豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

あなたは存在している!!

2015-06-08 10:08:01 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

今日は9時ごろに起きてきました。

眠りすぎなのか、疲れすぎなのか、体が重い。

母親の家で食事をしてから、読み返している『すべて愛の中にある』を眺める。

だいたい理解した。

ぼうっと気力の抜け切った、抜け殻のようになる。

ネットを、いつものようにブログを眺める。



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たくさんの人たちのメッセージ。

それぞれに、それぞれの「想い」が込められている。

成功したい人、優しさを伝えたい人、真理へ導きたい人、笑いあいたい人。

オリジナルな個性が、そこに、溢れている。

だが、そこには、全体としての表現が、伴っているのだ。


2015年、なぜか、今年は何かあるのではないかと思っていた。

なぜなら、1997年、2006年と数秘術的に8の年は、何か、幸運が訪れることが、多かったからである。

人生の方向性を変えてしまうような、幸運。

それは、まあ、気のせいなのだろう。

しかし、まあ、1977年7月13日生まれの僕の、運命数が8である。

かといって、1979年や、1988年に何かあったのかと言われれば、全く記憶にないなあwwww

まあ、今のところ、気のせいかな。


しかし、全てが、この全体性の表現だとするならば、天体の法則が、地球に影響を及ぼし、その気候変動が、また海の満ち欠けが、人間の心理に変化をもたらし、集団的な、なんらかの動きが生まれてくるというのも、ありうるかもね。

もしかしたら、狂気をもたらす、満月の力(ルナティック)もあるかもしれない。

想像するしかないけど、それは、可能性を捨てるわけにもいかないだろう。

全体が個と分かれていないのだから、個人の行為というものは、完全に縁起しているのだから、ひとつだけを切り抜くわけにはいかない。


対象としての自己の不在性。

これが歴代の覚者の語ってきた事である。

すごい虚無感と共に、それが、まあ、現れている。

嫁様と喧嘩したのと同時に、あの『すでに愛の中にある』を読む。

このタイミングで!

だから、これが、単なる、気のせいなのか、自己の不在性に気づいたためなのか、分からない。

ある一方の観点から見れば、これは、空のキャンバスに描かれた、全体の表現ではあるわけであるが、このキャンバス内の自己に焦点を当てれば、それが、虚無感である。


苫米地博士の空観と仮観と中観の話を思い出す。

つまり、空観に傾きすぎるとカルト危険思想が生まれ、仮観に傾きすぎると暴力性と戦争が生まれてくる。

その中観、は、空を捉えながらも、仮の世界に生きている。

人間の世界である。


涅槃とこの世との間に、鏡に映されし、人の世界がある。

3つの世界だ。

これは瞑想によって生まれる「何か」と普段の感覚世界、そして、その両方を映し出している、鏡としての、感光版としての人間の機能である。

普段は仮観の世界しか認識していない、それで、次に、空の世界を認識する。

そのあとで、鏡を見るわけだが、その鏡は、全体を反映している。

その反映している中心点、これの、有無が、違いだったのである。


中心点の対照としての自己意識、自己感覚、こういったもの、が、全体の、生命と分断されていない1枚の写真のようなものなのだ。

丁度、大和田菜穂さんのホームページの写真のように、一枚の鏡。

その中心に映っている彼女はいないのである。

つまり、周囲と、彼女は、分断されず、1枚の写真である。

そして、それが、ただの生命の描写であり、実際は、無限に現れている、瞬間、瞬間の移ろいであるわけだ。

ですから、すでに、そこにずっと在る。

在るというのは、それ、が在るのであって、それというのは全体と空の饗宴の事である。


真我の目覚めというのは、この、全体世界の中で眠っている自分に気がつくことである。

主人が居ない、空っぽなのは、眠っているからなのだ。

だから私は存在しないという発言に対してジャンヌ・ド・サルツマンが「あなたは存在しないのですか? それは残念!」と言い放ったのである。


それは、自分を生きることであり、自分を生きることは苦しい事である。

しかし、この苦しみしかない一切行苦の中で、諸行無常の中で、清浄なる我、つまりスピリットとしての「真の私」が誕生し、その、魂の体が、創造主、つまり偉大なるクリエイターの一部分として、融合する事、フュージョンする事が、真の救いである。

