豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

心のそこで

2016-04-14 14:37:12 | 読者に人気の記事
こんにちは。

今日も、だらーっと、昼過ぎに起きてきました豊田です。

このごろは、とあるバーに飲みに出たり、悠聖くんのヤマハデビューを見守ったり、たまに嫁さんとネット越しに喋ったり、花見で馬鹿騒ぎして、みんなのヒンシュクを買ったりしてました。

座禅は、もう、まったく。

でも、今年は、なんか、すげー年だな。

けっこう価値観が、がらっと、変わりました。

20歳くらいまでは、まあ、できが悪い人間だけれども、好きなことには夢中で、ある程度、てきとーにやって、そこから、まあ、馬鹿騒ぎしだして、楽しいことばかりでもないけど、ちょっと特殊な観念で生きてたなあ。

でも、基本、信頼が求めてるもんで、まあ、甘えただっただけって言うww

いろんなところで働いて、いろんなところで遊んで、まー自由きまま、ここに極まれり。

で、こんなブログまで書いて、いろんな人に会っても「なんなんあれ」とか「読んでも意味が分からんのやけど」とか言われると、笑

僕は、けっこう、様々な人に出会ってきたほうだと思いますが、この手の宗教的な情報と、一般の感覚には、ほんとはズレがないんだけれど、専門的な用語とか、自己の特殊な状態に対する思い込みとかで、交流がなくなるんだなあと、そう感じています。

非二元とか、悟りなんていう言葉は、どうも、あやしすぎるのだけれど、思いやりとか、尊重とかの話なら、みんな分かる。

ここの問題点は、宗教的視野が、自分だけの体験によってしまうと、ある状態に依存して、世界との交流が、普通でないようになることです。

例えば、絶対安心の、沈黙が目覚めて、そこから世界との距離をとると、自分は、苦しんでいても、そこに焦点が合うというか、そこが起きてくると、平安である。

しかし、ここで世界との距離を詰めるために、世界が、この沈黙の創造主と、ひとつであると、そこに開いたとして、今度は、世界が、ただ起こりくる無感情な、いや、喜びなのだが、違った種類の喜びで、それは他者とは共有されない。

そして、遂に、そーいった自己の意志による、あれこれをする前に、自然は、自然のままに、何もかもが、これ以上ない、そこで、あるがままに展開しているのであって、いいもわるいもないという理解になっていくが、結局、そーなっても、その見方、世界に対する距離をとっているので、ほんとに生き切るところから、離れている。

この宗教的な観念、スピリチュアルでも、なんでもいいのだが、世界や他者との壁を創り出す、そのような、見方から、他者を自己の理解に引き入れよう、引き入れたいという願望が、生まれてくる。

世界中の宗教が、この見方を尊重して、人間を蔑ろにしてしまい、対立、争いを、している。

諸行無常は真理だが、その言葉を、忘れて、はじめて救われるのだ。

そこに固執して、例えば、そのような見方から、人間関係や生活を疎外するような言動が始まれば、自分にとっても、他人にとっても、弊害になってしまう。

事実は、ある人が、心の底から、他者や自己を、また世界を愛おしく感じて、楽しげに、思いやりをもって、接すれば、そこで、困難が生じたときに諸行無常の、理解によって、救われるとき、その観念を相手に伝わるように、ああ、そうか、自分だけの人生じゃなく、生かされてあるんだと、心底、分かるように、通常の会話、その人、その人との深い心の通い合いがある上で、伝えられなくてはいけない。

それは、信頼がもとになっていて、知識との答え合わせ、謎解きゲームではない。

普段の何気ない会話や、表情や、他者への理解や、そのような普通の付き合いの中での、優しさが基本にあるのだ。

そして、宗教なんか、まったく興味のない、また、その他の、概念的なこだわりのない、人の方が、感情的には、豊富な愛情をもっている。

直に、学んでいるから、概念を通した理解に寄っている人よりも、こころが豊かなのだ。

このような純粋で、信頼できる、気持ちの人たちは、ほとんどいない。

ぼくは、ぼくにとって、それが入ってくる人に出会わなければならなかったのだ。

ほんとうに、素晴らしい人間に出会ったら、人は、疑う気もちが、消えていく。

なぜなら、ほんとうに、自己がどのように振る舞いをしても、これらの素晴らしい人は、心の底からの優しさが揺らがないからなのだ。

揺らがない思いは、人格にあるのではなくて、本質にある。

この本質が、どのような奇跡なのか、自然に美しい人が存在するのだ!

このような人に救われるのは、考え方を教えられたとか、何からの意識の変化を感じたとか、そーいうものではない。

ただ、こころの繋がりなのだ。

オープンで、限りない優しさをもっている、その人の言葉や行為、姿勢が、疑いをすべて、根こそぎ、持ち去ってしまう。

長く書きすぎて、何が言いたいのか、わからなくなってきたww

そーそー、だから、大事なのは、その場での、自己の発現であって、概念ではないし、特殊な意識の状態ではないのだ。

それらはテクニックなのだ。

そのような、意識的努力が、自己の閉鎖性を除き去って、しまうことに有効ならば、いいのだが、自分の経験では、それらは、最初の、本質の傾向に、影響を及ぼさない限り、弊害である。

存在に開く、とか、自己を救うのは、他者に対する思いやりがなく、ただ、そこに留まるならば、自分だけの自己満足である。

まして概念を与えて、人を、ある境地に導くことで、幸せの伝搬を目指すのは、逆に、集団と集団の対立や無関心を生み出す。

単純な、こころの通い合った関係性の中で、他者を大事にできる、には、心の底から、信頼できる、愛しく思う、もしくは、楽しんだり、悩んだりが、通常の感性の中で、起こらなければならない。

考えで強制したものは、役に、立たない。

ほんとうに心が触れたら、その人の存在、が、ネガティヴな感情を押し流してしまう。

ここで、僕は、成長しなくてはいけない。

偽物の、こころの傾向の変化を伴わない理解には意味がない。

感情の奥底から、溢れるような、深く、揺るがない、そのような、質において、変化する。

少しずつ、そちらへ行こう。

それが、ぼくの、償いきれないほどの罪への、また、返しきれない温情に対する、少しでもの、感謝になるように。

ここに書いても、しかたないが、とにかく、このことに気づかせてくれた、おそらく、人生ではじめての、普通の人、人間である人、心の温かい人に、ありがとう。

めちゃくちゃ、感謝!

なんか、今日のは、むちゃ長いし、かなり恥ずかしいけど、このまま載せますw

ほいでわー


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