まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

真藤氏 リクルート事件

2018-09-29 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

NTTデ-タ通信本部在職時に真藤イズムの一環としてソフトウェアのモジュ-ル化の推進が言われた。造船の製造工程からの類似の考え方からくる製造工程の合理化手法だった。真藤イズムのモジュ-ル化以前から銀行システムでこの考え方のもとにいくつかのものが開発導入された例があるが、システムのモジュ-ルでこの手法が実を結んで開発合理化の実を結んだとの記憶はない。理念は正しいが、現場のオペレ-ションが追い付いていないときの進み過ぎた理念は害になることがある。

1996<1月16日 NTT顧客サービス統合システム CUSTOM の全国導入が完了する>

{シンシナティ-・ベルの顧客システムが何故日本に導入されるのか}

真藤社長の時代に中曽根内閣の日米貿易摩擦解消の一環でこの顧客サービス統合システムCUSTOMが始まったと記憶しているので1985年頃のことと思う。この「CUSTOM」は、当初米国の地域電話会社の一つであるシンシナティ-・ベルの顧客システムをコンピュ-タとソフトウェアをそのまま使用し、プログラムだけは日本語に翻訳して導入するというコンセプトであった。

私がかつて勤務したNTTデ-タ通信本部はこの「CUSTOM」開発を担当せず、NTTデ-タ通信本部が民営化するときに分離したNTT社内システムが担当して開発を進めた。このNTT社内システム開発部門についてひとこと申し添えると、この部門はそれまでNTTデ-タ通信本部の中で料金計算など現業部門のオペレ-ションも実施しており、他の部門が民間銀行や運輸省、郵政省等の国営のシステムを開発して外部から収益を得ているのに対してやや特殊な位置を占め、社内の各種システムを請け負っていたが、NTTデ-タ通信本部がNTTデ-タ通信株式会社として分離するときにNTT本体側の組織の一つとして残ったものだ。元の同僚や先輩の誰それがNTT社内システムに残るのか、関心を持って眺めたものだ。

{形(システム)を変えれば中身(事務作業の効率化)が変わるのか )

真藤社長の「形(システム)を変えれば中身(事務作業の効率化)が変わる」という考え方で、非効率なNTTの事務処理をなんとか効率化したいとの気持ちから導入を始めたと当時NTT社内からCUSTOM導入の意図が聞こえてきた。現場の作業レベルを変えるには米国流コンピュータ・システムを導入するのがよいとの大局的判断から出たものと思う。同時に中曽根元首相の押しでNTT社長に就任した背景もあり、中曽根内閣への協力の意味合いもあったのだろう。()中曽根元首相も又レーガンとの交友関係からなんとかしてレーガンの顔をたててやりたかったのだろう)

しかしその後、やはり米国の一地方(シンシナティ-)の顧客システムをそのまま日米言語の翻訳レベルでNTTに導入しようとすることに無理があったために莫大な費用をかけた後に一旦開発を中止した。莫大な費用(確か数百億円)をどぶに捨てたと非難されたがその後、紆余曲折を経てほぼ10年後のこの年にようやく完成した。おそらくオリジナルなシステム開発となり、当初のシンシナティー・ベルのシステムはまったく姿をとどめていないのでないか。

このシステム開発史は非常に重要な意味合いを持つので、どなたかが是非ノンフィクションドキュメントとして書き残してほしい。

{真藤氏の辞職で開発に勢いがなくなる}

「CUSTOM」の開発が当初もたつきをみせたのは真藤氏の辞職と関係があると思う。強力なリ-ダシップで導入を決定してもこうしたシステム開発は数年にわたることが多い。リ-ダが不在になると途端に息切れが始まる。あるいは現場の業務の流れを理解していないとの強い反対があり大幅な仕様変更を迫られたためだとも考えられる。最後まで完成にこぎつけた結果は当初のシンシナティ-ベル仕様とは相当かけ離れたシステムではなかったのか。当初から「シンシナティ-ベル仕様」の導入などは必要なかったということになるのだろう。

さらに言えば、NTTの非効率は手順の改善で事足りるものではなかったという事ができるだろう。

 

{横綱相撲}

真藤総裁時代の新電電に対する鷹揚な育成マインド説。通信事業者としての規模と格の違いからNTTは横綱相撲をとってしかるべきであり、巨人と蟻に例えられていた時代の、まだまだ蟻の存在である競争相手(といっても横綱と幕内ほどの差があるが)新電電を人材面でも育成してあげようとの寛大な配慮から出たもので、人材派遣により不足する人材を援助してあげようとの説である。

