初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようございます。
今日は9時ごろに起きてきました。
眠りすぎなのか、疲れすぎなのか、体が重い。
母親の家で食事をしてから、読み返している『すべて愛の中にある』を眺める。
だいたい理解した。
ぼうっと気力の抜け切った、抜け殻のようになる。
ネットを、いつものようにブログを眺める。
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たくさんの人たちのメッセージ。
それぞれに、それぞれの「想い」が込められている。
成功したい人、優しさを伝えたい人、真理へ導きたい人、笑いあいたい人。
オリジナルな個性が、そこに、溢れている。
だが、そこには、全体としての表現が、伴っているのだ。
2015年、なぜか、今年は何かあるのではないかと思っていた。
なぜなら、1997年、2006年と数秘術的に8の年は、何か、幸運が訪れることが、多かったからである。
人生の方向性を変えてしまうような、幸運。
それは、まあ、気のせいなのだろう。
しかし、まあ、1977年7月13日生まれの僕の、運命数が8である。
かといって、1979年や、1988年に何かあったのかと言われれば、全く記憶にないなあwwww
まあ、今のところ、気のせいかな。
しかし、全てが、この全体性の表現だとするならば、天体の法則が、地球に影響を及ぼし、その気候変動が、また海の満ち欠けが、人間の心理に変化をもたらし、集団的な、なんらかの動きが生まれてくるというのも、ありうるかもね。
もしかしたら、狂気をもたらす、満月の力(ルナティック)もあるかもしれない。
想像するしかないけど、それは、可能性を捨てるわけにもいかないだろう。
全体が個と分かれていないのだから、個人の行為というものは、完全に縁起しているのだから、ひとつだけを切り抜くわけにはいかない。
対象としての自己の不在性。
これが歴代の覚者の語ってきた事である。
すごい虚無感と共に、それが、まあ、現れている。
嫁様と喧嘩したのと同時に、あの『すでに愛の中にある』を読む。
このタイミングで!
だから、これが、単なる、気のせいなのか、自己の不在性に気づいたためなのか、分からない。
ある一方の観点から見れば、これは、空のキャンバスに描かれた、全体の表現ではあるわけであるが、このキャンバス内の自己に焦点を当てれば、それが、虚無感である。
苫米地博士の空観と仮観と中観の話を思い出す。
つまり、空観に傾きすぎるとカルト危険思想が生まれ、仮観に傾きすぎると暴力性と戦争が生まれてくる。
その中観、は、空を捉えながらも、仮の世界に生きている。
人間の世界である。
涅槃とこの世との間に、鏡に映されし、人の世界がある。
3つの世界だ。
これは瞑想によって生まれる「何か」と普段の感覚世界、そして、その両方を映し出している、鏡としての、感光版としての人間の機能である。
普段は仮観の世界しか認識していない、それで、次に、空の世界を認識する。
そのあとで、鏡を見るわけだが、その鏡は、全体を反映している。
その反映している中心点、これの、有無が、違いだったのである。
中心点の対照としての自己意識、自己感覚、こういったもの、が、全体の、生命と分断されていない1枚の写真のようなものなのだ。
丁度、大和田菜穂さんのホームページの写真のように、一枚の鏡。
その中心に映っている彼女はいないのである。
つまり、周囲と、彼女は、分断されず、1枚の写真である。
そして、それが、ただの生命の描写であり、実際は、無限に現れている、瞬間、瞬間の移ろいであるわけだ。
ですから、すでに、そこにずっと在る。
在るというのは、それ、が在るのであって、それというのは全体と空の饗宴の事である。
真我の目覚めというのは、この、全体世界の中で眠っている自分に気がつくことである。
主人が居ない、空っぽなのは、眠っているからなのだ。
だから私は存在しないという発言に対してジャンヌ・ド・サルツマンが「あなたは存在しないのですか? それは残念!」と言い放ったのである。
それは、自分を生きることであり、自分を生きることは苦しい事である。
しかし、この苦しみしかない一切行苦の中で、諸行無常の中で、清浄なる我、つまりスピリットとしての「真の私」が誕生し、その、魂の体が、創造主、つまり偉大なるクリエイターの一部分として、融合する事、フュージョンする事が、真の救いである。
