♦️891『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスのEU離脱の国民投票とその後

2018-10-24 19:09:39 | Weblog

891『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスのEU離脱の国民投票とその後

 イギリスのEU離脱の是非を問うイギリスの2015年6月の国民投票の結果は、離脱に賛成が51.9%、残留が48.1%と、小差で離脱が決まった。国民投票の提案者のキャメロン首相は引責辞任し、7月にはメイが保守党の党首となり、後継首相に就任する。

 果たして10月になると、メイ首相は、2017年3月末までにEUからの離脱交渉に入ると明言する。2017年1月には、メイ首相が「EU離脱」の方針を表明する。3月22日、ロンドンの国会議事堂周辺でテロが起こり、40人以上が死傷する。同月の29日には、イギリスはEUからの離脱をEU本部に正式に通知した。

4月18日、メイ首相は総選挙の前倒し実施を表明する。5月22日、イギリス中部マンチェスターのコンサート会場で自爆テロが起こり、80人以上の死傷者が出る。6月3日には、ロンドン橋付近でテロが起き、50人以上の死傷者が出る。

続く6月8日の総選挙の結果では、与党・保守党が過半数割れとなる。保守党内では、経済への打撃を懸念して一定の譲歩を求める声が出ている。6月14日、ロンドンの高層公営住宅で大規模な火災が発生し、死者・行方不明者79人。

 6月19日には、EUとの離脱交渉が開始される。年が明けての2018年、保守党政府の中では、離脱交渉が進まぬことへの不満が増していく。10月3日の保守党大会でメイ首相は、離脱後においては低技能移民労働者の流入を制限する方針を打ち出す。これは、EU域内で認められてきた「人の移動の自由」を打ち切ることを意味しよう。

 続いての同党の党大会では、離脱後も貿易ではEUルールを受け入れるとする政府方針にも、これではEU支配から抜けられず「詐欺だ」との批判が出たという。一方、同党内には親EU派もいて、彼らはEU残留も視野に入れた国民投票の再実施を求めているという。

 2018年9月20日はEU非公式首脳会議の最終日であった。その翌日の記者会見でEU首脳会議のトゥスク常任議長は、イギリスの提案を「うまくいかない」とし、話がまとまらなかったことが明らかになった。イギリスがEUから離脱する予定の2019年3月までに埋めなければならない溝はかなり大きい。

 現時点での双方の主張は、次の二つで大きく食い違っているという。一つは、イギリスは離脱後モノに限ってはEUルールに従うことにしたい。一方、人の移動の自由は認めず、移民の流入も制限したい意向だ。それから日本など第三国とは、EUとの関係にとらわれず自由貿易協定を結ぶ考えだ。

 しかし、EUにしてみれば、そうなれば「人、モノ、サービス、資本の移動の自由」を不可分とする基本理念に反する。いわゆる「いいとこ取り」されるのは受け入れがたい。

 二つ目には、イギリス領の北アイルランドと、EUに加盟するアイルランドの間の国境管理が問題となっている。イギリス・EUはイギリス離脱後に厳しい国境管理を復活させないことでは一致しているものの、アイルランドが一つの島であるところへ離脱後の人やモノの流れをどう管理しているかの折り合いがついていないのだ。

 

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️865『自然と人間の歴史・世界篇』パキスタン

2018-10-22 09:47:41 | Weblog

『自然と人間の歴史・世界篇』パキスタン

 

 2007年10月、元首相のべナジル・ブットは、亡命先からアメリカとイギリスの後押しで10月に国内に戻った。そして迎えた12月27日、彼女は首都イスラマバード近郊の演説会場に車で着いた。その彼女は、ドアがひらいた途端車に近づいてきた男に銃撃を浴びせられ、死んだ。

 思い起こせば、彼女は1953年に南部シンド州の裕福な家庭に生まれた。イギリスに留学して学んだ。やがて、1977年の軍事クーデター後に処刑された父ズルフィカル元首相の後を継ぎ、人民党の党首となる。

 1988年の選挙において人民党が勝利すると、イスラム圏で初めての女性首相に就任した。しかし、政敵とされるムシャラク大統領による解任や汚職裁判で追い落とされ、1999年からイギリスやドバイで亡命生活を送った。

 帰国してからのブットは、ムシャラク大統領との連携を模索したものの決裂し、次の選挙での政権奪還を目指していた。その序盤の戦いでの暗殺であった。遺体は真相解明のための解剖なくして軍の基地に運ばれ、翌日埋葬されたという。暗殺者は自爆したという。護衛にも不備があったという。すべてがわからずじまいのまま、この暗殺は終幕とされていく。

 ブット暗殺への国民の同情もあって、人民党は2008年の総選挙に勝利し、軍制が終幕した。後継者のシャリフ率いる文民政権は、初めての2013年までの5年間を無事に過ごす。ムシャラク大統領(当時)は、2013年8月にブット党首の警備を怠ったとして訴追されたが、国外へ逃亡し、「武装勢力を嫌う私が、暗殺を頼むはずがない」と関与を否定する。

 その後も、遅ればせながらの民主主義の浸透への努力が続く。ところが、文民政権の2期目に入ってからは、軍部の動きが表面に出てくる。2017年7月には、シャリフ首相が議員辞職に追い込まれる。最高裁判所がシャリフの議員資格を取り消す判決を出したことによる。その根拠となったのは、軍部が持ち込んだ不正疑惑なのだという(朝日新聞、2017年12月26日付けなど)。パキスタンにとって2017年は、建国70周年にあたり、絶大な権力を維持し続けている軍部の政治への関与が注目されつつある。