<児島社長になりNTTは横綱相撲を取っている余裕が無くなった>

後年、児島社長時代(1990年6月から1996年6月)になり、1993年10月には市外電話料金引き下げを行い、これまでほぼ毎年40円の値下げを20円にした。その後1996年3月には再び40円の値下げを断行するのでこの年は値下げの踊り場を形成する。

1993年は、新電電の長距離電話シェアは54.5%とNTTを上回り、NTTの経営状況は税引き後利益410億円と資本金7800億円の10%配当つまり、710億円を下回る事態になり、繰り越し利益でまかなうような事態に陥った。又、人員削減策を次々と発表して1993年はいわば臨戦態勢に入った年だという事ができる。1994年2月には基本料金と番号案内の値上げをおこない、もはや横綱相撲をとっていられなくなる時代がやってくる。

新弟子が数年で大関クラスまで成長してきた。NTTもなりふりかまっていられない時代に入り、この頃から、派遣もそろそろ引き上げるのではという憶測も流れた。しかし、噂のみが先行し少なくとも日本高速通信では現実に派遣社員が引き上げられることは無く10年程度は続くことになった。

{日本縦断マイクロウェ-ブの売却}

真藤総裁時代にはこのほかにも他の二社に比べてネットワ-クの建設に困っていたDDIに対して、NTTでは既に光ファイバの縦断幹線が完成していたために不要になった日本縦断マイクロウェ-ブの一部を協力的に売却したという伝説に近い逸話が残っている。

この売却はNTTにとって不要資産の整理という側面もあるが、他の新電電に比べて唯一自前ネットワ-クを持たず、当初最も弱い新電電とみられていた第二電電株式会社にとってまさに起死回生の画期的な援助ではなかったか。おそらくこのマイクロウェーブネットワーク網の取得がなければ、今日のKDDIの隆盛は無かったのではないかと思われる。

{草創期の接続料金は顧客料金と同額}

草創期の新電電各社に対するNTT接続の費用の設定にあたって、現在の長期増分費用方式に見られる接続料金の複雑・煩瑣な議論をあえて避け、NTTの地域電話料金と同じくMA内三分10円に設定することに決めたのも真藤氏の主張だと聞いたことがある。

(実は地域電話料金相当とされた当初は、NTT側の計算と交渉が面倒なのでお安くしておきますよと設定されたものと当時の新電電各社は信じていたのだが、後年の接続料金=アクセスチャ-ジが算出されてみると接続料金の方が数円安いと言う事実も判明した。発表された接続料金…接続時点で2.81円が課金されその後秒ごとに0.0753円従量課金されていく…はそれまでの加入者市内料金よりも3分料金換算で数円下がっていたこれなどは後から振り返るとやや滑稽な双方の誤解の産物というべきかもしれない)

{新規ビジネス}

NTTが当時進めていた新規事業展開の一つという説。 「電話線にぶら下がって飯を喰うな」…たしか真藤氏が当時のNTT社員に対して発奮させるために言った挑発的揶揄だったと記憶しているのだが。…からデジタル化、ネット、デ-タ通信、今の言葉でいえばIP事業等を中核とした他の「新規事業で飯を喰え」との檄が飛ばされていたころなので、この人材派遣事業も格好の新規事業となった。しかしこれはせいぜい100人にも満たないと思うので、新規事業の規模としてはかなり小さく、この説は説得力を欠く。

<リクル-ト事件が結審され注目され真藤氏の有罪が確定する>

{判決下る}

1988年6月18日の川崎市小松助役に対するコスモス株譲渡のスク-プを朝日新聞が報じたことをきっかけに発覚したリクル-ト事件で、1990年10月23日には真藤NTT前会長の判決があり、懲役2年・執行猶予3年が確定した。真藤氏は年齢的な点も考慮してこの判決をうけいれたとあった。他に長谷川寿彦元NTT取締役は一審で懲役2年・執行猶予3年、式場英元NTT取締役は一審で懲役1年・6ヶ月執行猶予3年が確定した。

{長谷川寿彦氏}

この事件と逮捕者である両人には多少の感慨がある。長谷川寿彦氏は東京通信局長時代の1984年11月16日に東京で発生した地下ケ-ブル火災の対応に活躍して、その采配ぶりが当時電電公社総裁であった真藤氏の目にとまる。今風に言えば真藤チルドレンの一人だ。電話8万9000回線が使用不能になり、都市銀行オンラインネットワ-クが停止するなどの大事件となり港区にあった第17森ビルのオフィスで新聞報道の切り抜きサービスに目を通しながらやきもきした記憶がよみがえる。火災発生9日後には火災障害は終息した。