そこでは、鏡としての認識とか、眠れる我だとか、超越意識とか、ないのだ。
ただ、目の前のリアルが、単なる平凡な、日常が、ある。
特別な認識としての自己は、いない。
ただ、その、全体の中の、自然の、生まれたままの自分である。
涅槃も、現実も、人間も、あるがままに、最初から、そこで、生きている。
そして花が散るように、悲しみの中で散っていく。
一休さんの「死にとうない」という言葉、これこそが、真実である。
トリックはない。
仕掛けとか、トリックとか、完全なる平穏は、それは、認識の偏向である。
それらの考え、また、体験が、救いであるとするならば、教義が生まれ、主義が生まれ、特別な私が生まれ、そして、社会との対立が生まれる。
それはキリスト教の歴史を見れば、明らかである。
これは認識の変更ではないのである。
スピリチュアルの分野で言われている事は、主に、この体験の共有だろう。
曰く、ワンネス体験である、真我実現である、超越意識、悟り、引き寄せ、真の幸福、超人の世界、超能力、UFO、宇宙人との邂逅、霊体験、死後の世界、涅槃体験、絶対安心の境地などなど、様々に書かれている。
これらの目指すところは、現状の自己からの脱却である。
しかし、人は、一時たりとも、この真理から離れていないのだ。
だから、本当は、導かれる必要がないのだ。
そこに、さあ、これこれを読みなさい、瞑想をしなさい、今のあなたは、ほんとうの自己ではないが、これをすれば、あなたは真の「幸福に」幸運に預かるだろう。
という馬に人参をぶら下げるような、ことで、真の自己に帰らせようとする。
しかし、真の自己とは「あるがままの」自己である。
そこには清浄なものがあるだけではない。
醜い姿も、清浄な姿もあるし、喜びも悲しみもある、それで、絶対安心の世界もある。
これが、カオスの生命なのである。
カオスというのは理解が不可能なものであるが、もう、すでに、そこにあるのだ。
だから、あの人は、悟っている、でも、僕は、まだまだ、なんてことは絶対に、ありえないのである。
正に、すでに愛の中にある。
しかし、言葉の捉え方は、人、様々である。
もしも、全人類が、この対象の不在を悟ったとしても、何も変わらないだろう。
まあ、そのようなことは、ありえるとは、とても思えないわけですが・・・・・・。
本当に、人を助ける人は、内面の声を聴いてくれます。
その人、その人によって、事情が違い、悩みは違うはずです。
だから一般の、全員に通用する教え、というのは、難しいと思うのです。
間違っているというわけではありません。
ああいった、お話は、ほとんど全部が、本当のことが書いてあります。
実は究極の真理は必要ないのです。
それは、厳然として、明白に現れているものであり、それが悩み、存在の不安になっている人にとってだけ必要なものである。
必要なのは体のリラックスです。
体と心は、繋がっていて、心の病が、体に影響していたら、心を癒す事も必要ですね。
だから、対象の不在は、究極の安心ですが、それは、ひとつのアイデアです。
たぶん、認識の変更なのです、これは。
お寺の和尚さんが、人を悩ますようなことを言うのはよくない。
社会での悩みを解消して、笑顔で、楽しく、人生を過ごすことが究極だと思います。
まあ、僕みたいに偏屈な人間には、覚者はとても救いになるわけですが(苦笑)
何か特別な体験、経験をする前に、もう、そこに自然はあるでしょう。
意識を高めなくても、そこに、花は咲くでしょう。
それは生命の力が、最初から、そこで、自分が何かする前に、在るからです。
在るからなのです。
自然なる喜びは、どこにあるでしょう。
一生懸命、苦しみながら、生きている人々、その人たちとの交流の中にある。
また自然との交流の中にある。
自分が、自分として、あることの中に、ぜんぶ現れているんです。
ひとつの特別な状態に、導く事ではなく。
ただ、あるがまま、このまま、そのまんまの自分です。
それが、自然と縁起して、ここにある。
在るのは、意図して、在るわけではありません。
最初から、オリジナルに、豊田真大として、つまり、この名前の指し示す、人間として、ここに咲いているんですね。
まるで、樹が風に吹かれているように、在るだけです。
自然に、咲いて、自然に、帰る。
諸行無常の中で、すべては、現れては消えていく。
瞬間の贈り物なのです。
死は避けられないが、僕は、いま、この日常のリアルに、在るのです。
正に、ライフはミラクルですww
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