 2018年8月17日、パキスタン下院7月の総選挙で勝利したPTI(正義運動)のイスラム・カーン党首を賛成多数で新首相に選んだ。下院の定数は342議席あって、少数政党や無所属議員らの協力を得て176票を集めたという。

 パキスタンにおいては、汚職の頻発、国民生活の停滞があるほか、対外面での貿易赤字や国営企業の累積債務などがあり、経済の立て直しが急務だとされる。

 

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️467『自然と人間の歴史・世界篇』ジンバブエ

2018-10-21 21:08:30 | Weblog

467『自然と人間の歴史・世界篇』ジンバブエ

 ジンバブエ(1980年4月18日に独立、旧宗主国はイギリス)は、アフリカ大陸の南部に位置する。首都はハラレ。内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。世界遺産のビクトリア湖の滝など、観光地としても有名だ。

 11世紀に遡ると、ショナ族によるマプングブウェ王国の成立がある。13世紀からは、モノモタバ王国(通称ジンバブエ王国)が繁栄する。ジンバブエとは、「石の家」を意味するらしい。これを伝えるのが、グレート・ジンバブエ遺跡であって、壮大な「石の家」として1986年のユネスコ世界遺産に登録される。王宮の跡や宗教儀式の場所、それに自然石の間を不整形の石を積み上げた壁などが残っているという。
 1890年代には、セシル・ローズの率いる英国南アフリカ会社による、モノモタバ王国に対する占領がなされる。このあたりへのイギリス人の入植も進んでいく。
 1923年、白人の住民たちが、イギリスの自治植民地としての南ローデシア(現在のジンバブエ)をつくる。1924年には、イギリスの直轄植民地(現在のザンビア)が設立する。これにいたる前には、1922年のイギリス南アフリカ会社の経営の行き詰まりが介在していた。

同社が、これを理由にローデシアの経営の放棄を決めたのに対し、イギリス政府は南アフリカ連邦への統合を望むのだが。1923年、英国の自治植民地として南ローデシアが発足する。一般的には、この頃のことを「旧イギリス領ローデシア」と呼んで区別している。
 そして、第二次世界大戦後に、この地域の白人中心社会の独立は持ち越される。南ローデシアの白人政権は、北ローデシアの銅とニヤサランド(現在のマラウィ)の豊富な労働力に着目する。そして、この流れで3植民地の連邦化を行うことを志向する。自分たちの夢をもたせてくれるのは、互いにタッグを組み、現地民を支配することだとする。そして迎えた1953年、白人たちはローデシア・ニヤサランドを結成する。
 1963年には、アフリカ諸国に独立の大波が起こって、連邦制が解体を余儀なくされる。これに伴い、南ローデシアの白人至上主義者たちは、イギリスにかけあい、独立を認めるよう交渉に入る。イギリス政府は、これを認める上での条件として、多数支配への漸次的移行をいうのだが、あくまで白人による少数支配にこだわる白人政権はこれを拒絶する。そしそういうことで、両者の話し合いは膠着状態となり、1965年11月のローデシア共和国の一方的独立宣言の日から1979年12月までの間は、一方的に独立宣言した入植者の白人強硬派の支配下にあった。
 それでも、歴史は進んでいく。そんな中でも、1968年には国連安全保障理事会による、対ローデシア経済制裁決議が採択される。1970年代、ムガべらが指導する黒人解放団体によるゲリラ活動が白人政権を脅かすようになっていく。1979年、イギリスが乗り出しての、独立に向けての平和的解決合意を署名するにいたる。これを「ランカスターハウス制憲協定」と呼ぶ。

そして迎えた1980年には、ジンバブエ共和国としてイギリスから独立を果たし、黒人のムガベが新国家の首相に就任する。ここにいたって、ようやく黒人と白人が共存する建前の国家になった訳だ。
 1987年には、ムガベが大統領に就任し、以後、19909年、1996年、2002年へと回を重ねていく。2008年3月の総選挙(大統領選挙、上院・下院選挙、地方選挙)が実施される。2008年6月、大統領決選投票の末にムガベ大統領が五選を果たす。白人の農園を強制的に収用して黒人に与える土地改革を進め、欧米と対立する。

 経済制裁もあって国内経済は混乱し、中央銀行は紙幣を濫発。これが影響して2008年には、インフレ率が一時2憶3千万%以上になったというから、驚きだ。2009年、経済崩壊による超インフレーションによりジンバブエドルに代わり、米ドルなど外貨使用を全面許可するにいたる。

2013年7月、ムガベ大統領は六選され、長期独裁政権の悪弊が目立つようになっていく。2015年には、ジンバブエドルが廃止される。2017年に入って、大統領の有力後継候補の副大統領を解任したものの、国軍司令官がこれに反発する。11月、ムガベ大統領は辞任に追い込まれ、ムナンガグワが大統領に就任する。
 2017年現在の人口は、約1600万人、タバコや綿花などの農業が盛んだ。プラチナや金、ダイヤモンドなどの鉱物資源が豊富である。
(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○322『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、宮沢賢治)

2018-10-21 19:16:06 | Weblog

322『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、宮沢賢治)

 宮澤賢治(1896~1933)は、詩人であり、児童文学・童話の作家であった。生前は「ほぼ無名」とのことで、なかなかに世に作家として出られなかった、不遇の時があった。時代が下るにつれ、国民作家としてのみならず、日本と世界にますます多くの読者を獲得しつつある点で、希有の作家だと言えよう。
 1896年に岩手県の花巻に生まれた。家は、周囲の中では比較的裕福であった。1918年に盛岡高等農林学校卒業してからは、しばらく家業に従事した。その中で、日蓮宗の熱心な信者となり、布教のため上京したりもしている。

