638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1960年代)

2018-10-18 09:24:09 | Weblog

638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1960年代)

 1964年、コロンビア革命軍(FARC)結成、内戦が勃発する。2010年、サントス大統領当選。2012年、和平交渉が開始される。
2016年6月23日、サントス大統領とFARCのドニョ最高司令官が停戦合意に署名。9月26日、和平合意文書に両氏が署名する。
 その内容は、「FARCに2018年から2期8年、上下両院で各5議席を与える。FARCが資金源としてきた麻薬の原料のコカイン農地を田の作物に転換。

 犯罪を告白した革命派幹部には懲役刑の代わりに、規定の非武装地帯内で社会奉仕活動に従事する罰を与える。FARCは保有するすべての財産を放棄し、内戦の遺族、被害者の金銭補償に充てる。」(毎日新聞、2017年12月1日付け)


 そして迎えた10月2日、国民投票で合意が否決される。10月7日、サントス氏にノーベル平和賞授与が発表される。11月24日、和平合意文書の改訂版に両氏が署名する。11月30日、議会承認を受け、和平合意が進む。
 2017年8月15日、FARCの武装解除完了得。9月1日、FARCが政党に移行する。


(続く) 

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○○36『自然と人間の歴史・日本篇』古墳時代の始まり(4世紀後半頃~6世紀前半頃)

2018-10-18 09:03:20 | Weblog

36『自然と人間の歴史・日本篇』古墳時代の始まり(4世紀後半頃~6世紀前半頃)

 弥生時代の末期になると、この列島のあちこちで巨大墳墓が次々と造成される。そして、
この列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。
この古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀始めも含む)である。さりとて、この時代分類分けには、確固とした根拠が添えてあるのではないらしい。
 さて、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は、前方後円墳だといえよう。中国にも朝鮮(現在の韓国)にも、その原型の類例はほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのかもしれない。

中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。
 畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。前方後円墳の分布は広範囲にわたっている。ごく小さなものでは、武蔵国(現在の比企郡嵐山町)にもあって、たかだか10メートルくらいのものさえあるところだ。

 その逆に大きいところから並べると、次のようであるという。1番目は、墳丘の長さ486メートルの大山古墳(大阪府百舌鳥、通称は「仁徳陵古墳」)。2番目は、墳丘の長さ425メートルの誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやまこふん、大阪府古市、通称は「応神(おうじん)陵古墳」)。3番目は、墳丘の長さ365メートルのミサンザイ古墳(大阪府百舌鳥、通称は「履中陵古墳」)。4番目は、墳丘の長さ350メートルの造山(つくりやま)古墳(岡山県、被葬者は不明)。5番目は、墳丘の長さ335メートルの河内大塚山古墳(大阪府、陵墓参考地)。

   6番目は、墳丘の長さ310メートルの丸山古墳(奈良県、陵墓参考地)。7番目は、墳丘の長さ300メートル以上のニサンザイ古墳(大阪府、陵墓参考地)。8番目は、墳丘の長さ300メートルの渋谷向山古墳(奈良県、通称は「景行陵古墳」)。9番目は、墳丘の長さ290メートルの仲津山古墳(大阪府、通称は「仲姫命陵古墳」)。そして10番目は、墳丘の長さ286メートルの作山(つくりやま)古墳(岡山県、被葬者は不明)

   これらの大規模古墳のうち毛現在の奈良県の大和盆地と大阪平野を拠点とする「ヤマト王権」があったとする説のほか、現在の岡山県あたりを拠点とする吉備(きび)の二つの古墳を根拠にこちらの勢力がかかるヤマト王権と勢力が拮抗していたとみる向きもあろう。吉備の2大古墳の被葬者が誰だかわからないのは、学術的な発掘はすでになされているものの、これといった特段の遺物が見当たらなかった。そもそも、そのことが盗掘されたものか、破壊・持ち去りなどされたものかなどはわかっていない。

  さらに前者の勢力の中でも、5世紀に造営されるようになった百舌鳥・古市古墳群につき、4世紀末頃にヤマト盆地の勢力から大阪平野の勢力が権力を奪取したという「河内政権論」を唱える向きもあるという。

   これまでのところ、宮内庁の管轄する古墳については、ことごとくと言っていい程に、きちんとした学術調査は行われないでいる。部分的な崩れについてさえも、一般人を入れ公開した調査を実施してこなかった。「崩れた部分の修理の際などに一部を宮内庁の考古学の専門職員が発掘しているよ」(朝日新聞、2017年8月2日付け)ということなら、国民は何がどうなっているのかわからない。

   古代の陵墓の造営では、報酬のある労働であれ「ただ働き」であれ、当時の権力者によって多くの人民が動員されたのは疑う余地がない。よって、現在でのそれらは国有資産の一部であり、国民のいわば共有財産であって、特定の政治的な事情や思惑にとどめられていいものではあるまい。特に歴史学者は、諸外国での例に習い、国民の知る権利のためにもっと前面に出るべきだ。そして、内部の石室などの調査を含めた発掘に向け、この国の「古代史」を明らかにしようとの公論をリードすべきであろう。

   以下は後の時代のことだが、6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。

   政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家、すなわち後の天皇家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。7世紀の早早の造営も伝わるところから、最近の日本考古学では、これまでこの時代も含めて後期古墳時代と呼んでいたものを、前方後円墳の終焉の時期をもって古墳時代の後期と終末期とに細区分する考えが出されているとのことだ。

(続く)

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♦️3の4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(水星、金星)

2018-10-17 21:07:49 | Weblog

3の4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(水星、金星)

