こんばんは。
深夜に起きてしまった豊田です。
生活も自分のこころも、バタバタしていて、安定感に欠けますね。
やることが多すぎるw
まあ自分の蒔いた種を刈り取らねばならない。
今は、飴なめながら、タバコ吸ったり、麦茶のんだりしている。
時計の秒針の音がはっきり聞こえてくる。
さて、前回、更新してから、座禅、読書を久しぶりにしましたが、まあ、落ち着きますね。
深夜にやって朝方まで起きていて仕事。
なんかラインにはまってしまってるけど、休憩時間はなかなかできない。
メールより依存度高いよなあライン。
なんか話している気分になるから、さみしさが、紛れる。
ここまで寂しがりじゃないはずなんだけど、ここんとこの状況が、そーさせるw
仕事終わってから、南くんと、あと最近知り合った人で名古屋へ。
ファミレスで食事する。
このブログの会話もする笑
そこで、これまた、ある人と、合流し、ほんの少しだけ会話した。
帰宅したのが4時ごろww
爆睡して、仕事ですな。
帰ってから、母親の作った? 鶏肉とサラダで食事していると、南くんから連絡あり。
家へ戻って、少し喋って、ラインしてたら、寝てしまっていた。
で、今。
ちょこっとだけ、この3ヶ月余りの暴走から目が覚めだしてきたかもしれない。
そーいや、僕がなんかの宗教に入っているみたいに思われることが、ありそうだけど、このネタ、前にも書いたけど、ぼくは実家が檀家制度で属している天台真盛宗以外は、別に、なんらかの団体に属していません。
今はね。
瞬間的には、あったけど、ぼくは、個人的に信仰するものがあるだけなのですw
ちゅーか、こういうのって、信じるのは、最初だけで、後は、自分自身で確かめるものです。
別に、なんか、特別な、ことをしているわけじゃなくて現実世界と自己の関係性を見ているだけだし、神道も仏教もキリスト教も、アプローチが違うだけで似た部分が、たくさんある。
いのちあるものを大切に。
という言葉が、よく、お寺なんかに書いてあったりするが、そーゆー、思いやり、人に優しくすることが基本なのだ。
宗教に興味がでるきっかけは、無常観か、罪悪感であるとゆわれる。
家族を亡くすとかで、世の中の儚さを知る。
または、家族に迷惑ばかりかけて、自分勝手にしていたのが、突然、それが原因で、なんらかの不幸があったりする。
こういった過酷なシーンで、今まで信じていた世界が、実は、何もわからないことを知る。
生まれること、老いること、病になること、しんでいくこと。
これらは、自己のコントロール外にある。
まあ、こーいった世界に対する失望から、ほんとうに真理を探究する欲望が湧き上がる。
別に、なんらかの団体にいるのが宗教ではなく、宗教は、自己の奥深くにある魂の、叫びのようなもので、その気持ちの根幹を揺さぶる、どうしようもない自由への、はたまた、統一への、動きなのであり、だれでももっているものなのだ。
て、まあ、長く書きすぎたw
クリシュナムルティが教団解散させたり、お釈迦様は、ただひとり歩めと教えたりしているように、団体に所属すること、と、宗教性は、関係性が薄い。
まあ、いいやw
たまに、ぼくが、ゆわれるんで、書いときました。
真理って、現実と別にある訳じゃないよ笑
まあねー異常に高ぶった状態で瞑想して、奇跡的な体験があったりすることも、あるかもだけど、そーゆーんとは違う。
見ていると思っていた私が実は公共のものだったということなのです爆笑
天下のもの。
そして、このような理解は、実際現実的な快楽を得る手段としては、まったく使えませんww
ある意味、そーゆーのも、あるか。
でも、この事実に、あたまだけじゃなく、全身全霊で理解しなくてはならない。
ここは、非常に難しい。
感受性とか本能が、そして、感情が変性しなくてはならないのだ。
一体、言葉をもたない感情が、このような高度のことを理解できるだろうか。
しかし、人間の運命を形にしているのは、感情の働きである。
一番大きい。
見栄やらプライドで動くか、ひとを愛して動くかでは全く違う現象を見る。
つかれたので、今日は、こんなとこでw
深夜に起きてしまった豊田です。