文学活動は青年期の早くからで、『どんぐりと山猫』(1921)、『かしはばやしの夜』(同年)など童話数編から書き始める。

それからは、故郷での農業の指導者となって働きながら、油が乗ったように作家活動に取り組んでいく。そう彼は東北の土に親しみ、農民たちの暮らしに心を砕いた技術者でもあった。彼の代表作は死後に世に出たものが多い。

その一つ、『銀河鉄道の夜』は、宇宙旅行にも似た幻想的な話だ。例えば、今では星が多く生まれる場所だと考えられている「石炭袋」について、主人公にこう語らせている。

「「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指しました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。」(ちくま文庫、「宮沢賢治全集」第7巻「銀河鉄道の夜」)

もう一か所、銀河鉄道に乗って天の川を旅してきた主人公が夢から目覚めるシーンには、こうある。
 「両方から腕(うで)を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯(こ)う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座(すわ)っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸(てっぽうだま)のように立ちあがりました。

そして誰(たれ)にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉(のど)いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
 ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘(おか)の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱(ほて)り頬(ほほ)にはつめたい涙がながれていました。
 ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴(つづ)ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま夢(ゆめ)であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では殊(こと)にけむったようになってその右には蠍座(さそりざ)の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。」

そのモチーフとしては、やはり宇宙空間にまで視野を広げた中での人間の心のあり方なのだろうか。それはともかく、日本はおろか、世界の中でも実に多くの人々が、この青くにじんだ陰影さえ感じられる文章に、人を引きつけてやまない宇宙の神秘を感じさせる。
 1933年に賢治が死んだ時には多くの未発表作品があり、その中からは畢生(ひっせい)の詩『雨ニモ負ケズ』が見つかっており、熱心な在野の法華経信仰者としても、つとに知られる。
 戦前から活躍していた詩人の草野心平は、宮澤のことをこう評している。
 「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私は名誉ある「天才」は宮澤賢治だと言ひたい。世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。」(『詩神』(1926年8月号)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○321『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、小林多喜二)

2018-10-21 19:14:08 | Weblog

321『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、小林多喜二)

 昭和初期のプロレタリア文学の作品に、小林多喜二(こばやしたきじ、1903~1933)の24歳の時の中編小説『蟹工船』(1929年(昭和4年)刊)があり、その冒頭部分にこうある。
 「「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函館(はこだて)の街を見ていた。・・・・・漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)をすれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖(かたそで)をグイと引っ張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫(ナンキンむし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。」(「小林多喜二全集」)
 また、船内で上演された無声映画に、会社側の弁士が立って講釈をする場面のさわりには、こうある。
 「日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。」
 この作品に描かれているのは、カムチャッカの海上を蟹を求めて動き回る蟹工船と、その船に乗って蟹を獲り、船の上で加工し缶詰にしている労働者たちである。この作品は葉山嘉樹(はやまよしき)の『海に生くる人々』とともに、労働者にとっての現実がどういうものであるかに焦点を当てた。彼らがどのようにして生きる道を見出していくかを、迅速なタッチで描き出そうと努めた。小林はこの作品の後、当時非合法だった共産党に入る。その後は思想的にも深みを増していくのだが、やがて治安維持法により無実の罪を着せられ検挙され、1933年特高警察の拷問で殺される。おそらくは、最期まで「転向」などといわれる退路の一切を断って、自分が選び取った一筋の道にあくまでも忠実であったのだろう。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


〇551の1『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのあらまし)

2018-10-21 10:06:46 | Weblog

551の1『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのあらまし)

 日本の憲法は、全ての国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障しているかのように見える。ところが、従来の国の解釈では、これは努力目標であって、実際的に個々の国民の生活を一律に保障するものではないことになっている。

ところが、最近ベーシックインカムという言葉が世の中に広く知られるようになった。そもそもの出所は、旧くはトーマス・モアの「ユートピア」あたりにあって、西洋諸国では人々にかなりの知遇を得ているという。

 その特徴としては、これまでの最低生活保障制度という範疇ながら、雇用の状況や収入、資産の如何にかかわらず、政府が全ての国民を対象に、最低限の生活に必要なお金を無償で与えるというものだ。

 現代風なベーシックインカムの起源は二つあるという。一つは、『社会信用論』を著したC.H.ダグラスが提唱したものだ。これは、貨幣発行益を財源とし、「国民配当」という形で政府が発行紙幣を国民全員に配るというもの。

  もう一つは、経済学者のミルトン・フリードマンが提示した構想で、「負の所得税」と呼ばれる。これは、「一定の額に所得が達しない人は、むしろお金がもらえる」という。例えば、所得税税率を一律25%、社会的合意で最低保証する所得を100万円としよう。すると、「所得×0.25-100万円」が個々人の収める税金になる。この場合、所得が400万円以上の人は納税を免れない。けれども、400万円未満の人は税額がマイナスになってしまう。例えば所得が240万円の人は、「240万円×0.25-100円=-40万円」であることから40万円の給付が受けられよう。それを元の所得に足しての再分配後の所得は、280万円に上がるだろう。所得が全然ない人にいたっては、丸ごと100万円の給付が受けられることになるだろう。

