こんばんは。
優しい沈黙の中で新鮮な果実のように輝く皆様!
本日は15時に起床して座禅1時間、無事に終えることができました。
感覚の麻痺が凄いですね。
自分で、できると思っていれば、できていないと思っておくのが賢明です。
妄念や姿勢の悪さも酷いですが、やることは帰ることしかないのだら、地味に、ジワジワと攻めて行きましょうかね。
よい効果ももちろんありますが、一番はハートの静粛さだろうと思います。
落ち着いて安心することですね。
座禅を終えてからは『奇蹟を求めて』を1時間くらい読書します。
厳しさと温かみが同居している。
真理に触れたときに人は、これは、間違いなく、心に響きます。
どこかに引っかかるので、これは、本当だと感じてしまうのです。
どうして、そう感じるのか、まだ理解もできていないことなのだが、深い部分の自分が、その真理の声を聞いているのかもしれませんね。
人間は自分は1人だと思っていますが、本当は、何人もいます。
この何人もいる状況に依存したキャラである自分、演技している自分とは別に、本質の心というものが胸の奥、心臓、魂のある場所にいます。
普段は、ここが眠っているので、まったく自分だなんて思えません。
だから自分が何かすることによって、魂が覚醒するのだと思っている。
でも、この自分は、道具としての人格、思考・感情能力を一時的に操っている刹那の自己でしかないので、この自分が、手放されないと魂には気がつきません。
無理することなく自然にいることで、あるがままに在ることで、ここに気がつく。
胸にある自分です。
それは、今まで、自分だと思っていた自分ではありません。
もっと本当に自分なのです。
疑いなく、生まれたときから、自分であり続けた、本当の、本来の自己なのです。
ああ、ここにいたんだw という感じです。
今、自分だと思っている現在自己意識が、この魂に気がつくのが最初ですが、この魂が起きてくると、今度は魂の側が生きることになっていきます。
これが自由です。
奇蹟との出会い、一期一会の生、神との一体性、その他様々にある人間の欲求の解決はここに至ることで実現されると思います。
空気を吸って、吐くまでの一瞬間、留まる、胸の場所に、今は分からない自分がいると感じてみてください。
この自分は眠っているのですが、存在しないわけではありません。
それどころか、この目覚めていると思っている自分よりも親密なる自己なのです。
出会ったら分かるのです。
普段の自分は眠っている中にいると、つまり、起きているのだが眠りの中にいるように、眠りの意識が、自分の世界にあるのだと認識して、その眠りの意識の大本が、胸にある呼吸の接触点であると意識します。
胸がくすぐられるような感覚、温かい感覚、優しい空気感などが現れてきたら、どんどん感じていきます。
現在自己意識が、常に実現している真我に出会いに行くのです。
胸の奥から、今まで忘れていた、とてつもなく柔らかな、愛としか呼びようのないような、親密で、癒される、力が湧き出すのを見つけたら、それが自分です!
最初は現在自己意識は主導権を持っているので、それが、本来の自己であると認識できませんが、沈黙して手放して、ただあることを実践していくと、この魂こそが、私自身であって、本来生きるべき、主人だと分かる、理解する。
こうなったら、なんだってOKですw
ここに至るまでに無我や、様々な自己制御、観察、感じること、愛することなどなどの実践があるのですが、魂に帰ってきたら、今度は、それらをぜーんぶ、捨ててしまえばいいんですよ!
したら!
自由ではないですか?
あるがままの、あなたに、であったら、あるがままでOKなんです。
もう、それ以上、求めていかなくてOKなんです。
やることは終了しましたwwww
精神の道で辿りつく究極点に、もう、あなたは到達しているのです。
ここを踏み外して、外に出ようとするから、また見失うでしょうw
もう終わりなのです、魂を生きだしたら、生きたらいいのですよ。
衝動的に!
ただ、この奇蹟の世界を、楽しんで、自分が自分でいれば、それ以上の快楽はありません。
快楽が必要なのは、魂を見出したい欲求からです。
魂を見つけたら、ここに、いま、そのままの、実際の、あるがままの、自分でいること、でOKなのです。
もう修行してはいけません(爆笑)
まあ要するに、みんな、旅してるけど、最後には救われるようにできてるってことだね!
なにもかもが、完璧だったのだ。
もちろん完璧だから苦楽がないわけではないですよ。
昨日から、もう一段、違う理解が生まれてきて、このハートの奥にある泉が痺れて、そこから、波動があふれてくるようになってしまった。
真理も悟りも、言葉でしかない。
それより、元気っていうのがいいかもしれないなあ(爆笑)
問題ない!
なにも誰も悪い人はいないし、問題もないし、大丈夫!
絶対に大丈夫なんだ。
どんなに不自然で、おかしなことも、すべて必要があって、そこにある。
魂が望むこと、見出されるまでの冒険なのだ。
心を見つけたら、心の重心を見つけたら、そこに、留まることだ。
もう、そこが最終地点なのに、他に探し回るから、見失っているだけなのだ。
望みどおりの人生を、みんな、生きたらいいのだ。
あなたには何の問題もない!!!!
絶対に、至、上、最、高、に素晴らしい存在なのだ!!!!