 金星は、太陽系で太陽に近い方から2番目の惑星である。また、地球に最も近い公転軌道を持つ惑星である。地球から見ると、金星は明け方と夕方にのみ観測でき、太陽、月についで明るく見える。明け方に見えるのが「明けの明星」、夕方に見えるのが「宵の明星」と言い分けられるところだ。
 ここに天文単位(AU)というものさしがあって、より内側の水星が0.39、直ぐ外側の地球が1AU、そのまた外側の火星が1.52AUなのに対し、金星のそれは0.72AUとなっている。これらの配置加減は、「ケブラーの第3法則」に従う。また、この惑星は、「地球型惑星」とか「地球の姉妹惑星」と表現される。これは、太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似ているためだ。金星の半径は地球の0.95倍、質量は0.82倍だと推定されており、まさに地球と同じ岩石惑星なのだ。
 それなのに、金星には地球のような生物環境は存在していないと言われている。その要因としては、やはり温度と水、それに生物が呼吸に必要とする酸素などであろうか。
 金星には非常に厚い大気があり、そのほとんどが二酸化炭素であるとのこと。そのため某かの二酸化炭素による温室効果がはたらくであろう。また、金星の表面の温度は昼も夜も摂氏460度と、太陽により近い水星よりも高いというから驚きだ。
 大気中には硫酸の粒でできた雲が広がっているともいわれる。その厚さは、何キロメートルもあるらしい。その雲にさえぎられて太陽からの光が直接地表に届くことはない。雲から硫酸の雨が降っても、地表があまりにも高温なため、地表に達する前に蒸発してしまうと考えられている。おまけに、金星の大気の上層では、秒速100メートルもの風が吹いている。
 この生命起源の観点からは、現在までの、太陽系の条件をあてはめた計算により、軌道半径0.6~0.8AUの間に、地球型惑星の初期進化の明暗を分ける境界があるのではないかと推計されている。ただし、「(現在の知識に不確定要素があり、位置は細かくしぼれていない。惑星のサイズはあまり影響しない)」(「地球と金星の明暗を分けたものとは?」:雑誌「ニュートン」2013年8月号)との注釈が付けられている。

 そういえば、太陽に近い方から、水星の自転は59日、公転は約88日、その直径は約0.5万キロメートルだ。次に来る金星の自転は約243日、公転は約225日、その直径は約1.2万キロメートル。この金星だけは、他の7つの惑星とは異なり、自転の向きは公転の向きと回転方向が逆である、なので、金星にいたとすると、厚い雲で視界が遮られるのを無視すると、太陽は西から昇り東に沈むのだろうか。また、なぜ、金星だけこのような向きで自転しているのかは、まだ明らかになっていないようだ。
 その外側を回る地球の自転は約1日、公転は夜景365日、さらにその直径は約1.3万キロメートルだというから、金星とかなり似ているのではなかろうか。それから、火星については、 自転が約687日なのに対して、公転は約0.7日。その外側を回る木星の自転周期は、約10時間にしてかなり早く、12年をかけて太陽の周りを公転し、その直径は約14万キロメートルと地球の約10倍ある。さらに、その外側の土星に至っては、自転が約10時間なのは木星並みながら、公転はなんと約 29年、その直径は約12万キロメートルという。


(続く)

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副▽目次4(D/A~D)『自然と人間の歴史・世界篇』(2018年9月20朝時点)、642~1000/0~1000)

2018-10-17 09:25:55 | Weblog

副▽目次4(D/A~D)『自然と人間の歴史・世界篇』(2018年9月20朝時点)、642~1000/0~1000)





642.中国の大躍進政策
643.中国の文化大革命
644.中国の四つの近代化路線
645.1970年のアメリカ多国籍企業
646.1970年のソ連経済
647.二人のケネディの闘い

648.インドの食糧危機

649.第三次インドとパキスタンの国境紛争(1971)
650.ニクソン・ショック
651.スミソニアン合意
652.第一次石油危機(前半)
653.第一次石油危機(後半)
654.米中国交正常化
655.ロッキード事件(前半)
656.ロッキード事件(後半)
657.ウォーターゲート事件(前半)
658.ウォーターゲート事件(後半)
659.チリ革命と反革命(1969~1973年9月11日の大統領官邸攻撃開始)
660.チリ革命と反革命(1973年9月11日のクーデターによる反革命)
661.「超大国アメリカ」の内と外
662.第一次石油ショック
663.第二次石油ショック
664.イラン革命(1963~1980)
665.ブラジル(1960年代)
666.ペルー(1960年代)
667.中国の改革・開放政策(1976~1980)
668.中国の改革・開放政策(1981)
669.劉少奇元国家主席の名誉回復(1980)
670.ソ連の社会主義改革(~1987)

671.東欧の社会主義改革(ポーランド、~1987)
672.東欧の社会主義改革(ハンガリー、~1987)
673.東欧の社会主義改革(東ドイツ、~1987)
674.東欧の社会主義改革(チェコスロバキア、~1987)

675.検討中

676.検討中

677.検討中

678.検討中

679.検討中

680.国境紛争(イラン・イラク戦争)
681.国境紛争(フォークランド戦争)
682.国境紛争(アメリカのグレナダ侵略)
683.スリーマイル島原発事故
684.チェルノブイリ原発事故
685.新保守主義(アメリカ)
686.新保守主義(アメリカのマネタリズム、合理的期待形成学派)
687.新保守主義(イギリス)
688.新保守主義(イギリスの労働政策)
689.アメリカ航空管制官ストライキ

690.1970年代からのコンピュータ産業の発展1
691.1970年代からのコンピュータ産業の発展2
692.プラザ合意(その経緯)
693.プラザ合意(輸出大国・日本への影響)
694.ブラック・マンデー
695.債務に喘ぐ中南米諸国(ブラジル1980~1990年代
696.債務に喘ぐ中南米諸国(アルゼンチン、1980~1990年代)

697.債務に喘ぐ中南米諸国(メキシコ1980~1990年代
698.債務に喘ぐソ連・東欧諸国(1980~1990年代)

699.新保守主義(イギリスの金融)

700.検討中

701.検討中

702.検討中

703.米ソの核軍縮(1980年代)
704.核戦争を未然に防いだ男(スタニスラフ・ぺトロフ)
705.アメリカの債務国化

706.インドのボパール化学工場の爆発(1984)