その後長谷川氏はNTTデータ通信本部長に就任し、堂島電電ビルの一階受付前のフロアに社員が集められて訓示を受けたが当時は氏の絶頂期でなかなか颯爽としていた。それまで赤字続きでNTTの収益面で重荷になっていたデータ通信事業を立て直すための抜擢であったと思う。ちなみに横浜西局とこの堂島電電ビルのなかにもリクル-ト社のスーパーコンピュ-タがテナントとして入っていた。

{式場英氏}

式場英・元NTT取締役は長谷川氏と並びやはり真藤チルドレンの双璧で、企業向けマルチメディア営業のスタ-的な存在であった。当時の業界関係雑誌に登場しないことが珍しいほどNTTの法人向け営業の顔であった。後年リクル-トで逮捕後、執行猶予中だったと思うが、新橋の烏森口から歩いて数分の煉瓦敷き道路沿いのとあるビルにコンサルタント事務所をかまえていて、上司の伍堂常務と一緒に訪問したことがある。NTT接続問題に関してなにか相談したいことがあったのだがそれはたいした用事ではなく、伍堂さん持ち前の優しさで慰めと励ましに行ったのではなかったか。式場氏は気のせいか精気が失せて寂しげな印象だった。

{共通して脇が甘い}

真藤氏に抜擢された幹部社員がこうも共通して脇が甘かったのは何故だろうか。長谷川氏は東京通信局時代のうどん屋経営者の女性との問題が週刊誌で盛んに書かれていた。リクル-ト事件とあわせてもあきれるほどの脇の甘さだが、こうした甘さに官僚、NTT幹部の世間知らずの共通体質があると感じたものだ。

真藤氏 NTT初代社長就任と辞任

<山口社長が国会でNTTボランティア資金を追及される>

{よくわからない金を拠出した経験}

この著は1989年以降を扱うがそれ以前に起きた出来事でその後のNTT問題にも密接な関係をもつ真藤氏の社長就任にも触れておきたい。私は1989年までNTTに在職したが、ボランティア資金について気になっていた事がある。1985年当時NTT管理職の末端につらなったが、その年の暮れ冬のボ-ナスが出たころだったかよくわからない金をよくわからない人に拠出した記憶が鮮明に残っている。

面識のないNTT社内の人から電話があり、管理職は任意で金を拠出することになっているので職場に集金に周るから準備しておいてほしいと一方的に話された。その拠出金の趣旨説明もなく、拠出を断る管理職はいないと面倒くさそうに高圧的に話した。管理職の親睦会のようなものかと理解したが釈然としなかった。そのうち電話の当事者と思われる人が職場のデスクに集金にやってきたので5000円程度だったと記憶しているが手渡した。しかし領収書も趣意書も受け取れなかった。新米の課長なのでそのうちわかるだろうと深く詮索しないで言われるままにしていたがなにやら胡散臭い気がしたものだった。

そのころから既に30年近く経った数年前、色々調べたいことがあり、国会会議録をネットで渉猟していると、1989年当時の議事録にボランティア基金という言葉を発見した。リクル-ト事件と共に議論されていて、その中の質疑で質問者の発言に「3年で8億円を集めた」とある。当時のNTT管理職は3万人だったので、一人あたり一年で平均1万円弱ということになり、ランクの高い管理職は高額を、私のような末端の管理職は5000円とするとなるほど計算は合う。

国会審議の中でもこの金の拠出はボランティアということで結局、この資金の解明は不問に付されたようだ。当時は真藤NTT社長が政界工作に使ったのかとぼんやりと考えていたが、出納帳など仮にあったとしても闇に葬られてしまっているだろう。誰かが集金の途中で抜いても追及のしようがない。NTT2代社長・山口開生氏の国会答弁ではボランティアとして誰かが実行したことであり、当人は全くあずかり知らぬということで押し通している。8億円は政界資金としては大きな金だろうが全く足のつかない金として重宝されたことだろう。私の経験と山口開生氏の回答には大きなずれがある。

国会速記録より

国会速記録1 (参 - 逓信委員会 - 3号 平成01年03月28日)

○山中郁子君 電通協ないしはボランティア基金から一億円のお金が出されたと 。亡くなられた参議院議員に対する献金として自民党の福田幸弘さんをめぐるNTTのいわゆる企業ぐるみ選挙 でNTTが電通協に対して賛助団体として年間二千万円のお金を出しているということを児島副社長が答弁の中で認めていらっしゃるわけです。

国会速記録2 (参 - 法務委員会 - 2号 平成01年03月28日)

○橋本敦君  NTTが幹部職員からボランティア基金と称して八億円の政界工作資金、これをつくっていた。

国会速記録3 (参 - 予算委員会 - 5号 平成01年03月31日)

