まさおレポート

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詫間は遠くなりにけり(その2)

2011-06-01 | 心の旅路・my life・詫間回想

大阪府箕面市牧落から縁もゆかりもない遠く離れた四国の詫間の地で三年を過ごした。偶然の風向きが落ち葉の行方を決めるようにしてこの地に住んだが大きな節目であることを今さらながらに実感する。讃岐の田舎町である詫間の地名の由来などを調べていると思い白いことに気がついた。我が故郷の大阪府箕面市牧落とある種の共通項があることに気がついた。偶然だと片づけるのが合理的であるが、こういった偶然を不思議がる質でもあるし、捨ててしまうのも惜しいので、メモしておきます。

(香川大学学術情報リポジトリ第28巻第2号「詫間地方に於ける塩田の研究」児玉洋一)

によれば、「元来詫間は、時に託麿・宅間・託麻とも書かれているが、「托馬の地名」によって托馬=詫間と」つけられたといい、其の牧場は不明であるが、牧=馬城とも関係があろうと思える。」と記している。続いて歴史文献として著名な続日本紀や三代実録(醍醐天皇の勅を受けて編纂を再開し、延喜元年(901年)8月に完成した)を引用して詫間に牧=馬木の地名があることなどを挙げて平安時代に軍備に重要な兵馬の産地であったことを記している。

「…続日本紀 巻一の文武紀に、四年(七〇〇年)三月一七日、「令諸国 定牧地放牛馬」とあるが史上に「詫間」の名称の現れるのは、三代実録巻十一に、「貞観七年(八六五年)十二月九日」に「停廃讃岐国三野託麿牧」とあるが初見であり、このことは詫間郷内に粟島にも馬木の地名があり…」(香川大学学術情報リポジトリ第28巻第2号「詫間地方に於ける塩田の研究」児玉洋一)

一方、わが故郷である牧落村の由来は箕面市HPによると、

「平尾・西小路・桜・牧落の地域は、「延喜式(えんぎしき)」にみえる「豊嶋牧(てしまのまき)」の地にあたり、諸国から朝廷に献上された馬牛が放牧されたところで、牧落の「牧」は 、その歴史の名残(なごり)です。」とある。http://www.city.minoh.lg.jp/soukei/tiikibetsukeikaku/soukei-kihonkeikaku-tiikibetsu.html 

育った家の近くの氏神様はお宮さんあるいは八幡さんと呼んでいたが延喜式(*1)によると八幡大神宮(牧の庄の一の宮と称したという) 箕面村大字牧落字馬場前 応神天皇 とあり、やはり馬の放牧場であったことがわかる。

延喜式(*1)平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、927年(延長5年)に一応完成した。その後も改訂が加えられ、40年後の967年(康保4年)より施行された。

さて、何が二つの郷を結ぶ共通点かはお分かりいただけたことと思う。どちらも平安時代には兵馬の放牧場であったので、牧=馬木と呼ばれていた。

 

 詫間は遠くなりにけり はこちらから


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