707.ソ連の政治経済(1988)
708.ソ連の政治経済(1990年1~6月)
709.ソ連の政治経済(1990年7~12月)
710.ソ連の経済(1991)
711.ソ連の社会主義の崩壊(クーデターへ)
712.ソ連の社会主義の崩壊(クーデターとその失敗)
713.ソ連の社会主義の崩壊(クーデター後)
714.ソ連の国民投票(1991年3月)
715.ソ連から15の共和国へ
716.ソ連の崩壊と核兵器
717.ロシアの市場経済化(1991~1995、概観)
718.ロシアの市場経済化(1991~1995、工業の民営化)
719.ロシアの市場経済化(1991~1995、農業の民営化)
720.ソ連社会主義の崩壊要因
721.インドの経済改革(199~11995)

722.カザフスタン
723.トルクメニスタン
724.ウズベキスタン
725.タジキスタン
726.キルギス
727.ジョージア(旧グルジア)
728.アルメニア
729.アゼルバイジャン
730.ベラルーシ
731.モルドバ
732.ウクライナ
733.バルト3国
734.ウクライナ

735.検討中

736.検討中

737.検討中

738.検討中

739.検討中

740.検討中

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760.検討中

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769.検討中

770.検討中

771.検討中

772.検討中

773.検討中

774.検討中

775.モンゴル

776.検討中

777.検討中

778.検討中

779.検討中

780.検討中

781.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランド1970~1988)

782.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランド1989、政治面)
783.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランド1989、経済面)

784.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(チェコとスロバキア)

785.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ハンガリー)
786.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(アルバニア)
787.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ルーマニア)
788.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ブルガリア)
789.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(東ドイツ)
790.旧ユーゴスラビアの解体
791.スロベニア
792.クロアチア
793.セルビア
794.モンテネグロ
795.ボスニア・ヘルツェゴビナ
796.マケドニア
797.中国の天安門事件(1)
798.中国の天安門事件(2)
799.中国の社会主義市場経済
800の1.日米半導体摩擦など1

800の1.日米半導体摩擦など2

★★★

801.1980年代の米ソの軍縮
802.1990年の湾岸戦争
803.1990年代前半の世界経済、投資加熱の行方(1)
804.1990年代前半の世界経済、投資加熱の行方(2)
805.アパルトヘイトの廃止
806.アジア通貨危機(タイ、インドネシア発)
807.アジア通貨危機(韓国発~1997.11.21)
808.アジア通貨危機(韓国、1997)
809.アジア通貨危機(韓国、1998)

810.アジア通貨危機(タイ)

811.アジア通貨危機(インドネシア)

812.アメリカの金融資本(1995~1999)

813.検討中

814.検討中

815.検討中

816.検討中

817.検討中

818.インドの政治(1998~2008)

819.20世紀の天文学(20世紀前半)
820.20世紀の天文学(20世紀後半)
821.2001.9.11アメリカ
822.2001.9.11はなぜ起きたのか

823.アメリカのカリフォルニア電力危機
824.米英らによるイラクとの戦争(20002003.7)
825.米英らによるイラクとの戦争(2)
826.アメリカのイラク戦費
827.1990~95年の世界金融と円高・ドル安
828.1995~99年の世界金融とロシア金融危機(国債金融の視点から)
829.1995~99年のロシア金融危機(1997~1998.6)
830.1995~99年のロシア金融危機(1998.7~8.22)
831.1995~99年のロシア金融危機(1998.8.23~1999)
832.ドイツ再統一
833.仏独の歴史的和解
834.リーマン・ショックと世界恐慌(1)
835.リーマン・ショックと世界恐慌(2)
836.スノーデン事件
837.世界ですすむ経済格差の拡大
838.アメリカ経済1(2009~2017)
839.アメリカ経済2(2009~2017)
840.アメリカ経済(3)経済格差の拡大
841.『21世紀の資本』でみる欧米の所得格差の推移
842.アメリカノ経済成長に4つの向かい風
843.中南米にはびこる麻薬
844.経済格差の拡大(データの紹介)

845.中国経済1(2009~2017)
846.中国経済2(2009~2017)
847.欧州経済(2009~2017)
848.日本経済(2009~2017)
849.韓国経済(2009~2017)
850.インド経済(2009~2017、概略)
851.インド経済(2009~2017、多国籍企業下の労働運動)
852.インドの労働(概要)

853.検討中

854.検討中

855.検討中

856.検討中

857.検討中

858.インドとアメリカの原子力協定(2008)

859.その他の地域1アフリカ(2009~2017)
860.その他の地域2南アメリカ(2009~2017)
861.その他の地域3中南米(2009~2017)
862.インドの2013年食糧安全法

863.インドの外資導入(小売業など、2012)

864.インドのオーストラリアからのウラン鉱石の輸入と国内調達

865.(未定)

866.(未定)

867.インドの市民運動(~2017)

868.農村雇用保障法からガンジー雇用保障法へ(2009)

869.その他の地域4ロシア(2009~2017)
870.その他の地域5北欧(2009~2017)
871.その他の地域6アフガニスタンなど紛争地域(1993~2017)
872.中東(2009~2017)
873.中東(2018)

874.朝鮮の南北首脳会談(2018)

875.東欧(1990~2018)

876.エジプト(1990~2018)

877.ルーマニアなど(1990~2018)

878.トルコ(1990~2018)

879.朝鮮半島(1992~2018)
880.カンボジア内戦と和平の歩み
881.ミャンマーのロヒンギャ
882の1.シリア内戦(~2016)

882の2.シリア内戦(2017~2018)

882の3.イラクとIS

883.南アジア(インド、パキスタンなど)
884.ドバイ・ショック
885.イラン核合意
886.民族主義の変遷
887.アラブの春(チュニジア発、全体へ)

888.アラブの春(その本質・拝啓)

889.アフリカで帝国主義は生き延びているか(2012)
890.アラブの大義とは(四国とカタール)
891.イギリスの国民投票とEU離脱に向けた動き
892.新興国などの核兵器開発
893.核軍縮の光と闇
894.広がる世界の経済格差
895.日本とロシアとの経済協力をめぐって
896.中国の外貨準備の変化
897.世界政府をめぐって
898.世界人口100億人時代へ
899.南アフリカの2016~2017年
900.中国の地域格差(2015)