生活も自分のこころも、バタバタしていて、安定感に欠けますね。
やることが多すぎるw
まあ自分の蒔いた種を刈り取らねばならない。
今は、飴なめながら、タバコ吸ったり、麦茶のんだりしている。
時計の秒針の音がはっきり聞こえてくる。
さて、前回、更新してから、座禅、読書を久しぶりにしましたが、まあ、落ち着きますね。
深夜にやって朝方まで起きていて仕事。
なんかラインにはまってしまってるけど、休憩時間はなかなかできない。
メールより依存度高いよなあライン。
なんか話している気分になるから、さみしさが、紛れる。
ここまで寂しがりじゃないはずなんだけど、ここんとこの状況が、そーさせるw
仕事終わってから、南くんと、あと最近知り合った人で名古屋へ。
ファミレスで食事する。
このブログの会話もする笑
そこで、これまた、ある人と、合流し、ほんの少しだけ会話した。
帰宅したのが4時ごろww
爆睡して、仕事ですな。
帰ってから、母親の作った? 鶏肉とサラダで食事していると、南くんから連絡あり。
家へ戻って、少し喋って、ラインしてたら、寝てしまっていた。
で、今。
ちょこっとだけ、この3ヶ月余りの暴走から目が覚めだしてきたかもしれない。
そーいや、僕がなんかの宗教に入っているみたいに思われることが、ありそうだけど、このネタ、前にも書いたけど、ぼくは実家が檀家制度で属している天台真盛宗以外は、別に、なんらかの団体に属していません。
今はね。
瞬間的には、あったけど、ぼくは、個人的に信仰するものがあるだけなのですw
ちゅーか、こういうのって、信じるのは、最初だけで、後は、自分自身で確かめるものです。
別に、なんか、特別な、ことをしているわけじゃなくて現実世界と自己の関係性を見ているだけだし、神道も仏教もキリスト教も、アプローチが違うだけで似た部分が、たくさんある。
いのちあるものを大切に。
という言葉が、よく、お寺なんかに書いてあったりするが、そーゆー、思いやり、人に優しくすることが基本なのだ。
宗教に興味がでるきっかけは、無常観か、罪悪感であるとゆわれる。
家族を亡くすとかで、世の中の儚さを知る。
または、家族に迷惑ばかりかけて、自分勝手にしていたのが、突然、それが原因で、なんらかの不幸があったりする。
こういった過酷なシーンで、今まで信じていた世界が、実は、何もわからないことを知る。
生まれること、老いること、病になること、しんでいくこと。
これらは、自己のコントロール外にある。
まあ、こーいった世界に対する失望から、ほんとうに真理を探究する欲望が湧き上がる。
別に、なんらかの団体にいるのが宗教ではなく、宗教は、自己の奥深くにある魂の、叫びのようなもので、その気持ちの根幹を揺さぶる、どうしようもない自由への、はたまた、統一への、動きなのであり、だれでももっているものなのだ。
て、まあ、長く書きすぎたw
クリシュナムルティが教団解散させたり、お釈迦様は、ただひとり歩めと教えたりしているように、団体に所属すること、と、宗教性は、関係性が薄い。
まあ、いいやw
たまに、ぼくが、ゆわれるんで、書いときました。
真理って、現実と別にある訳じゃないよ笑
まあねー異常に高ぶった状態で瞑想して、奇跡的な体験があったりすることも、あるかもだけど、そーゆーんとは違う。
見ていると思っていた私が実は公共のものだったということなのです爆笑
天下のもの。
そして、このような理解は、実際現実的な快楽を得る手段としては、まったく使えませんww
ある意味、そーゆーのも、あるか。
でも、この事実に、あたまだけじゃなく、全身全霊で理解しなくてはならない。
ここは、非常に難しい。
感受性とか本能が、そして、感情が変性しなくてはならないのだ。
一体、言葉をもたない感情が、このような高度のことを理解できるだろうか。
しかし、人間の運命を形にしているのは、感情の働きである。
一番大きい。
見栄やらプライドで動くか、ひとを愛して動くかでは全く違う現象を見る。
つかれたので、今日は、こんなとこでw
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