※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
人気ブログランキングへ←無分別!
こんにちは!
光の世界に最誕生した、無分別の境地にあられる皆様。
昨日から色々と学んだ豊田です。
CMは長々と書くのも疲れてきたので、前のように上部に置いておきました。
宜しくお願いします、笑
さて識別作用が止滅することによって、名称と形態が滅するとブッダさんが言いますが、これが光の世界への招待状です。
識とは意識のことですね。
この意識は、行いがあるから生まれてくると言います。
身の行い、口の行い、心の行い、つまり、意志の動きがあるので、ここに意識が生まれ、この意識が五感を通して、肉体を存在させているものである。
ここで識別作用とは、この各々の名称と形態を意識と対立させて認識している状態でしょう。
二元性の世界を生みだす、大本の原因だと思われます。
見る、嗅ぐ、聴く、触る、味わう、意識する、という感覚が、すべて無常であって、苦であって、ゆえに我でない。
この『肉体』という名称があり、『肉体』という形態がある。
これは無常である、無常であるから苦である、苦であるものは滅するのであるから、我ではないのです。
ここに意識も含まれている。
しかし、意識を、止滅させていないと、意識と、肉体とを分けて、意識が肉体と分離して離れるということが起こる。
これが、僕の間違いであった!
意識は、肉体であり、肉体は、意識であるとブッダさんが言っているとおり、ここも二つではないのだ。
肉体と意識が残り無く滅するというのは、無常であるから、滅すると知ることである。
こうなってくると、生は、我ではないものばかり、つまり諸法無我である。
現実に、この、識別作用を持ち込まないようにするということは『あるがままに生きる』と言うことですね。
この『あるがままに生きる』というのが仏教にとっても最高の正等覚でしょう。
例えば、あらゆるガラクタ観念に包まれた、私の意識、記憶と現実の世界にある五感、物質的肉体、世界、などは、全て、あらゆるものが、私ではないということなのです。
意識をこっち側において、あっち側の世界を観察するというわけではない。
あっち側の世界から、意識が、こっち側の世界へと向かうというわけでもない。
あっち側も、こっち側も、ないのである。
更に、ブッダ的に表現するならば、その、あっち側とこっち側の中間、というものもないのである。
こうなったときに、我の全てが滅して、清々しいこと、この上なし!!!!
この秘訣は、作為を捨てることだと個人的に、今は、感じます。
このように『あるがまま』という言葉を聞いた人が、『あるがまま』というのは、このような意識状態だ、とか、このような行為だとか、識別して、こっちとあっち、つまり縁起が生じているのである。
この縁起を滅することによって解脱が実現されるのだ。
この縁起の世界は、無明によって生まれているのだが、この無明とは『四諦八正道』を知らないことである。
作為を止滅させて、ただ志向性なく、意志無く、ただ、あるがままに、無所有の境地にあるとき、あなたは世界に光輝を見る!
人気ブログランキングへ←滅するが故に押して下さい、笑
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
人気ブログランキングへ←無分別!
こんにちは!
光の世界に最誕生した、無分別の境地にあられる皆様。
昨日から色々と学んだ豊田です。
CMは長々と書くのも疲れてきたので、前のように上部に置いておきました。
宜しくお願いします、笑
さて識別作用が止滅することによって、名称と形態が滅するとブッダさんが言いますが、これが光の世界への招待状です。
識とは意識のことですね。
この意識は、行いがあるから生まれてくると言います。
身の行い、口の行い、心の行い、つまり、意志の動きがあるので、ここに意識が生まれ、この意識が五感を通して、肉体を存在させているものである。
ここで識別作用とは、この各々の名称と形態を意識と対立させて認識している状態でしょう。
二元性の世界を生みだす、大本の原因だと思われます。
見る、嗅ぐ、聴く、触る、味わう、意識する、という感覚が、すべて無常であって、苦であって、ゆえに我でない。
この『肉体』という名称があり、『肉体』という形態がある。
これは無常である、無常であるから苦である、苦であるものは滅するのであるから、我ではないのです。
ここに意識も含まれている。
しかし、意識を、止滅させていないと、意識と、肉体とを分けて、意識が肉体と分離して離れるということが起こる。
これが、僕の間違いであった!
意識は、肉体であり、肉体は、意識であるとブッダさんが言っているとおり、ここも二つではないのだ。
肉体と意識が残り無く滅するというのは、無常であるから、滅すると知ることである。
こうなってくると、生は、我ではないものばかり、つまり諸法無我である。
現実に、この、識別作用を持ち込まないようにするということは『あるがままに生きる』と言うことですね。
この『あるがままに生きる』というのが仏教にとっても最高の正等覚でしょう。
例えば、あらゆるガラクタ観念に包まれた、私の意識、記憶と現実の世界にある五感、物質的肉体、世界、などは、全て、あらゆるものが、私ではないということなのです。
意識をこっち側において、あっち側の世界を観察するというわけではない。
あっち側の世界から、意識が、こっち側の世界へと向かうというわけでもない。
あっち側も、こっち側も、ないのである。
更に、ブッダ的に表現するならば、その、あっち側とこっち側の中間、というものもないのである。
こうなったときに、我の全てが滅して、清々しいこと、この上なし!!!!
この秘訣は、作為を捨てることだと個人的に、今は、感じます。
このように『あるがまま』という言葉を聞いた人が、『あるがまま』というのは、このような意識状態だ、とか、このような行為だとか、識別して、こっちとあっち、つまり縁起が生じているのである。
この縁起を滅することによって解脱が実現されるのだ。
この縁起の世界は、無明によって生まれているのだが、この無明とは『四諦八正道』を知らないことである。
作為を止滅させて、ただ志向性なく、意志無く、ただ、あるがままに、無所有の境地にあるとき、あなたは世界に光輝を見る!
人気ブログランキングへ←滅するが故に押して下さい、笑
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます