氏が足跡を追うことによって日蓮聖人の苦難をわずかでも追体験し偉大さを体感しようとする試みの書です。
人間の一生は旅のごとしという。誰でもそのことは感じている。しかし、人は、一日一日の忙しさ、面白さ、かなしさ、おかしさにかまけて、そのことを忘れ去るのである。この一日一日をなし崩しに生きる生き方に溺れてしまうと、人はその魂を失う。永遠なるものに生かされている自覚をすり減らしてしまう。そして、ぼろ雑巾のようになってその生を終わるのである。
わたしは58歳から世界への旅に出た。内発的なものだがどこかしら氏と共通するところがあってうれしい。
次の文は当今の忙しく働くサラリーマン、ビジネスマン、経営者にはカンに触るところかもしれない。なんと浮世離れした人だと。しかし地獄を見、素晴らしい出会いをいくつも持った、全く束縛のない氏のような人にとってはごく自然な思いだろう。
そういうときは次の言葉を思い出してほしい。「三乗もいいし、大乗もいいのです。三乗がなければ、大乗もないのです。p26」は忙しく働くサラリーマン、ビジネスマン、経営者もいいのですと読める。氏は「大乗もいいのです。」の存在を目指し実践した。
けちな組織に体を拘束され、給料で飼い殺しにされることを随喜するような生き方などしたくない。旅に出たければさっさと旅に出、大自然と語りたいと思うときは、大自然に心も体もあずけていきたいと思う。日本人の魂の底に眠る「旅の心」をなくしたくないのである。 p52
氏もまた故郷喪失者かもしれない。広島の実家は全滅しており、その後訪ねた跡がなさそうだ。
わたしは、芸術家や宗教者は、故郷を喪失したものほどその生命が長いと思っている。
これも非常に共感大です。
本文の中で「日蓮」と呼び捨てにすることがわたしには甚だしく苦痛であったが、さまざまな要求を満たすためには、どうしても日蓮と呼ぶことが必要であった。わたしの心では日蓮聖人と呼んでいるのである。不快に思われるかたはどうかご海容くださるように。 p57
以下の文を参照して旅に出てみたい誘惑を強く覚える。
ちょうど清澄山歴代住持の墓地のすぐ後ろにあたる。・・・眼下に・・・海岸が墨絵のようにみえる。清澄山でもっとも景色の美しいところである。p63
横川の定光院に住するようになる。 p67
妙法寺安国論寺長勝寺という三つの寺がそれぞれその跡であるといわれていて、いずれがほんとうの遺跡なのかその判定に困るのである。 p77
安国論寺がもっとも有力だということになる p79
横須賀線の踏切で、わたるとすぐ左手に「日蓮大聖人焼き討ち避難の霊跡」・・・墓地の間を行くうちに祖師堂のそばに出る。そこに岩窟がある。 p91
伊東の南三里にある篠見浦の俎板岩の上に置き去りにされたという。p91
蓮着寺に出る。人に知られぬ素晴らしい道である。p92
今この松原の地には鏡忍寺が立っている。・・・勇戦して死んだ鏡忍房の塚が境内にある。・・・房総でも有数の清浄な寺である。p94
江ノ電長谷寺をおりて・・・道の突き当りが光則寺である。どこから眺めても美しい寺である。 ・・・人は優れた人格に帰投すると・・・その美しさは極度の輝きをもつ p102
寺泊は今日でも寂しい海辺の街村である。 p105
中世に官船がついたのは、鴻の瀬鼻の東側にひろがる海岸である。・・・冬の狂瀾怒濤、あのどす黒い凶暴な海をわたり、雪の峠を越え、風雪の舞う原野を歩いて・・・ p106
「すなわち日蓮は、ふるさとである安房東条郷を逐われた時から、池上の地で息を引き取るまで、常に旅にあったといっていいのである。人は定着すると、安心し、油断し、戦闘的能力を失い、夢を失い、現実主義、日和見主義、妥協主義に堕する。
日蓮にはそれがなかった。それは、日蓮が常に旅にあったからである。
そしてまた、喪失した故郷に対して烈しい思慕の念を抱いていたからである。
わたしは、芸術家や宗教者は、故郷を喪失した者ほどその生命が長いと思っている。
日蓮が故郷を逐われたことは、かえって日蓮に幸いしたのではあるまいか。」