○参考人(山口開生君) 一般の世の中のおつき合いの一つとしまして、政治方面との儀礼的なおつき合いとか、あるいはボランティアの有志の諸君が自分たちの仲間意識から身内の者を支援したい、こういった考えから相談し合いまして、ボランティア活動として資金カンパをしたものだというふうに聞いております。

ボランティア資金の流れは結局闇のなかに埋もれることになった。闇の中に埋もれたものとしては山岸氏が委員長時代に全電通の事務局が起こし、津田委員長のときに発覚した生命保険会社事件がある。これも巨額の金が闇に消えている。新進党の政治資金になったとかのうわさもあるが闇のなかである。電電公社民営化の流れには政治と金の裏舞台がありそうだが果たして解明される日がくるのかどうか。

 

<北原安定氏の脱税報道からロッキ-ド事件、近畿不正経理までに至る一連の事件には>

{ロッキード事件がNTT民営化と真藤社長を実現}

ロッキ-ド事件は1976年2月に明るみに出た。田中角栄首相が自衛隊戦闘機の機種選定にからんで数億円を受け取ったとする歴史的な汚職事件で、次期総裁に北原安定氏を押す田中首相(当時)が失脚し外部から総裁を招き入れることに対する抵抗が弱くなる。さらに近畿電気通信局不正経理事件で外部総裁就任の流れは強まった。

真藤総裁が就任後も北原氏とのトップ争いは継続し、1985年のNTT民営化の際にも田中角栄氏は初代社長に北原安定氏を推すが、その田中角栄氏も中曽根氏と財界が強く推す真藤氏の初代社長就任を興銀の中山素平氏を訪れて応諾したと中曽根氏の回顧録(『自省録・歴史法廷の被告として』 中曽根康弘 新潮社)にある。

北原氏と全電通の山岸委員長は電電公社民営化に反対で、山岸氏は民営化では折れたが分割には断固反対だったとも述べている。

以下引用してみる。

…{しかし、田中角栄君を口説かなくてはいけないわけで、中山素平さんと今里さんが角栄氏のもとへ行きました。ところが、角さんは、「いや、北原がいい」といって聞かなかったのです。

中山さんが困っていると、しばらくして、角さんが素平さんを興銀に訪ねてきて、「あれは承知する」といったらしいのです。どうした心境の変化だったかは知りませんが、妙なことがあるもんだと思いました。財界を敵に回すのはまずいと思ったのかもしれません。

それで、真藤さんに決まったのです。

私が真藤さんに期待したのは民有分割論でした。山岸君にもいったことがありますが、「全国の電電の幹線は全国規模でそのまま維持する。それから、研究所もその優秀さは世界トップレベルなのだから、これもそのまま維持する。あの力を落としてはいけない。

しかし、本体以外の関連業務や下部機構の工事関連部門は別に専門の工事会社をつくって分割してしまえ。データ通信や電話工事部門などは分離して、情報通信の中枢の把握と研究をやれ」と、そういったのです。

しかし、山岸君は「分割反対」を譲らなかったので、今でも、その課題があるわけです。}…  (自省録 p182より引用)

 

電電を分割する必要はないと全電通委員長・山岸章氏は主張したが真藤恒氏が山岸氏にとにかく民営化だけは認めろと説得して山岸氏が折れ、次いで田中角栄氏が初代社長に真藤氏が就任することを承知することで副総裁の北原安定氏が孤立し民営化と真藤社長が実現した。

結局最後まで民営化反対の北原氏は中曽根総理大臣の時代が到来し、闇将軍角栄氏の敗北で決定的に初代社長の目を潰されたことになる。ロッキード事件がNTT民営化の背中を押したことになるのではないか。

上記の引用で、中曽根元首相が現在のような分割には反対であることがわかる。それと同時に関連業務や工事部門の分割を提言しているのは注目すべきだある。この分割が完全になされていれば確かに相互接続の根本的諸問題が解決していると思うのだが。

{プロロ-グとしての北原安定氏脱税事件}

土光氏の第二臨調が始まり電電公社の民営化が議論されだした頃だったから1980年代の初めのある日の朝、朝日新聞に北原安定氏の脱税問題が一面トップの記事になっていた。北原安定氏のうっかりミスに近い新居建築に伴う納税問題がかなり大きく取り上げられていた。私の頭の中ではこの些細な記事が後の近畿電気通信局不正事件、真藤総裁を外部から受けいれ、NTT民営化と真藤初代社長の就任と続く大変革のプロロ-グであるとの思いがしてならない。反北原派のメディア工作の一端を垣間見た気がするが、もちろん根拠はない。

