初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは!
今日は16時50分ごろまで眠っていました。
おかげで時間が無い。
昼間に12時半ごろまで知らずに寝ていて、起きてきて、食事して、ラジオアップしてから、再び、寝ていた。
「ありがとう」と呟きながら、洗面です。
なんとなく気が急いている。
それから座禅を15分しますが、またまた時間が気にかかる。
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また妄想が凄まじい勢いで溢れている。
例えば、集中していると勘違いしても、頭の世界に埋没していて、自分が、空き缶を手に持っていることすら忘れている事もあるよな。
と、そこを見て、今を見ていないww
座禅を終えると、コーヒーを淹れて読書です。
ここでも、またまた、集中力に、かけるのであります。
仕事をきちんとしている事、家のことをしっかりしていることが、もう奉仕、布施になっているのだと書いてある。
お金を喜捨することではない。
それも、あるけれども、ほんとは、生きている、そこで、きちんと与えられた事をこなしていれば、非常に立派な人である。
僕も、そうならねばww
誰の本か忘れましたが『置かれた場所で咲きなさい』というタイトルのものが、流行していましたが、あれも、そうではないかな。
で、読書を終えて、ブログの更新をしています。
智慧という言葉は、まあ「農家の智慧」とか「おばあちゃんの智慧」とか、いろいろ使われていますが、なんというか、難しい言葉ですよね。
これはコツとか、勘とかと近いのではないでしょうか。
まあ、長年やっていると、分かってくる、そういうもの。
正法眼蔵涅槃妙心の無上。
これは智慧の眼が開かれた時に、そこに映るものです。
全世界と空世界とは分かれることなく心に、涅槃に、在る。
しかし、それも分かれていない。
全部一緒に、同時に、ここにあるのである。
それに触れるのが、自我の騒々しい、思いが沈黙したときである。
意識の中に世界が移しこまれている。
これがリアルが、自己を消去している、禅定ですね。
眼の中に全体がある。
そして、その全体を感じているのが、涅槃に在る心。
沈黙のエネルギー。
愛。
まあ、どのようにも表現不可能な、静寂な、自己の本体である。
お釈迦様が華を捻る。
それは眼の蔵にある正法だが、そこは、完全に、繋がっている。
我も人も、ひとつの夢の世界に在るのだ。
実在は、その世界と人間と涅槃を自由自在に行き来している。
形を持たない。
その風のような性質の、わたし、なのである。
そこへ繋がるには、ただ、何かをするのをやめるだけである。
精神の迷いを、沈める。
それをするのは、積もり積もった否定的感情の浄化。
燃焼ではないだろうか。
長年の間に、非常に、傷ついた心の内容物が、阻害している。
あるがままにいることに非常に恐怖している。
それは、体の反応にまで現れているほど顕著である。
徐々に、それを癒していくのだ。
禅定しながら、溢れてくる思いを手放していく。
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは!
今日は16時50分ごろまで眠っていました。
おかげで時間が無い。
昼間に12時半ごろまで知らずに寝ていて、起きてきて、食事して、ラジオアップしてから、再び、寝ていた。
「ありがとう」と呟きながら、洗面です。
なんとなく気が急いている。
それから座禅を15分しますが、またまた時間が気にかかる。
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例えば、集中していると勘違いしても、頭の世界に埋没していて、自分が、空き缶を手に持っていることすら忘れている事もあるよな。
と、そこを見て、今を見ていないww
座禅を終えると、コーヒーを淹れて読書です。
ここでも、またまた、集中力に、かけるのであります。
仕事をきちんとしている事、家のことをしっかりしていることが、もう奉仕、布施になっているのだと書いてある。
お金を喜捨することではない。
それも、あるけれども、ほんとは、生きている、そこで、きちんと与えられた事をこなしていれば、非常に立派な人である。
僕も、そうならねばww
誰の本か忘れましたが『置かれた場所で咲きなさい』というタイトルのものが、流行していましたが、あれも、そうではないかな。
で、読書を終えて、ブログの更新をしています。
智慧という言葉は、まあ「農家の智慧」とか「おばあちゃんの智慧」とか、いろいろ使われていますが、なんというか、難しい言葉ですよね。
これはコツとか、勘とかと近いのではないでしょうか。
まあ、長年やっていると、分かってくる、そういうもの。
正法眼蔵涅槃妙心の無上。
これは智慧の眼が開かれた時に、そこに映るものです。
全世界と空世界とは分かれることなく心に、涅槃に、在る。
しかし、それも分かれていない。
全部一緒に、同時に、ここにあるのである。
それに触れるのが、自我の騒々しい、思いが沈黙したときである。
意識の中に世界が移しこまれている。
これがリアルが、自己を消去している、禅定ですね。
眼の中に全体がある。
そして、その全体を感じているのが、涅槃に在る心。
沈黙のエネルギー。
愛。
まあ、どのようにも表現不可能な、静寂な、自己の本体である。
お釈迦様が華を捻る。
それは眼の蔵にある正法だが、そこは、完全に、繋がっている。
我も人も、ひとつの夢の世界に在るのだ。
実在は、その世界と人間と涅槃を自由自在に行き来している。
形を持たない。
その風のような性質の、わたし、なのである。
そこへ繋がるには、ただ、何かをするのをやめるだけである。
精神の迷いを、沈める。
それをするのは、積もり積もった否定的感情の浄化。
燃焼ではないだろうか。
長年の間に、非常に、傷ついた心の内容物が、阻害している。
あるがままにいることに非常に恐怖している。
それは、体の反応にまで現れているほど顕著である。
徐々に、それを癒していくのだ。
禅定しながら、溢れてくる思いを手放していく。
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