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今日は9時ごろに起きてきました。
眠りすぎなのか、疲れすぎなのか、体が重い。
母親の家で食事をしてから、読み返している『すべて愛の中にある』を眺める。
だいたい理解した。
ぼうっと気力の抜け切った、抜け殻のようになる。
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たくさんの人たちのメッセージ。
それぞれに、それぞれの「想い」が込められている。
成功したい人、優しさを伝えたい人、真理へ導きたい人、笑いあいたい人。
オリジナルな個性が、そこに、溢れている。
だが、そこには、全体としての表現が、伴っているのだ。
2015年、なぜか、今年は何かあるのではないかと思っていた。
なぜなら、1997年、2006年と数秘術的に8の年は、何か、幸運が訪れることが、多かったからである。
人生の方向性を変えてしまうような、幸運。
それは、まあ、気のせいなのだろう。
しかし、まあ、1977年7月13日生まれの僕の、運命数が8である。
かといって、1979年や、1988年に何かあったのかと言われれば、全く記憶にないなあwwww
まあ、今のところ、気のせいかな。
しかし、全てが、この全体性の表現だとするならば、天体の法則が、地球に影響を及ぼし、その気候変動が、また海の満ち欠けが、人間の心理に変化をもたらし、集団的な、なんらかの動きが生まれてくるというのも、ありうるかもね。
もしかしたら、狂気をもたらす、満月の力(ルナティック)もあるかもしれない。
想像するしかないけど、それは、可能性を捨てるわけにもいかないだろう。
全体が個と分かれていないのだから、個人の行為というものは、完全に縁起しているのだから、ひとつだけを切り抜くわけにはいかない。
対象としての自己の不在性。
これが歴代の覚者の語ってきた事である。
すごい虚無感と共に、それが、まあ、現れている。
嫁様と喧嘩したのと同時に、あの『すでに愛の中にある』を読む。
このタイミングで!
だから、これが、単なる、気のせいなのか、自己の不在性に気づいたためなのか、分からない。
ある一方の観点から見れば、これは、空のキャンバスに描かれた、全体の表現ではあるわけであるが、このキャンバス内の自己に焦点を当てれば、それが、虚無感である。
苫米地博士の空観と仮観と中観の話を思い出す。
つまり、空観に傾きすぎるとカルト危険思想が生まれ、仮観に傾きすぎると暴力性と戦争が生まれてくる。
その中観、は、空を捉えながらも、仮の世界に生きている。
人間の世界である。
涅槃とこの世との間に、鏡に映されし、人の世界がある。
3つの世界だ。
これは瞑想によって生まれる「何か」と普段の感覚世界、そして、その両方を映し出している、鏡としての、感光版としての人間の機能である。
普段は仮観の世界しか認識していない、それで、次に、空の世界を認識する。
そのあとで、鏡を見るわけだが、その鏡は、全体を反映している。
その反映している中心点、これの、有無が、違いだったのである。
中心点の対照としての自己意識、自己感覚、こういったもの、が、全体の、生命と分断されていない1枚の写真のようなものなのだ。
丁度、大和田菜穂さんのホームページの写真のように、一枚の鏡。
その中心に映っている彼女はいないのである。
つまり、周囲と、彼女は、分断されず、1枚の写真である。
そして、それが、ただの生命の描写であり、実際は、無限に現れている、瞬間、瞬間の移ろいであるわけだ。
ですから、すでに、そこにずっと在る。
在るというのは、それ、が在るのであって、それというのは全体と空の饗宴の事である。
真我の目覚めというのは、この、全体世界の中で眠っている自分に気がつくことである。
主人が居ない、空っぽなのは、眠っているからなのだ。
だから私は存在しないという発言に対してジャンヌ・ド・サルツマンが「あなたは存在しないのですか? それは残念!」と言い放ったのである。
それは、自分を生きることであり、自分を生きることは苦しい事である。
しかし、この苦しみしかない一切行苦の中で、諸行無常の中で、清浄なる我、つまりスピリットとしての「真の私」が誕生し、その、魂の体が、創造主、つまり偉大なるクリエイターの一部分として、融合する事、フュージョンする事が、真の救いである。
そこでは、鏡としての認識とか、眠れる我だとか、超越意識とか、ないのだ。