後年、石原慎太郎氏が月刊誌「文藝春秋」へ寄稿し、その記事の中でロッキ-ド事件と田中角栄氏に触れ、その事件の背後にある米国の陰謀を匂わせる内容を書いていた。CIAから対日本工作にかなりの金が出ていたとも記していた。田中角栄氏は死ぬまで「自分は(対米追随派に)はめられた」と考えていたらしい。私はこの石原氏の記事の影響を相当確かなものと受けとめているが確かなことは不明である。

{米国の軍産複合体に対抗する電電公社}

北原安定氏は当時の日本の巨大な通信産業界を電電ファミリ-のドンとして完全に抑えていた。NTT調達の通信機器の納入には東芝、松下といった家電大手も一切参入できず日本電気、日立、富士通を御三家とした電電ファミリ-と呼ばれるメ-カが占有していた。

東芝、松下電器といった家電では1,2を争っていたメーカーが電電公社の電話機すら納入できなかったというのは実に驚くべきことで理由はもっぱら電電公社特有の品質基準にあった。家電製品は品質が落ちるので通信機器として随時契約の対象とされなかったのだ。当時はなにも日本だけに限らず米国でも家電メーカと通信機器メーカは明確に分かれていた。

現在から眺めると電電公社からの天下りを維持する電電ファミリーの存続が目的であったと批判されるが石川氏の述べるように北原安定氏(と技術系幹部)はこの巨大電電ファミリ-のトップに君臨し、電電ファミリ-の名のもとに潤沢な購買力をもって国産通信メ-カを育成擁護し米国の産軍複合体の日本参入を阻止する思いを持っていたのだろう。米国も軍産複合体で航空産業をはじめとした重要輸出産業を育成してきたことは事実であり、この点は十分理解できる。

NTTのネットワ-ク部長などを歴任した石川宏氏が情報通信学会発行のマガジンで、氏が入社当時に日本には軍産複合体が無いので電電公社がその任を負うのだと先輩から言って聞かされる逸話が紹介されていた。私がNTTデ-タ通信本部で働き始めた1970年代の初め頃、当時の上役も同じ内容のことを常日頃から部下に言っていた。この上役が北原安定氏のもとにふろしきに説明資料を包み、よく日比谷の本社まで近況などの説明に伺う姿が脳裏に残っている。

かつて意味のあった電電ファミリーも電電公社から天下りを多数受け入れることにより通信機器の高止まりを招き、電話料金の高止まりにまで及んだことは負の側面であり大きなうねりの中で解体されていった。これは時代の趨勢として当然のことであるが米国軍産複合体に対抗する国策産業育成の代替案はいまだ見つかっていない。

{NTTデータ通信システムは国産コンピュ-タ}

この上役もまた開発するデ-タ通信システムの機種選定には国産コンピュ-タそれも富士通のみを使う生粋の国産派であった。機種選定の候補にIBMでも提案しようものなら徹底的に絞り上げられた。(もっともこの上司は特別な例かもしれないが)IBM当時の都市銀行が盛んにIBMを使ってシステム開発を行っていたがNTTデ-タ通信本部でIBMを使った開発を行うことは少なかったのではないか。当時のNTTデ-タ通信本部は赤字続きであったが電話部門からの潤沢な金が使えたので御三家の国産コンピュ-タの発展には相当寄与したことになる。富士通がスーパーコンピュ-タで世界一の座をとれたのもその基礎はこの当時の金の使い方にあったのかもしれない。

この上司から北原安定氏が1960年代の終わり頃に千葉の電電公社保養所にこもってデータ通信本部設立の起草を練った話を何度も聞かされた。この時に北原氏の頭には国策として国産コンピュータの発展を願っていたことは間違いない。(この国策には国防と言う意味合いが非常に強いのだが)

{ NTTの研究開発力と電電ファミリー}

この国産コンピュ-タ開発の例からもNTTの研究開発力というとき、単にNTTの通信研究所だけではなく巨大な電電ファミリ-全体が米国の軍産複合体に性格の似通った研究開発機構として機能していたということになる。従ってNTT通信研究所自体も世界的レベルにあるが、電電ファミリ-の研究開発力も合わせたものがNTTの研究開発力と世間ではみなされ、実態よりも一層巨大に映り、又重要性の認識も実態以上に大きなものに世間には映ったものと思われる。(通研の実力を否定しているわけではない)NTTの研究開発力を冷静に議論するときは旧電電ファミリ-の開発貢献力を分けて考える必要がある。