  この「負の所得税」構想とベーシックインカムとの違いは、ベーシックインカムは税金を払った後に一定額が自分のところに返ってくるのに対し、「負の所得税」は、その差し引きを最初にしてしまうということであって、損得では変わらない。

 そこで現下の賛成論から紹介しよう。まずは、個々の収入、資産などを調べる必要がなく、各人による申請に基づく審査も原則的には必要でない。したがって、行政コストが大幅に減らせるという。この考えでは、裕福な者に対しても、そうでない者と同様一律な支給をするというのは、「おかしい」とはならないらしい。

 とはいえ、この制度をわが国で導入するには、既存の制度との調整が必要だ。そこで、大方は、ゆくゆくは年金や生活保護などを一本化して、この中に社会保障関係を統合していくというプランを掲げる。この点には、「小さな政府」論者も興味を示しているようだ。

 これに対し、多様な立場から反対論が色々と出されているようだ。一つは、財政負担が大きく、賄いきれないという。「財政危機が叫ばれて久しいのに」である。また、お金の「ばらまき」になるともいう。さらに、一律の額で支給されることから、「貧富の差の拡大」の是正につながらない」との声がある。労働・賃金との関連では、「賃金の引き下げにつながりかねない」とか、「Society5.0での人減らし合理化をたやすくする」との警戒論も出されている。

 それから、反対論ではないが、「社会実験している例はあるが、導入した国はまだなく、うまくいくかどうかわからない」との声も聴かれる。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○549『自然と人間の歴史・日本篇』「日の丸半導体」の凋落

2018-10-20 10:20:40 | Weblog

549『自然と人間の歴史・日本篇』「日の丸半導体」の凋落

 「栄枯盛衰」とは、最近の日本の産業界でも言われるようになっているのではないか。そんな形容がなされて不思議ではない現象に、「日の丸半導体」の趨勢があろう。

 まずは、その変化から拾っていくと、1990年の世界のメーカー別シェアは次のとおりであった。1位はNEC(日本電気)で7.9%、2位は東芝で7.7%、3位はアメリカのモトローラで6.5%、4位は日立製作所で6.4%、5位はアメリカのインテルで5.8%であった。

それから6位は富士通の4.8%、7位はアメリカのテキサス・インスツルメンツの4.7%、8位は三菱電機の3.9%、9位はオランダのフィリップスの3.6%、そして10位は松下電器産業の割合は3.3%であった(朝日新聞、2018年6月28日付け、元の出所は調査会社ガイトナー調べ)。

見られるように、10位までに、実に日本メーカーが6つもはいっていたというから、驚きだ。それが27年経過しての2017年には、こう変化した。すなわち、1位は韓国のサムスン電子で14.2%、2位はアメリカのインテルで14.0%、3位は韓国のSKハイニックスが6.3%、4位はアメリカのマイクロテクノロジーで5.4%、5位はアメリカのクアルコムで3.8%。

6位はアメリカのブロードコムの3.7%、7位はアメリカのテキサス・インスツルメンツの3.2%、8位は東芝の3.0%、9位はアメリカのウエスタンデジタルの2.2%、そして10位はオランダのNXPセミコンダクターズの2.1%であった(朝日新聞、2018年6月28日付け、元の出所は調査会社ガイトナー調べ)。

見る影もないとはこのことをいうのではないのだろうか、日本メーカーは東芝一つになっている。しかも、この東芝だが、2017年ころから経営再建の渦の中にあった。そして迎えた2018年の6月に、名目上はともかく東芝の経営ということではなくなってしまった。

それというのも、東芝の半導体会社「東芝メモリ」が紆余曲折を重ねた末、アメリカのペインキャピタルが率いる「日米韓連合」に売却された。約2兆円の買収資金を10社余りが拠出したという。その後(ただし、「当面」とされる)の東芝メモリの議決権の国別割合は日本勢(東芝、産業革新機構、日本政策投資銀行)が50.1%を占めるというものの、残りの49.9%をアメリカのペインキャピタルが担うのだという。

顧みると、同じ半導体の中でも、かつての主役はDRAM(ダイナミックラム)であったのが、幅広い半導体種別に成り代わってきている。各社とも、絶えず大量の開発投資をしていかないと、立ち行かない。2012年には、経営破綻した日本のエルピーダメモリをアメリカのマイクロン・テクノロジーが買収していた。そのエルピーダメモリは、NEC(日本電気)、日立製作所、三菱電機のDRAM事業を統合して生まれ、政策投資銀行も出資したものの、激しい国際競争の中で経営を持ちこたえられなかった。

 

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 


○○529『自然と人間の歴史・日本篇』日本の経済指標あれこれ(2012~2018)

2018-10-19 22:30:35 | Weblog

529『自然と人間の歴史・日本篇』日本の経済指標あれこれ(2012~2018)

 (1)まずは。これから紹介しよう。

  〇2012年末の資金供給量(マネタリーベース)が138兆円であったのに対し、2017年末の資金供給量(マネタリーベース)は479兆円であった。

 〇2012年末の日本銀行の国債保有量(時価ベース)と保有割合が115兆円、11.9%であったのに対し、2017年末の日本銀行の国債保有量(時価ベース)と保有割合は449兆円、41.1%であった。

 〇2012年末の長期金利(10年物国債の流通利回り)が0.795%であったのに対し、2013年3月19日の長期金利は0.595%であった。その後の2014年3月19日の長期金利(10年物国債の流利回り)が0.605%であった。その後の2017年末の長期金利は0.045%であった。それから後の、2018年2月26日の長期金利は0.055%であった。