901.二つの大国の現在(2017~2018、政治)

902.二つの大国の現在(2017~2018、経済)

903.溶ける氷河

904.パリ協定(地球温暖化)

 

(作成中)

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♦️878の2『自然と人間の歴史・世界編』トルコ(1990~2018)

2018-10-17 09:11:49 | Weblog

878の2『自然と人間の歴史・世界編』トルコ(1990~2018)

 トルコは、東洋と西洋の境目に位置しており、どちらの要素もしみじみあって、そのことがおりおりの政治にも反映されてきた。

 2016年7月15日には、軍の一部によるクーデター未遂事件が発生した。彼らの武装蜂起により、首都アンカラにある大国民議会、軍関連施設、大統領府などが襲撃された。これに対して反撃に転じた政権側は、結局は鎮圧する。クーデターは失敗し、双方での死者240人、負傷者は2000人を超える惨劇となったという。政権側は、ギュレン師と信奉者団体が「首謀者」だとみなす。アメリカ在住のギュレン師は、これを否定している。政権は、20日には、全土に3か月の非常事態宣言を出す。少数民族クルド人に対しても、通信を制限するなどの政治的圧力を加えた模様だ。

 8月24日、トルコ軍が、過激派組織「イスラム国」(IS)の掃討を名目にシリア北部に侵入する。12月10日、首都イスタンブール中心部で連続爆破テロが起き、44名が死亡した。

 2017年1月1日、イスタンブールの高級ナイトクラブが襲撃され、39名が死亡した。これには、ISの犯行声明があった。

 4月16日、大統領の大幅な権限強化を盛り込んだ憲法改正案の是非を問う国民投票が実施された。僅差で賛成派が多数を獲得し、憲法改正が成った。当初は2019年11月の実施予定であったが、政権のごり押しで2018年6月の大統領選挙を経て本格移行することになる。

 大統領は、この改正で大きな権限を持つことになる。「実権型大統領制」と呼ばれ、非常事態宣言、議会解散権、副大統領・閣僚・上級公務員の任命権、国家予算の提出権を持つ。

 5月21日、エルアドン大統領が、与党・公正発展党(AKP)に復党したうえ、党首に就任する。7月16日、国会が4回目の非常事態宣言の延長を宣言し、19日に発効する。野党第一党の共和人民党(CHP⦆は「正義は失われている」と批判する。同党が中心となり、17日に「非常事態の解除や司法の独立」を掲げ、反政権の集会に約17万5千人(当局発表)が集う。

 2018年1月には、少数民族クルド人の武装組織掃討を掲げ、シリア北部で越境軍事作戦を展開する。7月19日には、一昨年7月のクーデター未遂後に発令それた国家非常事態宣言が解除された。3月に発表の国連人権高等弁務官事務所の報告書によると、次のような出来事があったという。

 「逮捕は約16万人(2017年末まで)、公務員の免職は15万2千人以上(2017年末まで)、人権関連NGO・団体の閉鎖1719組織、メディア企業の閉鎖166社、逮捕・拘束されたジャーナリスト約300人、民間機関の閉鎖による失職者数2万2474人、遮断されたウェブサイト10万以上」(朝日新聞、2018年7月20日付け)

 

(続く)


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♦️876『自然と人間の歴史・世界編』エジプト(1990~2018)

2018-10-16 21:29:14 | Weblog

876『自然と人間の歴史・世界編』エジプト(1990~2018)

 エジプトにおいては、2011年2月の「アラブの春」によりムバラク大統領が辞任を余儀なくされた。長期政権の終わりとなり、自由を叫ぶ民衆には高揚感があった。

2012年6月に行われた大統領選挙では、イスラム組織「ムスリム同胞団」出身のムルシが新大統領に当選する。就任するや、彼は宗教色を強める方向へと動いていく。8月、そのムルシ大統領がタンタウ国防相を解任し、シーシを指名する。

2013年6月、反ムルシ派の大規模なデモが起きる。これを利用して、軍がムルシを大統領職からおろし、イスラム色の強い政権は崩壊する。暫定内閣が組閣となる。ムルシの勢力は排除された。8月には、治安部隊がムルシ派のデモを排除し、多くの死傷者が出る。

2014年6月には、軍のシが大統領に就任する。2016年4月、紅海にあるチラン、サナフィルの2つの島がサウジアラビアに帰属するという内容でサウジ政府と合意する。12月には、カイロのコプト教会で爆発が起き、ISが犯行声明を発す。

2016年の8月には、IMF(国際通貨基金)から3年間で計120憶ドルの融資を受けることで合意をとりつけたという。11月には、通貨のエジプトポンドの固定相場制を変動相場制に改めた。ところが、通貨の価値は、2018年3月の時点では、ドルの半分以下になっているとされるのだが。2017年の物価上昇率が高いのには、通貨減価による輸入価格の上昇も寄与しているのではあるまいか。

2017年4月には、アレクサンドリアなどコブト教会で連続爆破事件が起き、ISが犯行声明を行う。エジプト政府は、全土に国家非常事態を敷く。5月、中部のミニヤ県でコブト教徒をせたバスが襲撃を受け、ISが犯行声明を発す。11月には、シナイ半島のモスクがテロ攻撃を受け。300人以上が死傷する。

(続く)


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♦️882の2『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2017~2018現在)

2018-10-16 18:52:23 | Weblog

882の2『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2017~2018現在)