{中曽根元首相の見識}

NTT通信研究所に対しては中曽根元首相もNTT全国基幹ネットワ-クと同様に保存する必要を感じていたと回顧録で述べている。つまり彼は民営化賛成、基幹部門の分割反対であり、工事部門やデ-タ通信部門(のちにNTTデータ通信として分社)などを切り離せと著書「自省録」で述べている。

…{『全国の電電の幹線は全国規模でそのまま維持する。それから、研究所もその優秀さは世界トップレベルなのだから、これもそのまま維持する。あの力を落としてはいけない。しかし、本体以外の関連業務や下部機構の工事関連部門は別に専門の工事会社をつくって分割してしまえ。データ通信や電話工事部門などは分離して、情報通信の中枢の把握をやれ』と、そう言ったのです。しかし、山岸君は「分割反対」を譲らなかったので、今でも、この課題があるわけです。}…

(「自省録」より引用)

ちなみにこの工事部門の切り離しは孫正義氏の提唱したラストワンマイル会社切り離し構想とは似て非なるものだ。このNTT工事会社切り離しはNTT系列会社への分離として行われたがもっと徹底した分離、たとえばNTTからの資本出資ゼロ、NTTのOB再就職ゼロが徹底してなされていれば地域独占の大きな弊害である工事費の高止まりやMDF自前工事(NTTの競合がNTT局舎内の配線板工事をおこなうこと)が実現されたかもしれないと思われる。工事部門の完全分離こそが公正競争の肝であり「自省録」を見る限り中曽根元首相のNTT再編成に対する見識と先見性はなかなかのものだと思う。

実際にはNTT工事部門の子会社化という実態のあまり変わらない中途半端な形でお茶を濁されたが、このアイデアをもっと徹底して地域独占の弊害打破にいたるまで形を追求していればと思うと残念であるが、当時はだれもこのアイデアの素晴らしさに着目をしていなかったし、現時点でもそうだろう。

{初代社長争いと日米貿易摩擦}

中曽根元首相や真藤氏は米国からの製品導入で貿易摩擦を解消し、規制緩和を提唱する米国レーガン政権との蜜月をつくり出そうとした。真藤氏と北原氏の初代社長争いは電電ファミリ-と米国通信産業界と日本の新たに参入したい企業群の戦いの様相を呈したのではなかろうか。財界主流は電電ファミリ-以外の声が強く後者を支援したと推測している。

北原氏は日本の電気通信産業界を国家的支援という当時としては最大に効果のあるやりかたで牽引してきたが、行政改革の波と米国レーガン政権の規制緩和という時代の潮目を読めなかったと言うべきだろうか。

国家的支援について「知の逆転」(NHK出版新書)でチョムスキーは「人々はコンピュータを使い、インタネットを使い、飛行機に乗り、薬を飲みます。では人々が使うほとんど全てのものはどこからきたのかというと、実は経済の公共部門から出てきたもの、つまりもともとの税金によって、政府のプロジェクトとして開発されたものなのです。」と基幹産業は国家的支援が長期に渡って必要なことを米国の実態から述べている。

{日本電信電話公社の不正経理事件}

その後しばらくして、1978年から1979年にかけてカラ会議やカラ出張あるいは一般人にはなじみのない特別調査費という勘定科目で十二億円以上もの裏金をねん出し、組織的に金をプ-ルして全電通への接待や部内外幹部への飲み食いに使っていたという大事件で、南町奉行と称する社内の人物なども紹介され、連日賑やかに報道されていた。実際にはこの事件が電電公社の総裁を外部から迎え入れる世間の空気を一気に盛りあげる役目を果たした。真藤氏は1981年に土光敏夫氏に請われ、北原氏を押さえて旧日本電信電話公社総裁に就任が決定した。

1982年1月26日付朝日新聞朝刊13版23面から引用すると「 電電不正 部長級は不起訴 大阪地検 41人、裏付け取れず 昭和五十三、五十四年度にカラ会議やカラ出張で、十二億余万円もの裏金をねん出、流用していた日本電信電話公社(真藤恒総裁)の不正経理事件で、大阪地検特捜部は二十五日、背任、虚偽公文書作成など五つの罪名で告発されていた近畿電気通信局などの当時の部長級四十一人全員を、「嫌疑不十分」として不起訴にする処分を発表した。」

この事件が北原氏追い落としのために暴かれた事件だとすると、既に真藤氏が総裁に就任していたために近畿電気通信局の部長級四十一人全員を、「嫌疑不十分」として不起訴にする珍しい決着となったのだろうかとも勘繰れるがどうなのだろうか。

 

<真藤氏が重用した幹部たちの行く末>

真藤氏に重用され最年少で役員になった長谷川取締役が1985年頃だろうか、当時のNTTデータ通信本部長として着任してきた。堂島センタ-の入り口ロビ-に職員を全員集めてのあいさつを私も聞いた。週刊誌でうどん屋を経営する女将との女性問題を叩かれ、リクル-トで有罪になり完全に失脚する。