ほかにも、2012年12月26日の長期金利が0.785%だったのに対し、2012年12月の住宅ローン金利(10年固定、最優遇、三菱東京UFJ銀行)が1.30%だったのに対し、2017年9月の住宅ローン金利(10年固定、最優遇、三菱東京UFJ銀行)は0.75%だった

 

 〇2012年末の国内銀行の新規貸出平均金利が1.119%であったのに対し、2017年末の国内銀行の新規貸出平均金利は0.726%であった。

 〇2012年末の日本銀行のETF(上場投資信託)保有量が1.4兆円であったのに対し、2017年末の日本銀行のETF(上場投資信託)は17.2兆円であった。

 

 (2)今度は、少し別のグループを紹介しよう。

〇2013年3月の消費者物価上昇率(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)がマイナス0.5%であったのに対し、2017年12月の消費者物価(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)は0.9%であった。

そしてまた、2012年12月の消費者物価上昇率(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)がマイナス0.2%であったのに対し、2017年7月の消費者物価(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)は0.5%であった。

 

〇2013年3月19日の日経平均株価は1万2468円23銭であったのに対し、2014年3月19日の日経平均株価は1万4462円52銭であった。また、2018年2月16日の日経平均株価は2万1720円25銭であった。さらに、2018年7月23日の日経平均株価(225種)は2万2396円99銭であった。

 

 〇2013年3月19日のドルの対円相場が1ドル=95円47~48銭であったのに対し、2014年3月19日のドルの対円相場は1ドル=101円57~58銭であった。また、2018年2月16日のドルの対円相場は1ドル=106円01銭であった。さらに、2018年7月23日のドルの対円相場は1ドル=110円96銭であった。

 

〇2012年10~10月期の民間設備投資が72兆1037億円だったのに対し、2017年4~6月期の民間設備投資は82兆9526億円だった。

 

 〇2012年12月の完全失業率が4.3%だったのに対し、2017年7月の完全失業率は2.8%だった。2012年12月の有効求人倍率が0.83%だったのに対し、2017年7月の有効求人倍率は1.52%だった。そして、2013年2月の完全失業率が4.3%であったのに対し、2013年3月の完全失業率は4.1%であった。さらに、2014年1月の完全失業率は3.7%であった。その後の2017年12月の完全失業率は2.8%であった。

 ここに労働力人口とは、 15歳以上の人口のうち,「就業者」と「完全失業者」との計。このうち就業者とは、 「従業者」と「休業者」を合わせたものをいう。さらに従業者とは、 調査週間中に賃金、給料、諸手当、内職収入などの収入を伴う仕事(以下「仕事」という。)を1時間以上した者をいう。 なお,家族従業者は、無給であっても仕事をしたとする。

 

 〇2013年1月の現金給与総額(労働者一人当たりの平均賃金)が26万9937円であったのに対し、2014年1月の現金給与総額(労働者一人当たりの平均賃金)は26万9203円であった。

 

〇それでは、影響をとり除いた実質賃金は、どうなっているだろうか。厚生労働省の毎月勤労統計調査でいう実質賃金(従業員5人以上の事業所でみた場合)は、対前年伸び率の四半期別でいうと、2013年第3四半期から2015年第2四半期までは(2014年第3四半期を除く)マイナスが続いた。

2016年第1四半期からは(2016年第4四半期を除き)プラスが続く。結局、2016年の実質賃金伸び率は前年比0.7%増となり、5年ぶりのプラスとなった。

その後の2017年第1四半期までは、このプラスが続く。しかし、その後は潮目が変わり、2017年の実質賃金伸び率は前年比で0.2%減となり、またもや腰折れ状態に陥った。

また、厚生労働省の毎月勤労統計調査でいう2012年12月の実質賃金指数(2015年を100とする、季節調整済み、従業員5人以上の事業所でみた場合)は、103.9だったのに対し、2017年7月には101.2となった。

〇実質民間最終消費支出は、2014年、2015年と連続してマイナスだったが、2016年の1~3月期から増えていく。2016年には、プラス0.4%になった。

(注意)

1.    実質賃金は、名目賃金を消費者物価(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)で割ることによって求められる。

2.    マネタリーベースとは、日本銀行が発行する現金通貨(紙幣)に、金融機関が日本銀行に開いている口座としての日銀当座預金を加えたもの。一方、マネーストックというのは、世の中に出まわっている現金通貨と預金通貨との合計が基本。 

 

   (続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○506『自然と人間の歴史・日本篇』2009年度に海外進出を助ける税制を導入