 国連人道問題調整事務所の2017年1月時点の報告によると、2011年3月以降、シリアでは死者約25万人、負傷者は100万人を超過している。国外へ逃れた人々は490万人、国内避難民は650万人に上る。また、シリア国内では1350万人が人道支援を必要としている旨。
 2017年2月には、国連安保理がアサド政権の化学兵器使用に対する制裁決議案なるものを採決に持ち込むが、ロシアと中国が拒否権を行使して不成立となる。そのロシアは、2015年9月に、アサド政権を支援するために大規模な軍事介入に踏み切っていた。
 2017年4月、シリア北西部のイドリブ県で空爆がある。住民80人以上が死亡したと伝えられる。「政権軍が化学兵器使用」と反体制派が非難、アメリカも、化学兵器使用とみられると発表する。シリアのアサド政権は、そんなことはやっていないと否定する。これに対し、アメリカが、地中海に展開の空母からシリアに数十発の巡航ミサイルを発射する。政権軍の空軍施設などを狙った。
 6月には、OPCW(化学兵器禁止機関)がイドリブ県で使われたのは猛毒のサリンを用いた化学兵器であったとの見解を調査報告書にして発表するも、使用者は特定しなかった。7月には、イラクのアバディ首相がモスルの対IS作戦で勝利宣言を行う。
 この年の2017年10月になると、アメリカ軍が支援するクルド系のシリア民主軍(SDF、「人民防衛隊(YPG)」。後者はクルド人主体の連合部隊)が、ISの首都とされる北部の都市ラッカの解放を宣言する。ここにSDFとは、ISの掃討作戦を行ってきた少数民族クルド人勢力中心の部隊であり、自らの大義のため命を惜しまず、頑強に戦うことで知られる。
 追い出された側のISは2014年にラッカを占拠し、一方的に「首都」と宣言し、以来、この地を死守してきたのだが、ついに落城となった。
 SDFは米軍の支援を受け、2017年6月から市内で軍事作戦を展開していた。激しい戦闘により、推計3000人もの兵士が死亡したとされる。SDFは17日に大規模な戦闘の終結を宣言し、残る戦闘員の掃討や地雷除去などを行ってきた。SDFは、ラッカは「地方分権が進んだ民主的なシリア」の一部を構成するとして、シリア北部に広がるクルドの勢力圏に組み込みたい考えをにじませている。より俯瞰して言うと、ISから街を奪還したことで、クルド人自身による国づくりを視野に入れたい。11月になると、政府軍が反体制派拠点の東グータ地区への攻撃を開始する。

 そして迎えた2017年12月、ロシアのプーチン大統領が、シリアからのロシア軍の撤退開始を命令する。同12月時点のダマスカスと周辺の支配図(12月22日付け毎日新聞)によると、市の北東部の一角を反体制派が占め、旧市街の南にあるスペイナ地区には、反体制派地域とIS地域が混在する。アサド政権が全体的に優勢であるものの、反政府勢力との和平の見込みは立っていないし、ISの抵抗も散発的だが残っている。
 この2017年12月の時点で、「これまでに40マン人以上が命を奪われ、内戦前の人口約2200マン人の半数以上が家を追われた」(朝日新聞、2017年12月19日付け)ともいわれる。

 2018年1月、アメリカのティラーソン国務長官が、IS掃討後もアメリカ軍のシリア駐留を継続する考えを示す。同月、隣国トルコの政府軍と反体制派が、YPG支配下のアフリンに越境作戦を行う。2月、シリア首都ダマスカス近郊(約10キロメートル東にある農業地帯)の反体制派支配地域「東グータ地区」をアサド政権軍が攻撃する。これにより、反体制派の在英NGO「シリア人権監視団」によると、18日から22日朝までに少なくとも市民335人が死亡、1700人以上が負傷したと発表される。
 また、2月21日のシリアの少数民族クルド人勢力主体の武装組織「シリア民主軍」(SDF)は、同組織が支援を受けるアサド政権側の民兵部隊が、シリア北西部アフリンにおいてトルコ軍による砲撃を受けたと発表する。これに対しドルコの大統領報道官は、「政権軍であろうが別の部隊であろうが、クルド人に加勢する者は重大な結果を被る」と警告する。
 2018年4月3日、アメリカのトランプ大統領がアメリカ軍のシリアからの早期撤収につき、「すぐに判断する。撤収させたい」と表明する。4月7日、東グータ地区とドゥーマ地区へ空爆が行われる。救助組織などは、49人の住民が呼吸困難の症状で死亡、化学兵器が使われたのではないかと指摘した。10日、国連安保理において、化学兵器使用の調査チーム設立案を採決したところ、ロシアが拒否権を行使して廃案となる。13日、これをアサド政権側が仕掛けたと判断したアメリカ、イギリス、フランスの軍による、シリア政府軍軍事施設へのミサイル攻撃が1回にかぎり実施された。
 4月14日には、政府軍が反政府派の拠点東グータ地区を制圧したと宣言する。


(続く)

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♦️882の1『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2011~2016)

2018-10-16 18:51:26 | Weblog

8821『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2011~2016)

 シリアは、北をトルコ、西を地中海とイスラエル、南をヨルダン、東をイラクと接する。宗教面では、首都ダマスカスの旧市街には、715年に完成の世界最古のモスク(イスラム教礼拝所)があり、イスラムの聖地の一つでもある。ゆえに、ここでの政治情勢の変化はとたんに近隣諸国に影響を及ぼす。
 このシリアでの内戦は、2011年に始まる。まずは、これより前の2010年12月、チュニジアで反政府デモが起こる。これが中東各地に広がり、「アラブの春」と呼ばれる。その本質は民主化運動だといえよう。
 その波はシリアにも及び、2011年2月にダルアーで小規模な反政府デモが起こると、3月には、各地で小規模な反政府デモが開始される。国内各地に政権打倒を叫ぶ大規模デモが広がっていく。やがて、民主化運動は内戦へと変化していく。

