ひとは、もちろん、様々な苦悩の中にあるわけだが、その中で学んでいる。

なんと、アホだったことか、僕は。

生かされてあることも、無常も、悟りも、こんな言葉にさえ拘らなければ、普通の人の方が、分かっているのだ。

感覚的に、知っているのだ。

そして、それをワザワザ、強調することもなく、日々、自分と相手、その、どちらもが楽しめるように、努力している。

いや、努力でない。

自然と、そうしている。

驚愕!

なんという素晴らしいことだ。

て、まあ、興奮して長く書きすぎました。

僕を許して、また、更に、人の優しさにまで気づかせ、更に、なんの、押し付けがましさもなく、
自然で、正直で、純粋で、心の通った人間が、存在するとは!

しかも、普通の人なのだ。

心は信頼によって開くが、その信頼は、相手の優しさ、によって生じる。

しかし、その解放が起こるのは、ほんとうに、普通に正直に相手してもらえることで、親身になってもらえることで、起こる。

これは心理的なことだ。

とても簡単なことだ。

ただ大事にしてもらえたという気持ち。

大切にしようという気持ち。

これが言葉によってではなく、実質の経験の中で、心の壁を乗り越えて入ってくるとき、許しと解放が起こる。

自己からの解放である。

しかし、ここで、僕が書いているのは、精神世界や宗教で説かれている、よくある解放ではない。

ただほんとうに、赦されてある。

この赦しに、心が反応して、溶けることだ。

ぜんぜん、宗教じゃない。

自己から、自己と他者の世界に広がることであるが、これが、どうしても分からなかった。

ここに、ここにこそ、楽園がある。

これが広まれば、平和と愛が広まる。

それは、だった1人の人間で、十分に可能だ。

なぜ、今まで、現れなかったのか、不思議なくらい、わかりやすい。

これまでの悲惨な経験があって、初めて分かる仕組みだったのだろうか。

追求して、いろいろ気づくまでは、まだまだ可能性を感じるので、人の声が届かないのだろうか。

とにかく、素晴らしい人はいる。

優しい人はいる。

僕は懺悔して、自己中の生活から、出て行かなくてはいけない。

非難してはいけない。

自分のやってきたことを考えてみれば、人は、優しさに触れた時だけ、気づく。

この感情。

これが見失われたものだったのだ。

愛は、愛の中にあるわけではなく、ただ、この触れ合いの中にある。

赦しだ。

しかも、これは、普通のことなのだあ。

あかん、マジで感謝。

そーだったのか!

これ、に、気づかせてくれた、すべての出来事に感謝。

気づかせてくれた、人、にありがとう。

まあ、なんか、今日はおかしくなってますが、ホントに僕は、人を大事にできるように頑張ろうと思います。

今まで、自己中で、迷惑かけた人、ごめんなさい。

僕は、単純な心のやりとりを目指します。

普通の、関係性の中で、何か、人を楽しませることができるようになりたい。

宗教は卒業。

とにかく、僕の憧れる人が、まったく変わってしまった。

何かを自分の中で見つけるのではなく、人との関係性の中で見つけたい。

人間になりたい。

心の通った人になりたい。

まあ、がんばります。