2018-10-19 19:37:34 | Weblog

506『自然と人間の歴史・日本篇』2009年度に海外進出を助ける税制を導入

 2009年度の税制改正で設けられた「海外子会社等からの受取配当金の益金不算入制度」が何たるかをご存知だろうか。これについては、仮想の事例を用いて説明したい。
 すなわち、ある例で、税制改正前はこうなっていたとしよう。日本の親会社では、税率30%がかかり、海外のA地での海外子会社にはA国の法律により25%の税率がかかっている。
 すると、左側に日本の親会社、右側にA国内の海外子会社をとって、親会社所得が800、海外子会社の所得が200。この海外子会社の所得は200×0.25=A国の税金50、それと留保分150になると仮定する。
 海外子会社は、この留保分の全部150を配当として日本の親会社に送るとしよう。また、外国Aで課せられた税額50は日本での控除対象外国法人税額、したがって「クロスアップ」分と見なされるだろう。
 ここで、日本では800+150+50=1000が課税所得になり、これに日本の税率である30%がかかる。つまり、1000×0.30=300となる。
 さらに、日本の外国税額控除(控除対象外国法人税額)において益金算入分として200×0.25=50がここから差し引かれるので、納付税額としては、300-50=250でこれが日本での納付税額となる。
 この会社全体の結果としては、250と海外でその国の政府に徴収された50との合計額=300となるだろう。・・・・・(1)
 これが税制改正後にはどうなったであろうか。日本の親会社では仮に税率30%がかかり、海外のA地での海外子会社にはA国の法律により25%の税率がかかっているとしよう。
 すると、左側に日本の親会社、右側にA国内の海外子会社をとって、親会社所得が800、海外子会社の所得が200。この海外子会社の所得は200×0.25=A国の税金50、それと留保分150になると仮定する。
 海外子会社は、この留保分の全部150を配当として日本の親会社に送ることにしたい。税制改正後は、その海外子会社が「日本の親会社の6ヶ月連続で所有比率が25%以上のもの」であれば、その配当金額の95%が益金不算入に該当することになるだろう。
 したがって、日本での課税では「外国税額控除制度」の適用がなくなるので、従前の800+150+50=1000ではなく、800+150=950が基本式となる。
150×0.95=142.5=142。よって950-142=808。これに日本の税率30%がかかってくるので、納付税額としては、次のようになるだろう。つまり、808×0.30=242.4=242でこれが日本での納付税額となる。
 この会社全体の結果としては、この日本で徴収されるであろう242と海外でその国の政府に徴収された50との合計額=292となるのではないか。・・・・・(2)
 以上(1)と(2)の結論(仮定ですが)としては、会社全体としての内外の当局に納める税額は、300-292=8だけ従前より改正後の方が得になる、との結論が導かれる。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️619『自然と人間の歴史・世界篇』(ベネズエラ、1960年代~)

2018-10-18 22:13:13 | Weblog

619『自然と人間の歴史・世界篇』(ベネズエラ、1960年代~)

 ベネズエラの状況は、21世紀に入ってからは大きな変化が進行中だといってよいだろう。

 2013年3月には、チャベス大統領が死去し、カリスマ的指導者がいなくなったことで政治の流動化が始まる。4月の大統領選挙で、後継指名を受けたマドゥロが当選を果たす。

 2015年3月、アメリカのオバマ政権が経済制裁を発動する。この措置により、ベネズエラ政府関係者

7人のアメリカ国内の資産が凍結されるとともに、アメリカの金融機関との取引が止められる。

 2017年4月には、反政府デモが起こる。7月、政府が制憲議会選挙を強行する。野党勢力はこれをボイコットし、結果的に大統領派が議席をほぼ独占するにいたる。2018年1月、選出された制憲議会が大統領選挙の前倒しを発表する。

 2月には、原油を担保とする仮想通貨「トロ」を発行する。3月、政府は、記録破りの物価上昇に対処するべく、6月4日付けで通貨の単位を1000分の1に切り下げるデノミネーションを実施すると発表する。

 5月、マドゥロ大統領が再選を果たす。アメリカのトランプ政権が追加制裁を発表する。その内容は、ベネズエラ政府や政府系企業のアメリカ経由での資金調達を禁じるものだ。同月、ベネズエラ政府は予定のデノミネーションを60日間延期し、8月4日付けで実施すると発表する。その際、切り下げ幅を10万分の1に拡大すると発表する。そして迎えた8月20日、政府はデノミネーションを強行する。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️454『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

2018-10-18 21:32:03 | Weblog

454『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

 ナイジェリア共和国の建国までの道のりはどのようであったのだろうか。この国は、西アフリカに位置する。およそ2億人の人口を抱え、アフリカ最大。面積も広い。
 13~18世紀、現在のナイジェリアの西部州を根拠地にベニン王国が栄える。1920年、イギリス領ゴールドコースト(黄金海岸)のアクラで、イギリス領西アフリカ国民会議が開催される。この会議には、ナイジェリアからも6人が参加する。

1922年、立法審議会設置を受けて、ハーバート・マコーレーを党首とするナイジエリア国民民主党が結成される。1947年にはリチャードソン憲法が、1951年にはマクファーソン憲法が英国植民地政府によりつくられ、西部、東部及び北部の3州制への移行と、選挙権の拡大がなされる。
 1951年以降、北部人民会議(NPC、ハウサ族が中心)、西部の行動党(AG、ヨルバ族が中心)、東部州ではNCNC(イボ族が中心)がそれぞれ活動する。1960年10月1日、これらの諸州が集まってナイジェリア連邦としてイギリスから独立を果たす。ここに国号の「ナイジェリア」とは、ニジェール川の英語読みのナイジャーにちなむとか。東隣のカメルーンの住民投票にて、旧イギリス信託統治領の北部がナイジェリアへの併合を決める。そのことで、この部分の領土を合わせての独立を勝ち取る。
 独立の3年後には共和国となる。それまで元首であったエリザベス女王に代わって、アジキウエ博士が大統領職に就く。独立の6年後の1966年1月には、若手将校による最初の軍事クーデターが起きる。これによってバレワ連邦首相と2人の州首相、汚職の代表格であったオコチエ連邦大蔵大臣が殺される。それでも落ち着かず、イロシン将軍による軍事クーデターが起こる。イボ人の利益に沿う形で、イロシン少将(1925-66)の率いる「事態収拾クーデター」により彼を首班とする軍政が始まる。
 当時この国は、北部、西部、東部、中西部の諸州からなる連邦制をしいていた。その当時、ナイジェリアの部族は北部のハウサ人が人口比で最大であり、他のイボ族などを圧倒していた。にもかかわらず、政治的経済的には、この国は建国以来ずっとイボ人が支配していた。こうした多数派から見た人々の不満と怒りは、2つの軍事クーデターではおさまらない。この後、北部州において、イボ人支配に反発するハウサ人などによって、北部州に居住するイボ人の大虐殺(ポグロム)が起きる。北部州からは、このとき100万人以上のイボ人が東部の州に逃れたとも伝えられる。
 21世紀に入ってからナイジェリアにおいては、「ボコ・ハラム」と称する反体制組織が台頭している。その大まかな歩みは、2002年にナイジェリア北部で設立された。2009年になると、政府軍治安部隊との政党が激化してくる。2014年4月、ポルノ州チボックで生徒276人が誘拐される。6月、ポルノ州において複数の村を襲撃し、200人を超える死者が出たという。