5月には、デモ参加者がアサド政権の武力弾圧に抵抗して武装を開始する。内戦は、かたや政府軍に対し、反政府勢力(「自由シリア軍」)というのが主な構図だが、その他多くの武装勢力も参加していく。それらの対立によって泥沼化していく。
 明けて2012年7月、北部の都市アレッポでアサド政権と反体制派の戦闘が本格化する。なお、アレッポは首都ダマスカスに次ぐシリア第二の都市で、内戦前は約300万人の人口で商工業の中心。紀元前から、地中海世界とメソポタミア地方を結ぶ交易中継地として栄えてきた。
 2013年8月、首都ダマスクスの近郊の東ゴータ地区にて、反体制派が「政府軍の猛毒ガスで1350人が死亡」と発表する。ダマスカス近郊でアサド政権軍による化学兵器使用が取り沙汰されたのだ。アメリカのオバマ大統領が、アサド政権の化学兵器使用でシリアへの限定的軍事介入を表明する。
 9月には、アメリカとロシアとがシリアの化学兵器を国際管理下におくことで合意し、アメリカのオバマ大統領はシリアへの軍事介入を見送る。
 2014年1月、国連の仲介で、反体制派と政権側との和平協議が開始される。6月、イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」(IS)が、北部モスルを制圧し、その北部の都市ラッカを首都とする国家樹立を宣言する。この同じ月、アサド政権が保有しているとみられる化学兵器の原料となる物質につき、化学兵器禁止機関(OPCW)が国外搬出を終えたと発表する。9月には、アメリカ軍を中心とする「有志連合」の軍が、がシリアのIS拠点への空爆を開始する。

2015年5月、ISが国連・世界遺産のあるパルミラを制圧する。春の時点で、反体制派がイドリブ県の大半を制圧する。9月には、アサド政権を支援するロシアが、シリアのIS、反体制派の両方への空爆を開始する。

 2016年2月、政権側と主要反体制派が停戦に合意する。しかし、その後停戦が崩壊。8月、国連が2014年4月と2015年3月における、アサド政権によるシリア北西部イドリブ県の反体制派拠点への化学兵器の使用を裏付けるとした、調査報告書を発表する。
 2016年12月、アサド政権・政府軍が反体制派の拠点アレッポを制圧、奪還する。ロシア・トルコ主導の停戦が全土で発効する。しかし、この間も戦闘は続く。つまりは、停戦は合意されたものの根本的な解決に向かって動くことなくいるうちに、その合意は順守されることなく、戦闘がぶり返している。

(続く)

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♦️882の3『自然と人間の歴史・世界篇』イラクとIS(2013~2018現在)

2018-10-16 10:44:08 | Weblog

882の3『自然と人間の歴史・世界篇』イラクとIS(2013~2018現在)

 2013年4月、イスラム過激派アルカイダのイラク支部のリーダーだったとみられるバグダディが、「イラク・シリア・イスラム国」(ISIS)の樹立を宣言する。国際社会では、「過激派組織「イスラム国」(IS)」と通称している。2014年1月、ISISはシリアでも反体制派・自由主義軍を破り、ラッカを占領する。6月になると、ISISはイラク北部のモスルにも攻略をはたする。そして迎えた6月29日、バグダディがカリフ制に基づく「イスラム国」の樹立を宣言する。

 2015年12月には、イラク軍がラマディを奪還する。これを契機に反転攻勢に打って出る。2016年6月26日、イラク軍がファルージャの解放を宣言する。2017年7月10日、シリアでクルド人勢力らの連合軍が、ISISが首都とするラッカを奪還する。

 2017年11月、イラクの隣国シリアのアサド政府軍は自国の東部でリゾール県のユーフラテス川の西側に位置する県都デリゾール、イラク国境のアブカマルなどIS拠点を制圧する。そして迎えた12月9日、イラクのアバディ首相が、イラクからのIS掃討作戦の官僚を宣言する。これより前の6日には、ロシアが「IS掃討の完了」を宣言していた。

 

(続く)

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♦️875『自然と人間の歴史・世界編』東欧(1990~2018)

2018-10-16 10:06:32 | Weblog

875『自然と人間の歴史・世界編』東欧(1990~2018)

 東欧諸国の中で、自称「自由化、民主化」の波になかなか乗れない国もある。まずは、ルーマニアの近現代史を紐解くと、1878年にオスマン帝国から独立を果たす。1881年、ドイツ出身のカロル1世が即位し、ルーマニア王国を名乗る。大戦後の1947年、王政は廃止され、社会主義体制をとる。1989年の自由を求める国民のデモの中で、チャウシェスクの率いる独裁政権が崩壊、民主化の波が主流となる。

 2004年には、決して、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する。2007年には、ルーマニアはEU(欧州連合)に加盟する。 

(続く)

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♦️879『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮半島(1992~2018)

2018-10-16 09:51:09 | Weblog

879『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮半島(1992~2018)

