娘の受験用過去問を眺めていたら次のフレーズが目に入った。11歳の娘にこんなことが理解できるのだろうかの疑問が最初に。次に死の観念がわたしに近いなと。
ぼくの好きなフーコーというフランスの哲学者は、これとは違う考え方をしています。死とは,生が終わった後にやってくるのではなくて、生とは別の系列にあるというのです。
「別の系列」とはどういうことかというと、赤ん坊のときから臨終のときまでの全部を照らし出すような場所にある、ということです。つまり死の側からは、生の過程の全部を見渡すことができるというわけですね。吉本隆明 13歳は二度あるか
「赤ん坊のときから臨終のときまでの全部を照らし出すような場所にある」とは空間も時間もない場所、つまりこの世とは次元の異なる世界に仏教的に表現すると我、あるいは真我が存在していると解釈した。ショーペンハウワーとも通じる。
フーコーも吉本隆明も本屋で眺める程度の付き合いしかないがなかなかの洞察ではないか。今後の読書の楽しみが増えた。