2015年3月、過激派組織「イスラム国」(IS)の指導者に忠誠を誓うとする録音声明を公開する。2016年12月には、ポルノ州の市場で女性2人が自爆をしたことで、57人が死亡したという。2018年2月、今度はヨベ州ダプチで110人が誘拐される。約1か月後にその大半を解放したものの、5人が死亡したとされる。


 
(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️440『自然と人間の歴史・世界篇』ブータン

2018-10-18 21:05:37 | Weblog

440『自然と人間の歴史・世界篇』ブータン

 ブータン王国は、南アジアに位置する。北は中国、東西南はインドと国境を接する。内陸国だ。国教はチベット派仏教。21世紀初頭での民族構成は、チベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語だが、英語も一般化している。首都はティンプー。
 9世紀頃までに、原住民はチベット軍の支配下に入る。その前のこのあたりの歴史は、はっきりしないのだが。チベットの力が浸透するにつれ、両者の混血により、現在の中心民族ガロップがつくられていく。
 17世紀、チベット仏教の高僧ガワン・ナムゲルらがこの地にやってくる。布教のためではなく、この地を治めるためであった。そして、各地に割拠する群雄を征服していく。自ら初代法王と称し、ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握する。
 18世紀に入ると、中国そしてイギリスの影響がこの地に及んでくる。19世紀末、今度は東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが、支配的郡長として台頭してくる。
 1907年、トンサの領主ウゲン・ワンチュクが、ラマ僧や住民に推される形で法王と摂政を廃す。そして、初代の世襲藩王に就任する。これにより、豪族のワンチュク家が親政を行う形で支配を確立し、現王国の基礎を確立する。1949年には、インドとの友好条約を結ぶ。
 1952年に即位した第3代国王ジグメ・ドルジ・ウォンテュック(在位は1952~72)は、気鋭の近代化政策を打ち出す。1959年のチベット動乱を契機に、インドとの外交、軍事のみならず、経済でも結びつきを深めていく。当時のインドから民主化で茂樹を受けたものと思われる。農奴解放、1人あたり30エーカー以下への耕地所有の制限、英語による近代教育の普及、国民議会の創設、最高裁判所の設立、郵便制度の創始など、盛り沢山の制度改革を行う。
 かれは、経済政策でも新味なものを打ち出す。友好国インドの援助を受けながら、5か年計画で、森林開発や水力発電、鉱物資源探査など、大いなる山間地で小国が生きて行くための方策を練るのであったが。
 1962年には、国家としての自立を目指してのコロンボ・プランを試みる。1964年、地方豪族間の争いに起因する首相暗殺があったり、その後に任命された首相による宮廷革命の企み発覚があったりする。これらによる政情不安定に対し、首相職が廃止され、国王親政がとられる。1969年の万国郵便連合、1971年の国際連合へと連なっていく。
 1972年、16歳で即位した第4代国王ジグメ・シンゲ・ウォンチュックは、前の国王が敷いた近代化、民主化路線を継承・発展させていく。王政から立憲君主制への移行準備を主導していく。2001年には、成文のなかった憲法草案の作成が始められる。
 2005年、4代国王が立憲君主制への移行を表明する。2006年12月、第4代国王の退位により、5代目が王位を継承する。

 2007年12月及び2008年の初めての総選挙を経て、2008年4月に憲法が施行され、王政から立件民主制に移行を果たし、民主的に選出されたティンレイ政権が誕生する。5月には国会(一院制)が召集される。7月に憲法が施行となり、それまでの王政から議会制民主主義を基本とする立憲君主制に移行する。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️834の3『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、サブプライム問題)

2018-10-18 10:19:57 | Weblog

834の3『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、サブプライム問題)

