※初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
おはようございます。
我執を除いて真の世界に誕生した皆様!
本日は5時半ごろに起床して座禅1時間、無事終えました豊田です。
相変わらず集中力が断たれることが多いです。
人間は眠っているという表現は素晴らしく的を得ていますね。
「目覚めなさい」と聖者、賢者の方々が皆、言っています。
危機感がないと、この集中は持続しないのかもしれません。
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さて昨日はYくんが遊びに来て有意義な会話を楽しみました。
彼は相変わらず商売に夢中のようです。
いろいろな日々の活動の中で親しくなる人も出てきたという話でした。
興味を同じくする人と仲良くなる技はすでに神がかりしてますね、笑
人の状態を見て、動機を見抜き、声をかける。
これが、仲良くなる秘訣なのだろうと、聞いていて思いました。
他にも体感について話しました。
仏教にしても、ヨーガにしても、また禅やワークにしても、知識を応用して、実生活で経験をつまないと理解できませんね。
もちろん商売や仕事、芸術などでも同じです。
方法をいくら学んでも、人生に直面していなければ学べない。
という話をしました。
宇宙一いい加減な博士が「修道僧と破戒僧」のお話で描いていましたが、師の言いつけを守って座禅三昧する僧が一向に悟れないのに対して、俗世の穢れの中で苦楽を味わいながら生きている破戒僧は、さっさと解脱してしまう。
これも危機感と自らの「気づき」の力だと思われます。
智慧の悟りが仏陀の「無所有の境地」なわけですが、これは、自らが実証しない限り、いつまで経っても知りえないものであるわけです。
実証するには現実に直面して吟味しなくてはならない。
心や体が直に納得しなければ、ただ眠りに誘われるだけである。
直面する課題や道心なく、ただ座禅しているのでは眠っているのと変わらない。
こういわれたから、しているのではなく、座禅する中で自己の疑問と対峙して、それを乗り越えていこうとするわけです。
もちろん集中力とリラックスの鍛錬という意味もありますが、最終的には「智慧」による解脱なわけで、これは「縁起」を直に証するということでもあります。
「無明によって行がある」という、この無明とは、諸行無常、諸法無我、一切行苦を知らないことであります。
しかし、これを頭の中で「ああ、一切は過ぎ去るね」と思うのと、己の死すときが迫ってきて実感として過ぎ去ることを感じるのは全然違うわけです。
知識で知ったことを存在によって裏付ける。
この理解が生まれることで、人は心の底から「真理」を知って大安心の境地に立つ。
知識だけで知って大安心はしないし、存在だけが知っても愚かなままである。
「聖なる動かぬ物と愚かなる聖者と虚弱なヨーギ」という強烈な皮肉をこめてグルジェフさんが指摘したバランスの欠けた道は、長い長い時間がかかる。
この中でも最良の道はヨーガであるが、この精神の道を歩む人は、感情と本能の中枢を同時に覚醒させるべく努めなくてはならない。
覚醒させるというのは「気をつけている」という意味である。
意識と感覚と、それらの統合体である心が、常に目覚めているにはショックが必要であるとグルジェフさんは考えました。
これは、ある意味真実に違いは無いのですが、非常に危険です。
これよりも優れていると思われるのは「沈黙」です。
沈黙することで意識は研ぎ澄まされ、キーンという音の中で、意識と感覚が目覚めます。
そしてこの目の前にあるリアルが、頭を心へ落とす!!!!
この目覚めの質を物質空間に放射線のように浸透させることができます。
その力を磨いていくことで、我々は、この世界で、真の仕事、名利を求めぬ仕事に出会い、いずれは何をするときにでも「注意集中」を失うことは無くなるだろう。
神が、そこに、いるからである。
まあ今日も一日、生き切りましょう♪
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
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おはようございます。
我執を除いて真の世界に誕生した皆様!
本日は5時半ごろに起床して座禅1時間、無事終えました豊田です。
相変わらず集中力が断たれることが多いです。
人間は眠っているという表現は素晴らしく的を得ていますね。
「目覚めなさい」と聖者、賢者の方々が皆、言っています。
危機感がないと、この集中は持続しないのかもしれません。
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彼は相変わらず商売に夢中のようです。
いろいろな日々の活動の中で親しくなる人も出てきたという話でした。
興味を同じくする人と仲良くなる技はすでに神がかりしてますね、笑
人の状態を見て、動機を見抜き、声をかける。
これが、仲良くなる秘訣なのだろうと、聞いていて思いました。
他にも体感について話しました。
仏教にしても、ヨーガにしても、また禅やワークにしても、知識を応用して、実生活で経験をつまないと理解できませんね。
もちろん商売や仕事、芸術などでも同じです。
方法をいくら学んでも、人生に直面していなければ学べない。
という話をしました。
宇宙一いい加減な博士が「修道僧と破戒僧」のお話で描いていましたが、師の言いつけを守って座禅三昧する僧が一向に悟れないのに対して、俗世の穢れの中で苦楽を味わいながら生きている破戒僧は、さっさと解脱してしまう。
これも危機感と自らの「気づき」の力だと思われます。
智慧の悟りが仏陀の「無所有の境地」なわけですが、これは、自らが実証しない限り、いつまで経っても知りえないものであるわけです。
実証するには現実に直面して吟味しなくてはならない。
心や体が直に納得しなければ、ただ眠りに誘われるだけである。
直面する課題や道心なく、ただ座禅しているのでは眠っているのと変わらない。
こういわれたから、しているのではなく、座禅する中で自己の疑問と対峙して、それを乗り越えていこうとするわけです。
もちろん集中力とリラックスの鍛錬という意味もありますが、最終的には「智慧」による解脱なわけで、これは「縁起」を直に証するということでもあります。
「無明によって行がある」という、この無明とは、諸行無常、諸法無我、一切行苦を知らないことであります。
しかし、これを頭の中で「ああ、一切は過ぎ去るね」と思うのと、己の死すときが迫ってきて実感として過ぎ去ることを感じるのは全然違うわけです。
知識で知ったことを存在によって裏付ける。
この理解が生まれることで、人は心の底から「真理」を知って大安心の境地に立つ。
知識だけで知って大安心はしないし、存在だけが知っても愚かなままである。
「聖なる動かぬ物と愚かなる聖者と虚弱なヨーギ」という強烈な皮肉をこめてグルジェフさんが指摘したバランスの欠けた道は、長い長い時間がかかる。
この中でも最良の道はヨーガであるが、この精神の道を歩む人は、感情と本能の中枢を同時に覚醒させるべく努めなくてはならない。
覚醒させるというのは「気をつけている」という意味である。
意識と感覚と、それらの統合体である心が、常に目覚めているにはショックが必要であるとグルジェフさんは考えました。
これは、ある意味真実に違いは無いのですが、非常に危険です。
これよりも優れていると思われるのは「沈黙」です。
沈黙することで意識は研ぎ澄まされ、キーンという音の中で、意識と感覚が目覚めます。
そしてこの目の前にあるリアルが、頭を心へ落とす!!!!
この目覚めの質を物質空間に放射線のように浸透させることができます。
その力を磨いていくことで、我々は、この世界で、真の仕事、名利を求めぬ仕事に出会い、いずれは何をするときにでも「注意集中」を失うことは無くなるだろう。
神が、そこに、いるからである。
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