同様に真藤氏に重用された企業通信本部長の式場取締役もリクル-ト事件で失脚する。日経コミュニケ-ションズなどの業界雑誌に式場氏の名前が載らないことはなかったくらいで、NTTの企業向け営業の顔として活躍していた。後年私が新電電に移り、式場氏がリクル-ト事件で有罪判決を受けた後に何かの折に上司のGさんの縁で式場氏の事務所を訪れたことがある。新橋の煉瓦通り沿いにあるビルの一室にひっそりとした事務所を構えていた。長谷川氏、式場氏とも失脚後リクル-トが面倒を見ていた。長谷川氏はリクル-トアメリカで、式場氏はコンサルタントを開業されていたが、リクル-トがバックアップをしていたのだろう。

 

<日米貿易摩擦の解消圧力はNTTに極めて大きな影響を与える>

{シンシナティーベルのシステムを導入}

田中角栄氏の後を継いだ中曽根元首相と米国レ-ガン元大統領はロン、ヤスと呼び合う蜜月関係を作り出した。米国のシンシナティ-ベル(米国の地域電話会社のひとつ)から電話会社運営の基幹システム(顧客管理や料金システムを含むシステム)の導入を決めたのもこの頃だ。

米国の電話会社管理システムを言葉も手続きも異なる日本に導入するとは当時も今も相当に危険のはらむ決断である。しかし真藤氏は形から社員モラルを改変することを意図してこの導入を決めた。この道の専門家ならだれもが躊躇し、反対すると思うが真藤氏のリーダーシップならではで実現した。

{スーパーコンピュータも設置}

同様に米国からスーパーコンピュ-タをリクル-ト社が購入して、横浜西電話局と大阪のNTT堂島センタ-に設置した。いずれの局舎も勤務したことがあり記憶している。横浜西電話局の廊下で一度真藤氏ととりまきの一団を見かけたことがある。ひょっとしてスーパーコンピュ-タ設置センタ-の視察に来られていたのだろうか。

{トラックⅠ、Ⅱ、Ⅲと真藤総裁就任}

NTTの資材調達についてはそれまでの随意契約(NTTが任意に調達先を選定すること)を原則廃止して必ず入札を行うように法制化したのもこの頃になる。1973年(昭和48年)GATT・東京ラウンドがスタ-トし、GATT協定が採択される。1981年(昭和56年)1月より、GATT協定に基づく調達方式をトラックⅠ、日米取り決めに基づく市販品ベースの電気通信設備の調達をトラックⅡ、開発が必要な電気通信設備の調達をトラックⅢと分類し、「オ-プン」「公正」「内外無差別」をうたった調達手続きがスタ-トした。真藤氏が総裁に就任した時期と符合する。ちなみにこの調達方式は2001年7月をもって完全に失効した。

 

< 日米貿易摩擦解消に端を発したリクル-ト事件で真藤氏は逮捕されることに>

1988年6月18日の川崎市小松助役に対するコスモス株譲渡のスク-プを朝日新聞が報じたことをきっかけに発覚したリクル-ト事件で真藤氏は1989年に逮捕され、1990年10月23日には懲役2年・執行猶予3年の判決が確定した。真藤氏は年齢的な点も考慮して上告せずこの判決をうけいれたとあった。

他に長谷川寿彦元NTT取締役は一審で懲役2年・執行猶予3年、式場英元NTT取締役は一審で懲役1年・6ヶ月執行猶予3年が確定した。いずれも執行猶予つきである。これにより真藤氏は逮捕され失脚する。これによってNTTは再び生え抜きの社長人事に戻ることになる。

その頃私は新電電の一つ日本高速通信に転職してNTTとの接続問題を担当することになったが、真藤氏が失脚して接続問題の態度が変化したことを感じた。一言でいえばしわくなった。

{真藤予言の符合}

1985年に真藤氏がNTT初代社長になって全社員に一斉放送で挨拶と訓辞をおこなった。自席でその声を聞いたのだが、しわがれ声でとても小さい声で内容が聞き取れないときもあった。その話の中で妙に印象に残った話がある。「NTTが民営化されたがNTT法は残った。このNTT法が残ったことの意味の大きさを殆どの社員は気づいていない。しかしやがてこのNTT法の存在が大きな意味を持ってくることを諸君はしることになるだろう」といった一種の予言めいた話だった。