そこでは、鏡としての認識とか、眠れる我だとか、超越意識とか、ないのだ。

ただ、目の前のリアルが、単なる平凡な、日常が、ある。

特別な認識としての自己は、いない。

ただ、その、全体の中の、自然の、生まれたままの自分である。


涅槃も、現実も、人間も、あるがままに、最初から、そこで、生きている。

そして花が散るように、悲しみの中で散っていく。

一休さんの「死にとうない」という言葉、これこそが、真実である。


トリックはない。

仕掛けとか、トリックとか、完全なる平穏は、それは、認識の偏向である。

それらの考え、また、体験が、救いであるとするならば、教義が生まれ、主義が生まれ、特別な私が生まれ、そして、社会との対立が生まれる。

それはキリスト教の歴史を見れば、明らかである。


これは認識の変更ではないのである。

スピリチュアルの分野で言われている事は、主に、この体験の共有だろう。

曰く、ワンネス体験である、真我実現である、超越意識、悟り、引き寄せ、真の幸福、超人の世界、超能力、UFO、宇宙人との邂逅、霊体験、死後の世界、涅槃体験、絶対安心の境地などなど、様々に書かれている。

これらの目指すところは、現状の自己からの脱却である。


しかし、人は、一時たりとも、この真理から離れていないのだ。

だから、本当は、導かれる必要がないのだ。

そこに、さあ、これこれを読みなさい、瞑想をしなさい、今のあなたは、ほんとうの自己ではないが、これをすれば、あなたは真の「幸福に」幸運に預かるだろう。

という馬に人参をぶら下げるような、ことで、真の自己に帰らせようとする。

しかし、真の自己とは「あるがままの」自己である。

そこには清浄なものがあるだけではない。

醜い姿も、清浄な姿もあるし、喜びも悲しみもある、それで、絶対安心の世界もある。

これが、カオスの生命なのである。

カオスというのは理解が不可能なものであるが、もう、すでに、そこにあるのだ。


だから、あの人は、悟っている、でも、僕は、まだまだ、なんてことは絶対に、ありえないのである。

正に、すでに愛の中にある。

しかし、言葉の捉え方は、人、様々である。

もしも、全人類が、この対象の不在を悟ったとしても、何も変わらないだろう。

まあ、そのようなことは、ありえるとは、とても思えないわけですが・・・・・・。


本当に、人を助ける人は、内面の声を聴いてくれます。

その人、その人によって、事情が違い、悩みは違うはずです。

だから一般の、全員に通用する教え、というのは、難しいと思うのです。

間違っているというわけではありません。

ああいった、お話は、ほとんど全部が、本当のことが書いてあります。

実は究極の真理は必要ないのです。

それは、厳然として、明白に現れているものであり、それが悩み、存在の不安になっている人にとってだけ必要なものである。


必要なのは体のリラックスです。

体と心は、繋がっていて、心の病が、体に影響していたら、心を癒す事も必要ですね。

だから、対象の不在は、究極の安心ですが、それは、ひとつのアイデアです。

たぶん、認識の変更なのです、これは。


お寺の和尚さんが、人を悩ますようなことを言うのはよくない。

社会での悩みを解消して、笑顔で、楽しく、人生を過ごすことが究極だと思います。


まあ、僕みたいに偏屈な人間には、覚者はとても救いになるわけですが(苦笑)


何か特別な体験、経験をする前に、もう、そこに自然はあるでしょう。

意識を高めなくても、そこに、花は咲くでしょう。

それは生命の力が、最初から、そこで、自分が何かする前に、在るからです。

在るからなのです。

自然なる喜びは、どこにあるでしょう。

一生懸命、苦しみながら、生きている人々、その人たちとの交流の中にある。

また自然との交流の中にある。

自分が、自分として、あることの中に、ぜんぶ現れているんです。


ひとつの特別な状態に、導く事ではなく。

ただ、あるがまま、このまま、そのまんまの自分です。

それが、自然と縁起して、ここにある。

在るのは、意図して、在るわけではありません。

最初から、オリジナルに、豊田真大として、つまり、この名前の指し示す、人間として、ここに咲いているんですね。

まるで、樹が風に吹かれているように、在るだけです。

自然に、咲いて、自然に、帰る。

諸行無常の中で、すべては、現れては消えていく。

瞬間の贈り物なのです。

死は避けられないが、僕は、いま、この日常のリアルに、在るのです。

正に、ライフはミラクルですww

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