 朝鮮半島は、朝鮮戦争での休戦ラインを挟んで北と南とで対峙する様になって以来、同じ朝鮮民族同士で軍事的ににらみあってきている。朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」という)は、南の大韓民国(「韓国」という)に長距離砲の軍門を並べでいる。南の方も、北に向かっての戦争に備えている。そして韓国軍の後には、在韓米軍が控えている。米韓は、自分達が取り組んでいるのは北の脅威に対抗しての共同防衛の陣を敷いているのだという。
 1992年、南北の間で非核化宣言がなされる。「核兵器の製造、保有、使用は行わない」とするもので、北朝鮮側のキム・イルソン主席が積極的役割を果たす。翌1993年、北朝鮮はNPT(核不拡散条約)からの脱退の意思を明らかにし、国連の安全保障理事会(「安保理」と通称)では、NPT(核拡散防止条約、1968年7月1日に発効)への復帰を要請する。1994年には、アメリカと北朝鮮の間で、核兵器開発の凍結と原子力発電所・軽水炉の提供についての合意が成ったものの、その後に話は破綻になってしまった。1998年には、北朝鮮が長距離弾道ミサイルのテポドンを発射した。
 北朝鮮に対する安保理による制裁決議の採択は度々にわたる。その理由とされる北朝鮮の軍事行動はだんだんと高度化していく。2000年には、アメリカのクリントン大統領が予定していた北朝鮮への訪問を諦める。2002年には、アメリカのブッシュ大統領が、北朝鮮などを「悪の枢軸」と発言する。2003年、北朝鮮がNPTからの脱退を再度宣言したことで、米朝の協議か暗礁に乗り上げた形になると、北朝鮮のさらなる軍事行動をくいとめるべく6か国(中国が議長で米韓日ロが参加)による協議が開始となる。
 2005年、北朝鮮が「自営のための核兵器製造」を表明する。これに対し、6か国協議による共同声明が出される、その中で核兵器の放棄と北朝鮮の不侵略で求める。同年、6か国協議がまとまり、北朝鮮のキム・ジョンイル総書記が「すべての核兵器と検討計画を放棄する」ことを表明する。
 2006年7月、北朝鮮は弾道ミサイル7発を撃ち、10月には1回目の核実験を行う。これを受けて国連安保理が動く。加盟国に北朝鮮への大型兵器や贅沢品の輸出禁止を求めることを決める。これが、安保理による北朝鮮への最初の制裁措置に踏み切った時であった。2009年6月、安保理において北朝鮮への制裁の拡大を打ち出す。具体的には、すべての武器の禁輸、制裁履行の監視強化の決定が行われた。こちらの制裁の原因となったのは、2006年10月の1回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定0.8キロ・トン、ちなみに広島に投下された原爆の規模は同15キロ・トン)、2009年5月の2回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定3~4キロ・トン)などであった。
 2012年4月には、国連安保理において、北朝鮮の核・ミサイル開発への議長声明が出される。2013年1月、ミサイル発射に関与した4個人6団体の資産凍結が行われる。制裁の原因となったのは、2012年12月には、弾道ミサイル・テポドン2改良型が発射された。そして2013年2月に北朝鮮が3回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6~7キロ・トン)を行うと、国連の安保理は、3月にこれの制裁として核ミサイル関連貨物の検査を義務化する。この年、北朝鮮のキム・ジョンオン委員長は、「経済建設と核開発を同時に進める」との並進路線を表明する。
 2016年3月、北朝鮮からの鉱物資源の禁輸・制限措置が決定される。この制裁の原因となったのは、同年年1月の4回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6キロ・トン)と弾道ミサイルの発射であった。続いての9月には、北朝鮮による5回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定10キロ・トン)があった。2016年11月、これらに反応した国連安保理が、それまで民生用に限り認めてきた北朝鮮からの石炭輸出に上限を設定する。
 2017年2月12日、北朝鮮は新型中距離ミサイル「北極星2」を発射する。3月6日、中距離「スカッドER」4発が発射される。5月14日、中距離「火星12」を発射した。21日には「北極星2」を発射、29日にもミサイルを発射する。6月、ミサイル開発に関与した14個人4団体の資産を凍結する。こちらは、5月に2回目の弾道ミサイルの連続発射があったことへの制裁措置となっている。
 さらに、7月4日と28日に大陸間弾道ミサイル(ICBM、「火星14」)発射がある。これに対し、8月の国連安保理で石炭や鉄鉱石それに海産物の同国からの輸出を例外なく禁止する措置(禁輸)を発表する。新規の北朝鮮労働者の受け入れ禁止も決めたのだといわれる。この場では、米国などが当初求めた軍事目的の石油の取引制限を主張したのであったが、これに穏健派の中国とロシアが反対したため、同決議には盛り込まれなかった。
 8月21日からは、米韓による共同軍事演習「乙支(ウルチ)フリーダム・ガーディアン」が始まった。この軍事演習においては、グアム島にいる米軍のB1戦略爆撃機が参加することも含まれるという。8月26日、短距離弾道ミサイル3発が発射される。続いて29日、弾道ミサイルが発射され、日本上空を通過し太平洋上に落ちた。グアム島のアメリカ軍基地に届く飛距離をねらっての発射だとみられる。
 これに対し、国連安保理の議長名で北朝鮮を非難する決議を出す。アメリカや日本が北朝鮮に対し石油禁輸も含めた最大限の対抗措置をとるよう働きかけ、中国とロシアは北朝鮮を挑発している米韓軍事演習の中止も求める。9月3日には、北朝鮮は6回目の核実験(TNT火薬換算の規模は日本政府の推定で70キロ・トンとも)を行い、これを「水爆」だと主張する。
 2018年に入ってからは、中国も入っての北朝鮮へのかつてない厳しい経済制裁が続く。そんな中、情勢を大きく変える動きがあった。北朝鮮のキム・ションオン委員長が、これまでの経緯から一転、韓国とアメリカへ向け、事態打開のための首脳会談を呼びかけたのだ。3月末には、彼は中国を急遽訪問し、交渉での後押しを頼んだとみられる。4月27日には、南北の首脳会談が行われた。
 これまでを振り返ると、21世紀に入ってからは、この両者の力関係に大いなる変化が認められる。その一つは、北朝鮮の核武装化がひとまず成功した、とみられることだ。大陸間弾道ミサイル(ICBM:intercontinental ballistic missile)の開発がかなり進んだことになっている。これには、隣国のロシアが開発をひとまず完了したとの確認情報を入れているところだ。
 今ひとつは、アメリカはアメリカ本土を攻撃できる兵器を認めたくない。一方、これを機に米軍と韓国軍との戦闘能力の一体化が進みつつある。こうなると、互いの非難合戦が果てしなく続くことになろう。互いにか、どちらかからか、この動きをとめないと事態はエスカレートしていくばかりであろうにと、世界の世論がこれを心配するのは当然のことだ。双方とも、このまま一触即発の事態となることを望んでいる訳はではあるまい。その先にあるのは戦争でしかない。そして戦争というものは、偶発的に起きることがあることから、互いの自制が求められる。
 国際的な核兵器の拡散が進む中、21世紀に入っての国対国での局地戦の特徴は、核兵器の使用が絡んでくることであろう。これには、通常兵器で武装した勢力が、原発など原子力施設の攻撃を計画する場合を含む。朝鮮半島の有事とて、その例外ではない。ちなみに、北朝鮮の核兵器の保有能力については、韓国側の現状認識として、例えば次の紹介記事がある。
 「韓国国防白書(2016年版)によれば、北朝鮮は兵器用プルトニウムを50キロ以上保有。北朝鮮の技術力があれば、プルトニウム4~6キロで核兵器1個を製造可能だとされる。高濃度ウラン型と合わせ、20年までに計50個の核弾頭を保有するとの指摘もある。化学兵器や生物兵器も保有する。」(朝日新聞、2017年4月16日付け)
 ついては、自国領土に飛来してくるICBMを撃墜できるかどうかであるが、現段階で確実なことは何も言えないという。迎撃をとる場合の技術面で最も難しいのは、当該弾道ミサイルの終末局面(ターミナルフェイズ・大気圏再突入から着弾期)なのだという。音速の20倍からの速度でほぼ垂直に落下してくる核弾頭を迎撃ミサイルでもって撃ち落とす実験を、アメリカ度々行っているという。

