1. 「わたし」というものは本当にあるのか?
最近ふと思った。もし、完全に他者と接することなく育ったら、自分というものを自覚するだろうか?
答えは「たぶん、しない」。だって、「わたし」という感覚は、他者や環境との関わりの中で生まれるものだ。
言葉も、名前も、価値観も、すべて他者との関係性の中で得たものだ。それがなければ、「わたし」というもの自体、成立しない。
2. 他者がいるから「わたし」がある
他者がいることで初めて「わたし」が認識される。他者の存在なしでは、自己を客観視することもできない。
「わたし」は独立した存在ではなく、常に他者や環境に依存している。
これを仏教では「縁起」と呼ぶらしい。つまり、すべてのものは相互依存している。自己もその例外ではない。
3. 固定された「わたし」なんてない
これも考えてみた。毎日、体も心も変わっている。昔の「私」と今の「私」は同じではないのに、「自分は変わらない」と錯覚しているだけ。
これが仏教で言う「無我」なのだろう。「わたし」という固定された実体は存在せず、ただ流動的な現象の中で生まれては消えているだけなのだ。
4. 世界もまた同じ
さらに考えを広げてみる。物理学では、エントロピー(無秩序)が増大していくと言われるけど、生命や社会のように、一時的に秩序が生まれる場面もある。
でもその秩序もいずれ崩れ、また新しい形を生む。この「秩序と無秩序のサイクル」は、仏教の「諸行無常」に通じると思う。
• 秩序(エントロピー縮小)= 一時的な現象としての「わたし」
• 無秩序(エントロピー増大)= 変化し続ける「世界」
矛盾しているようで、実はどちらも同じ流れの中にある。
5. ここにたどり着いた感覚
結局、「わたし」というものに執着する必要なんてないのだと思う。
失敗しても、それは「わたしそのもの」が否定されたわけじゃない。変化する世界の一瞬の出来事にすぎない。
そう考えると、他者との関係も変わってくる。「わたし」と「あなた」という区別がぼやけ、もっと自然に接することができる気がする。
6. 書き留めておきたいこと
• 「わたし」という感覚は独立した実体ではなく、縁起によって生じた一時的なもの。
• 「無常」の流れの中に「わたし」も含まれる。だから、執着しなくてもいい。
• この世界は矛盾やパラドクスで成り立っている。それを恐れる必要はない。
7. 最後に
無我に気づいたからといって、特別なことが変わるわけじゃない。でも、少し心が軽くなった。
「わたし」に縛られず、他者と自然に関わり、変化を受け入れていければいい。それが今の気づきの形だ。