優しい沈黙の中で新鮮な果実のように輝く皆様!
本日は15時に起床して座禅1時間、無事に終えることができました。
感覚の麻痺が凄いですね。
自分で、できると思っていれば、できていないと思っておくのが賢明です。
妄念や姿勢の悪さも酷いですが、やることは帰ることしかないのだら、地味に、ジワジワと攻めて行きましょうかね。
よい効果ももちろんありますが、一番はハートの静粛さだろうと思います。
落ち着いて安心することですね。
座禅を終えてからは『奇蹟を求めて』を1時間くらい読書します。
厳しさと温かみが同居している。
真理に触れたときに人は、これは、間違いなく、心に響きます。
どこかに引っかかるので、これは、本当だと感じてしまうのです。
どうして、そう感じるのか、まだ理解もできていないことなのだが、深い部分の自分が、その真理の声を聞いているのかもしれませんね。
人間は自分は1人だと思っていますが、本当は、何人もいます。
この何人もいる状況に依存したキャラである自分、演技している自分とは別に、本質の心というものが胸の奥、心臓、魂のある場所にいます。
普段は、ここが眠っているので、まったく自分だなんて思えません。
だから自分が何かすることによって、魂が覚醒するのだと思っている。
でも、この自分は、道具としての人格、思考・感情能力を一時的に操っている刹那の自己でしかないので、この自分が、手放されないと魂には気がつきません。
無理することなく自然にいることで、あるがままに在ることで、ここに気がつく。
胸にある自分です。
それは、今まで、自分だと思っていた自分ではありません。
もっと本当に自分なのです。
疑いなく、生まれたときから、自分であり続けた、本当の、本来の自己なのです。
ああ、ここにいたんだw という感じです。
今、自分だと思っている現在自己意識が、この魂に気がつくのが最初ですが、この魂が起きてくると、今度は魂の側が生きることになっていきます。
これが自由です。
奇蹟との出会い、一期一会の生、神との一体性、その他様々にある人間の欲求の解決はここに至ることで実現されると思います。
空気を吸って、吐くまでの一瞬間、留まる、胸の場所に、今は分からない自分がいると感じてみてください。
この自分は眠っているのですが、存在しないわけではありません。
それどころか、この目覚めていると思っている自分よりも親密なる自己なのです。
出会ったら分かるのです。
普段の自分は眠っている中にいると、つまり、起きているのだが眠りの中にいるように、眠りの意識が、自分の世界にあるのだと認識して、その眠りの意識の大本が、胸にある呼吸の接触点であると意識します。
胸がくすぐられるような感覚、温かい感覚、優しい空気感などが現れてきたら、どんどん感じていきます。
現在自己意識が、常に実現している真我に出会いに行くのです。
胸の奥から、今まで忘れていた、とてつもなく柔らかな、愛としか呼びようのないような、親密で、癒される、力が湧き出すのを見つけたら、それが自分です!
最初は現在自己意識は主導権を持っているので、それが、本来の自己であると認識できませんが、沈黙して手放して、ただあることを実践していくと、この魂こそが、私自身であって、本来生きるべき、主人だと分かる、理解する。
こうなったら、なんだってOKですw
ここに至るまでに無我や、様々な自己制御、観察、感じること、愛することなどなどの実践があるのですが、魂に帰ってきたら、今度は、それらをぜーんぶ、捨ててしまえばいいんですよ!
したら!
自由ではないですか?
あるがままの、あなたに、であったら、あるがままでOKなんです。
もう、それ以上、求めていかなくてOKなんです。
やることは終了しましたwwww
精神の道で辿りつく究極点に、もう、あなたは到達しているのです。
ここを踏み外して、外に出ようとするから、また見失うでしょうw
もう終わりなのです、魂を生きだしたら、生きたらいいのですよ。
衝動的に!
ただ、この奇蹟の世界を、楽しんで、自分が自分でいれば、それ以上の快楽はありません。
快楽が必要なのは、魂を見出したい欲求からです。
魂を見つけたら、ここに、いま、そのままの、実際の、あるがままの、自分でいること、でOKなのです。
もう修行してはいけません(爆笑)
まあ要するに、みんな、旅してるけど、最後には救われるようにできてるってことだね!
なにもかもが、完璧だったのだ。
もちろん完璧だから苦楽がないわけではないですよ。
昨日から、もう一段、違う理解が生まれてきて、このハートの奥にある泉が痺れて、そこから、波動があふれてくるようになってしまった。
真理も悟りも、言葉でしかない。
それより、元気っていうのがいいかもしれないなあ(爆笑)
問題ない!
なにも誰も悪い人はいないし、問題もないし、大丈夫!
絶対に大丈夫なんだ。
どんなに不自然で、おかしなことも、すべて必要があって、そこにある。
魂が望むこと、見出されるまでの冒険なのだ。
心を見つけたら、心の重心を見つけたら、そこに、留まることだ。
もう、そこが最終地点なのに、他に探し回るから、見失っているだけなのだ。
望みどおりの人生を、みんな、生きたらいいのだ。
あなたには何の問題もない!!!!
絶対に、至、上、最、高、に素晴らしい存在なのだ!!!!
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