 いったい、これほどまで大規模な景気後退がなぜ起こったのか。諸説に概ね共通しているのは、通常の景気循環の中では考えられない程の「バブル経済」が現出していたことであった。そんな中でも、2007年の途中までは米国型の投資、中でもサブプライム関連商品がうってつけの投資商品であった。リーマンブラザーズを含むこの国の投資銀行は、これを扱う金融機関に湯水のように大量の資金を流していた。
 なお、ここでサブプライム・ローンとは、2001年金融監督当局の通達にある。具体的には、(1)過去12か月以内に30日延滞を2回以上、または過去24か月以内に60日延滞を1回以上、(2)過去24か月以内に抵当権の実行、債務免除、(3)過去5年以内に破産宣告、(4)返済負担額が収入の50%以上のいずれかに該当する住宅等に関わるローンであって、ローンの格付けとしては、「FICOスコア 660点以下(620点以下とする分類もある)」(倉橋透・小林正宏「サブプライム問題の正しい考え方」中公新書)とある。
 わかりやすくするために、サブプライム・住宅ローンは、例えば最初の2年間は月々の支払いを債務者の所得の範囲内に留めているとしよう。3年目以後の支払い時には倍のローン利率にはね上がり、住宅保有者の所得では返済を賄えなくなり、その不足分は支払い利率が上がる前にローンを借り換えることで調達しなければならない。そのためには(つまり、うまく転がしていくためには)担保価値である住宅価格の絶えざる上昇が必要となるだろう。米国では今世紀に入ってからこの仕掛けで住宅取得が刺激され、そのローンを民間ローン会社から買った金融機関が多様な債権に組み込んだ仕組商品とすることで米国内外の絶えざるマネーが投入されていった。
 そういうことがあって、2006年秋を境に住宅価格が下落に転じます。それからは返済の焦げ付きが増すとともに、同証券の格下げが相次ぎました。銀行の不良債権が増えることで彼らは新たな融資を貸し渋るようになり、その分人々の投資が冷え込んできたのです。
 それでは、この頃までに住宅ローンはどれくらいの規模となっていたのだろうか。倉橋透・小林正宏「サブプライム問題の正しい考え方」中公新書、2008にFRBの資料として、2007年末の住宅ローン残高とその証券化比率が載せられている。それによると、「住宅ローン残高 105,088(億ドル、以下同じ)、エージェンシー証券化43,025、40.9%、民間証券化21,166、20.1%、証券化合計64,191、61.1%」だという。
 このままでは流動性危機になると見たFRB(米国連邦準備制度理事会)は、2007年8月から2008年3月までの間に5度にわたり政策金利を下げる(FF(フェデラルファンド)レートで年5・25%から2・25%へ)等して、市場に資金を提供する手立てをとった。しかし、2008年3月には証券金融大手からも経営破綻が出るに及んで、FRBは史上初めての「直接金融」(グリーンスパン前議長)に乗り出す。その中で特に問題となったのは、野放図なリスク管理とは表面上異なる金融工学を駆使した商品である住宅担保証券の複雑さであった。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️834の2『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、マクロ経済)

2018-10-18 10:19:09 | Weblog

834の2『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、マクロ経済)

 顧みれば、アメリカのマイナス成長は2008年7~9月期の実質GDP(国内総生産)0.5%減から始まった。2008年10~12月期のアメリカの実質GDP(商務省が2009年1月30日に発表)は、年率換算で前期比3.8%減となり、約27年ぶりの落ち込みとなった。個人消費については、3.5%減で、約28年ぶりの落ち込みとなった7~9月の3.8%に続き大幅減となった。それから企業の設備投資は19.1%の大幅減となる。これは1975年以来の急激な減少を記録したことになる。住宅投資にはさらに勢いなく、同23.6%減となった。これは、12四半期連続のマイナスを記録したことになっている(1月30日~31日各紙)
 そこでアメリカの、この間のGDP各要素の伸び率を振り返ってみよう。GDP(国内総生産)+IM(輸入)=C(消費)+IH(民間住宅投資)+II(民間設備投資)+GC(政府消費)+GI(政府固定資本形成)+EX(輸出)の関係式がある。これを用いて、2008年10~12月期から2009年7~9月期までの国民経済指標に係る数字をはめ込むと、こうなる。ただし、以下の数字は伸び率であって、そのまま数式としては用いていない。
○2008年10-12月期(年率換算):
GDP(ー5.4)+IM(ー16.7)=C(-3.1)+I(-24.2)+G(1.2)+EX(-19.5)
○2009年1-3月期(年率換算):
GDP(ー6.4)+IM(ー36.4)=C(0.6)+I(-50.5)+G(-2.6)+EX(-29.9)
○2009年4-6月期(年率換算):
GDP(ー0.7)+IM(ー14.7)=C(-0.9)+I(-23.7)+G(6.7)+EX(-4.1)
○2009年7-9月期(年率換算):
GDP(3.5)+IM(16.4)=C(3.4)+I(11.5)+G(2.3)+EX(14.7)
(データの出所)GDP and the Economy,Advance Estimates for the Third Quarter of 2009:Survey of Current Business,November 2009.(電子版)、作成は(丸尾))

(続く)

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️834の1『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、その経過)

2018-10-18 10:18:20 | Weblog

834の1『自然と人間の歴史・世界篇』リーマン・ショックと世界恐慌(アメリカ、その経過)

 2008年9月に勃発したアメリカ発の「リーマン・ショック」は、同国のバブル景気を旧冷却させてのみならず、グローバル化を一層強めていた世界経済を大いなる混乱に陥れた。

はじめに、このショックの前後のアメリカ経済を中心とした動きを、振り返っておこう。

3月16日、米大手証券ベアスターンズを、JPモルガン・チェースが「救済」と称して買収した。9月7日には、米金融当局がファニイメイおよびフレデリックへの支援策を発表した。そして迎えた9月15日、米証券大手のリーマン・ブラザーズが破綻した。同日、米銀行大手のバンク・オブ・アメリカが、米証券大手のメリルリンチを救済合併すると発表した。

 9月16日には、FRB(米連邦準備制度理事会)が、米保険大手のAIGの救済策を発表した。10月18日、日米欧の6中央銀行が、市場への流動性供給のための対応策を公表した。11月14~15日には、初めてのG20会合がワシントンで開催される。11月23日、米当局が、金融大手シティグループに盾居する救済策を発表した。

(続く)

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