真藤氏はリクル-ト事件で逮捕され有罪判決が下ったが、これはNTT法違反によるものだ。言い換えればNTTが他の民間会社と同じでNTT法がなかりせば、逮捕されなかったことになる。そう考えるとこのときの挨拶はすごみを持ってくる。

 

<余話1>

1984年(昭和59年)11月、世田谷電話局のすぐ前の地下のケ-ブルを入れるトン ネル(とう道)内のケ-ブルが 全焼するという大事故があり、都内の電話に大きな影響を与えた。火災原因は鉛管の溶着に用いるガスバーナーの消し忘れであった。

この事故対策の責任者として腕を振るったのが長谷川氏で真藤氏の目に留まり、以降徴用されるきっかけとなったという。虎ノ門17森ビルのオフィスで火災の続く状況にやきもきしたときの記憶は鮮明だ。

当時の電電公社データ通信本部は火災で大影響を受けた三菱銀行の全銀システムへの接続を担当しており副総裁の北原氏がデータ通信本部の幹部を連れて三菱銀行システムセンターまでお詫びにいったとの後日談も聞いた。事故で混乱しているシステムセンター現場に副総裁自ら出向くという場違いな行為に批判の声もあったらしい。菅元首相と原発事故現場訪問に対する非難を彷彿とさせる。

 

<余話2>

真藤氏は石川島播磨から1981年に電電公社総裁に就任したときに電電語を話すなと訓示したことはよく知られている。総裁就任直後に社内略語でそのままレポ-トされてイライラしたことで発したものだろう。

100万円を「1円」と呼びならわす習慣は同じ社宅に住む知人の口からよく聞かれた。(得意げな感じも受けた)

戒名というのは電電公社が建設勘定で使う電電語であり建設工事のすでに完成した工事名の事を指す。おもわずぶっ飛ぶようなネ-ミングだが1986年当時デ-タ通信本部でこの工事管理システム開発を担当した時にもまだこの用語は残っていた。

 

<余話3>

おなじく真藤氏が総裁に就任した頃、電柱工事や「とう道」(通信ケ-ブル用のトンネル)の工事でよく気の毒な死亡事故があった。記憶は薄らいでおぼろだが線路工事部門の職員のあいだでは今日は「何人殺した」といった表現がまかり通っていた。つまり本日の死亡事故数を言っているのだが、この表現を聞いた真藤氏は怒り、厳しく禁止したと記した記事を読んだ記憶がある。電電公社で「とう道」工事のロボット化を進めたのも真藤氏だと電電公社社内誌「施設」あるいは同「技術ジャ-ナル」で読んだ記憶がある。技術者らしいモラルの在り方を感じさせるエピソードだ。

<3月6日 真藤恒NTT前会長がリクル-ト事件で逮捕される>

{真藤氏がそのまま率いていたら}

もしも真藤氏がリクル-ト事件でNTT法19条収賄罪に問われることが無く、その後もNTTを率いていたら、NTT再編成問題は現在のような妥協の産物ではなく、分割、非分割どちらに傾くにせよもっとポリシ-のはっきりした、たとえば中曽根氏の提案するような工事部門の会社分離など再編成の形態は大きく変わっていたに違いないと思うのは私だけだろうか。表向きだけの三分割と統括会社への再編成が果たしてなんらかの有意義な結果をもたらしたのか、はなはだ疑問である。

{皮肉なNTT法存続}

真藤氏は1985年の民営化の際にNTTの社内放送を通じて民営化の意義などを、かすれた小さな声で述べていた。(堂島電電ビルのオフィスで聴いた)そのスピーチでは、NTT法の存続を許したことが今後の大きな問題になることをNTT幹部の誰も知見していない、と嘆き今後のNTTにとってこのNTT法は大きな禍根になると予言していた。彼はNTT法に規定するユニバーサルサービスの義務存続をさして将来の禍根になると予言したのだろうが、真藤氏の逮捕はこのNTT法の公務員に準ずる19条によるという実に皮肉な結末となった。

{リクルート事件参照}

リクル-ト事件で、同社事業への支援の謝礼として値上がり確実なリクル-トコスモス非公開株1万株の譲渡を受けたことが発覚し、1988年12月12日にNTT会長を辞任。1989年3月6日にNTT法違反(収賄)容疑で元秘書ともども逮捕。(by wiki)

(罰則)第19条 会社及び地域会社の取締役、会計参与(会計参与が法人であるときは、その職務を行うべき社員。以下この条において同じ。)、監査役又は職員が、その職務に関して賄賂を収受し、要求し、又は約束したときは、3年以下の懲役に処する。これによって不正の行為をし、又は相当の行為をしなかつたときは、7年以下の懲役に処する。(日本電信電話株式会社等に関する法律)

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。