ただ、目の前のリアルが、単なる平凡な、日常が、ある。
特別な認識としての自己は、いない。
ただ、その、全体の中の、自然の、生まれたままの自分である。
涅槃も、現実も、人間も、あるがままに、最初から、そこで、生きている。
そして花が散るように、悲しみの中で散っていく。
一休さんの「死にとうない」という言葉、これこそが、真実である。
トリックはない。
仕掛けとか、トリックとか、完全なる平穏は、それは、認識の偏向である。
それらの考え、また、体験が、救いであるとするならば、教義が生まれ、主義が生まれ、特別な私が生まれ、そして、社会との対立が生まれる。
それはキリスト教の歴史を見れば、明らかである。
これは認識の変更ではないのである。
スピリチュアルの分野で言われている事は、主に、この体験の共有だろう。
曰く、ワンネス体験である、真我実現である、超越意識、悟り、引き寄せ、真の幸福、超人の世界、超能力、UFO、宇宙人との邂逅、霊体験、死後の世界、涅槃体験、絶対安心の境地などなど、様々に書かれている。
これらの目指すところは、現状の自己からの脱却である。
しかし、人は、一時たりとも、この真理から離れていないのだ。
だから、本当は、導かれる必要がないのだ。
そこに、さあ、これこれを読みなさい、瞑想をしなさい、今のあなたは、ほんとうの自己ではないが、これをすれば、あなたは真の「幸福に」幸運に預かるだろう。
という馬に人参をぶら下げるような、ことで、真の自己に帰らせようとする。
しかし、真の自己とは「あるがままの」自己である。
そこには清浄なものがあるだけではない。
醜い姿も、清浄な姿もあるし、喜びも悲しみもある、それで、絶対安心の世界もある。
これが、カオスの生命なのである。
カオスというのは理解が不可能なものであるが、もう、すでに、そこにあるのだ。
だから、あの人は、悟っている、でも、僕は、まだまだ、なんてことは絶対に、ありえないのである。
正に、すでに愛の中にある。
しかし、言葉の捉え方は、人、様々である。
もしも、全人類が、この対象の不在を悟ったとしても、何も変わらないだろう。
まあ、そのようなことは、ありえるとは、とても思えないわけですが・・・・・・。
本当に、人を助ける人は、内面の声を聴いてくれます。
その人、その人によって、事情が違い、悩みは違うはずです。
だから一般の、全員に通用する教え、というのは、難しいと思うのです。
間違っているというわけではありません。
ああいった、お話は、ほとんど全部が、本当のことが書いてあります。
実は究極の真理は必要ないのです。
それは、厳然として、明白に現れているものであり、それが悩み、存在の不安になっている人にとってだけ必要なものである。
必要なのは体のリラックスです。
体と心は、繋がっていて、心の病が、体に影響していたら、心を癒す事も必要ですね。
だから、対象の不在は、究極の安心ですが、それは、ひとつのアイデアです。
たぶん、認識の変更なのです、これは。
お寺の和尚さんが、人を悩ますようなことを言うのはよくない。
社会での悩みを解消して、笑顔で、楽しく、人生を過ごすことが究極だと思います。
まあ、僕みたいに偏屈な人間には、覚者はとても救いになるわけですが(苦笑)
何か特別な体験、経験をする前に、もう、そこに自然はあるでしょう。
意識を高めなくても、そこに、花は咲くでしょう。
それは生命の力が、最初から、そこで、自分が何かする前に、在るからです。
在るからなのです。
自然なる喜びは、どこにあるでしょう。
一生懸命、苦しみながら、生きている人々、その人たちとの交流の中にある。
また自然との交流の中にある。
自分が、自分として、あることの中に、ぜんぶ現れているんです。
ひとつの特別な状態に、導く事ではなく。
ただ、あるがまま、このまま、そのまんまの自分です。
それが、自然と縁起して、ここにある。
在るのは、意図して、在るわけではありません。
最初から、オリジナルに、豊田真大として、つまり、この名前の指し示す、人間として、ここに咲いているんですね。
まるで、樹が風に吹かれているように、在るだけです。
自然に、咲いて、自然に、帰る。
諸行無常の中で、すべては、現れては消えていく。
瞬間の贈り物なのです。
死は避けられないが、僕は、いま、この日常のリアルに、在るのです。
正に、ライフはミラクルですww
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