 とはいうものの、成功率は公式報道されているほどには、そう高くないのではないか。しかも、演習では、某かの情報が前もって知れている上、単独弾頭に対応して行うものであり、いわば「模擬実験」のようなものだ。これまでの迎撃システム・技術が、実戦で発射される場合の核弾頭の迎撃にどれほど役立つかは技術的に未知数であるとし、そうなると、先制攻撃への誘惑が出てくることになるだろう。
 これらから、今回の和平進展への転換が行われれば、政治的にも、軍事的にも、それから北朝鮮の経済困窮についても、何らかの改善が期待されるのである。

(続く)

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□159『岡山の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

2018-10-15 21:21:03 | Weblog

159『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

 雪舟(せっしゅう、1420?~1506?)の人生がどんなであったかは、実はあまりわかっていない。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。

 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。帰国後、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。

 「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。

(続く)

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□215『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山室軍平)

2018-10-15 20:35:19 | Weblog

215『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、山室軍平)

 山室軍平(やまむろぐんぺい、1872~1940)は、岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)に生まれた。家が貧しかったため少年時代に養子に出された。上京して働いていたときにキリスト教に触れる。同志社大学に入学したものの、同大学を中退して岡山に帰り、石井十次らと高梁教会などで伝道活動を行った。

 その後、石井十次の勧めで救世軍に参加する。救世軍(Salvation Army)とは、現在世界の120以上の国と地域でキリスト教の伝道、社会福祉、教育、医療などを推進するキリスト教(プロテスタント)の教派団体である。

 入軍してからはめきめきと頭角をあらわし、やがて東洋で最初の中将となり、さらに日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動などに力を尽くした。 

(続く)

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□214『岡山の今昔』岡山人(20世紀、留岡幸助)

2018-10-15 20:28:00 | Weblog

214『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、留岡幸助

 留岡幸助(とめおかこうすけ、1864~1934)は、備中松山藩(現在の高梁市)の理髪業の家に生まれた。生まれて後、米小売商留岡家の養子になった。8歳で漢学塾に学び、小学校に通う。1880年(明治13年)、キリスト教を知る。1884年、高梁で行われたキリスト教宣教師の講演で「武士も農民も商人も、神の前では皆同じで、平等である」と聞き感銘を受け、上代知新から洗礼を受けた。 

 郷里の先達、山田方谷(やまだほうこく)の教えの一つに、「至誠惻怛(しせいそくだつ)」といって、福祉と奉仕の勧めにも影響を受けたのではないか。やがて地元の支援により同志社大学に進学する。卒業後は、結婚し京都の丹波(たんば)で宣教師として働く。やがてアメリカへ留学し、彼の地で監獄制度や感化事業を学んだ。特に、感化事業に関心をもち、日本でも同様の施設を創設するために奔走した。東京巣鴨や北海道に家庭学校を設立した。これらの活動をして 彼は「感化事業の父」と称される。感化事業とは、非行の性癖のある少年少女を保護・教育してその矯正を図ることをいう。

(続く)

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◻️213『岡山の今昔』岡山人(20世紀、石井十次)

2018-10-15 20:24:17 | Weblog

213『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、、石井十次


 石井十次(いしいじゅうじ、1865~1914)は、現在の宮崎県高鍋町に生まれた。
長じては、1879年に東京の芝の攻玉社に入学する。1881(明治14年)年に結婚し、宮崎で小学校教師、警察署の書記として勤めた。1882年(明治15年)、岡山県甲種医学校(現在の岡山大学医学部)に入学。1884年(明治17年)、岡山にて金森通倫より受洗してキリスト教徒となる。医学を志すも、1887年卒業試験に失敗し、岡山の上阿知診療所で医師としての実習を兼ねて代診をしていた。
 その後、1887年(明治20年)に岡山市の三友寺を借りて、日本孤児教育会を開始する。通称は「岡山孤児院」(岡山市門田屋敷に在)といって、日本で最初に孤児院を創設したことになっている。ちなみに、「紅岸寺跡から県道28号線を東へ3.5キロメートルほど行き、上阿知中バス停から北に入ると大師堂があり、東側に「岡山孤児院発祥地碑」が立っている」(岡山県の歴史散歩編集委員会編「岡山県の歴史散歩」山川出版社、2009)とのこと。

 その石井は、最初から孤児救済施設を「教育院にして養育院にあらず」と述べ、食べさせるだけではなく、労働を通じて教育をすることが大切であるとの信念のもと、以降、多いときは千数百人の子供を養っていた。この岡山での施設は、彼の生きていた頃の全盛期1907年(明治40年)を経て、1912年(大正元年)の里預かり地の91名を残して宮崎県に移転するまで続いた。石井は、その2年後に力尽きたのであろうか病没する。その新天地に移るまでの間、延べ3000人以上の孤児を救済したとも言われる。
 石井十次と友情で結ばれ支援した人々の中に、大原孫三郎と児島虎次郎(1881~1929)がいる。大学を中退し倉敷で悶々としていたであろう大原は、石井の講演を聞いて感銘を受ける。それまでの放蕩癖を改め、倉敷の事業家となってからは石井の事業の最大の支援者となった。児島は、大原家の奨学生となって絵画を学んだ。後の大原美術館開設に当たっては、大原の元でその美術面での目利きの手腕を発揮した人物だ。その彼が、大原の紹介で岡山孤児院に泊り込んで「情けの庭」を描いた。石井十次は、児島虎次郎の実直な人柄に惚れこみ、長女を児島の嫁にした。こうして彼の社会事業は、地元実業家の支えもあって発展していったのであった。

(続く)

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