豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

それが人を助けるのであれば愛なのである

2015-12-31 14:41:32 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

過去のあらゆる束縛から自由で在られる皆様。

ただいま母親の家からブログ更新を始めました豊田です。

なんか、時計の秒針を刻む音が、いつもと違う。

カチチチチチチチチと連続音が鳴っている。

前までは、カチッカチッとリズムよく流れていたのに、今は電子音みたいで違和感がある。

昨日、従兄夫婦が遊びに来てくれていて、電池を替えてもらったので、本来の動きになったのだろう。



《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



喉に違和感があり、咳が出る。

口の中がコーヒーやら煙草やら、様々な味の痕跡で気持ち悪い。

外は晴れていて、気持ちのいい風が吹いている。

鳥の鳴き声は感じ取れない。

自動車もいつもより走っている数が少ないのか音がしない。

エアコンが点いていないので、いつもより空気が澄んでいる気がする。


さて本日は11時ごろに起きてきました。

昨夜は南くんとKさんと忘年会をしていたのだが、後半の記憶が全くない……。

非常によろしくありません。

まあ相変わらずのダメ人間ぶりを発揮していたに違いありませんが、どうも、この辺りは治らない。

で、千鶴さんと悠聖に挨拶して洗面を簡単に済ませます。

それから座禅40分ですね。

どうも姿勢が前景になって背中が丸まってしまう。

そして、その姿勢になっている時は、必ず、空想の世界へ羽ばたいており、ハッと気が付くと自分のその縮んだ姿勢が見える。

また背中を立てて、感覚、感情の世界へ戻るが、ハッと気が付くと空想と前傾姿勢ww

「背中曲がってるよ。集中が足りん!」と千鶴さんに指摘される始末、笑

まあ、そう、このかなりの決意がないと、中々、良い姿勢を保ち続けるのは難しい。

相変わらず、足は超痛いですが、最初の組む時と、最後のほどくとき以外は痛みはしない。

なんというか、その状態から外れようとしてしまうので、それを留めておく方が難しい。

足の姿勢を変えるだけで、全身の筋肉の使われ方が変化していて、いつもと違うので、維持できないのだろう。

以前に聞いた話では、下腹の筋肉をつけるのが望ましいらしい。

来年は、それを目標にしよう!

2016年は『下腹の筋肉をつける』wwww


で、座禅を終えると読書なのですが、食事の用意をしてくれたので先に食べます。

豆とか蒟蒻とか牛蒡とか色々入った煮物。

あれって名前あるのかな。

僕って、まったく料理の名前を知らないなあ。

食べ終えてから、煙草が無いのでコンビニへ行く。

千鶴さんがサンドイッチが欲しいというので一緒に買ってきました。

缶コーヒーも一緒に買う。


家へ戻ると悠聖が待ち伏せしていて車に乗り込み、僕の膝の上でハンドルを握る。

エンジンのスタートボタンを押す。

何処で覚えたのか分からないけど、まあ適当に押してるのかもしれない。

また切って、しばらく見ていたけど、早く戻りたいので降ろしたら号泣wwww

家へ戻って千鶴さんに預けて読書です。


どうも熱中できないので、玄関わきで煙草を吸ったり、家の中へ入ったりの繰り返し。

悠聖は、落ち着くことは一時もないほどに動き回る。

昔の人は「赤子ほど動いたら金も儲かる」と言ったらしいが、やっぱりことわざって凄いね。

生活の中から自然と出来てくるものだから、誰かが考えた理論哲学なんかより、よっぽど真をついている。

『為せば成る、為さねば成らぬ何事も』とか、もう神の域ですよねえ。

グルジェフさんも、ことわざに反することは出来るだけ避けながら暮らしていたようだし、先人の智慧を借りるのはいい。


って何の話だっけ?

ああ、新しい宇宙像を読んでいたのだ。

まだまだ続くよ福音書。

今回は慈愛、まあ、憐みについてですね。

子供のように純粋にして、更に、隣人を助けることを色々な例えを用いて表現していますが、これは言ったら、目の前の行為に一挙手一投足に意識的であることであり、その時に、苦の根本となる煩悩の入り込まないように、自我を落とすのである。

それが基本であるが、この自我というのは、よーするに考えのことだ。

どのような考えかというと、自分を中心として他者、社会、自然、地域等々の関係性を推し量る考え方である。

一方は、つまり『憐み』とキリストが表現している態度は、人を助けるという思考である。

助ける人は隣人である。

つまり、あなたを助ける人を愛しなさい、また助けない人も愛しなさいとなるが、この愛は渇愛の愛ではない。

家族愛とか、兄弟愛とか、恋愛、夫婦や親子、また朋友の関係性などで生まれる信頼感のことではないのである。

この愛というのは、困っている人を助ける、人を助けるという行為について、愛と表現しているのだ。

感情的な、しがらみについて表現しているのではない。

だから一見、愛がないように見える行為も、それが人を助けるのであれば『愛』なのである。


で、読書を終えると、千鶴さんと炬燵に入りながらテレビを見て、話していた。

千鶴さんは僕のスマホでツムツムとか、アメーバ―ピグをしている。

悠聖は眠っていったので、隣の部屋へ連れていかれた。

僕は、疲れてゴロゴロ転がっていたが、ブログを書いておかなければと思い、来たのでした。


ああ、そうだ。

読書中は、脇にそれて、やたらと計画を立てようとして千鶴さんに怒られたのだった、笑

「計画通りにはいかん!」とwwww


ではでは皆様、大晦日のイベント、大いに楽しみましょう。

そして除夜の鐘を聞いて108の煩悩に思いをいたし、煩悩の滅するように祈りましょう。

苦を知らず、苦の原因を知らず、苦の滅するを知らず、苦の滅する道を知らない我々に2500年前から開かれた道がある。

苦の滅する道は、煩悩に気が付いて解消していくことである。

そのために禅定がある。

つまり2つが無ければ、実現していかないのだ。

この苦の原理に気が付いたのが、悟りであり、その苦を滅していく道が、修行である。

グルジェフさんは、これを自己意識と否定的感情への良心のショックと表現したのであるが、やることは、ほぼ同じである。

ただし、ひとつだけ違いがある。

それはワークでは、滅すべきはずの自我が余計に立ってしまうことを排除するのが非常に難しいのである。

一方の仏教での、禅定、瞑想の道は、全体が立つので、自我の介入がほぼ不可能である。

この自己が立つか、立たないかが、第4の道と他の道を分けている。

そして、ウスペンスキー等々の知識人は、これらの教えを、密教的観点から道を見ることで、全体が見えなくなっていることに気が付いていない。

木を見て森を見ない。

だからこそ、選ばれし人々というエリート思考が誕生したのだろう。


まあ妄想行き過ぎました、笑


本年も未熟な私を助けて下さった皆様、本当にありがとうございます。

また来年もどうか、親切な皆様と共にありたいと思いますので、宜しくお願いします!

皆様、よいお年を!

最新の画像もっと見る

コメントを投稿