
則能信解
則能信解とは何だろう。正法眼蔵 恁麼の巻で、学のない樵が名だたる学僧を差し置いて印可を得ることになり、高名な六祖になりましたというお話がある。氏はその話を紹介して「お経を学問として学ぶのと信心は別なんですね。納得がいったら信心するというひとは一生信心しないですね。わからんから面白い。真言もわからんから面白い。やるかやらんかですね」と説きます。氏の言う馬鹿まる出しに通じるのだろう。
則能信解するためには師に対する深い信頼と感動がなければならない、師を信じて身を投げ出すようにしてはじめて則能信解が成立する、氏がたびたび繰り返す「師のない仏法はない」とはこのことだろう。
信じる
岡潔は数学者で文化勲章を受けた、わたしが出会った中でとびっきり風変わりで面白い方で、良寛の「天上台風」の書で心解し情解し智解した人だ。
岡潔は信解は正法眼蔵いんもの巻で学んだと、本当はさらに薬草喩品に行き着くのだが岡潔でもご存じないことがあるとは愉快だと氏は暖かくいいます。
世の中で証明されたことには、信じるという言葉を使わない。それは事実なので、「私は~~を信じます」とは言わない。天道説が支配的な時代は「地球が回ることを信じる」といえたが、現代ではそんな言い方は決してしない。地動説が証明された自明のことであり「地球は回っている」という。
「私はあなたの言葉を信ずる」「キリスト教を信じる」「仏教を信じる」いずれも客観的に証明不可能だから信じるという語がふさわしい。
紀野一義はどなたを師とされたのだろうか。朝比奈宗源老師と柴山全慶老師ではないか。明言はされていないが内心で師と定められていたのだろう。そしてお二人に対して対して如来使だと思っていたのではないか。
師と仰ぐのは一方通行でよいと思い、わたしも一度きりの出会いだがが紀野一義を師と仰いでいる、氏はそんな覚えはないとおそらく笑って答えられるでしょうが。
柴山全慶師
氏は法華経が大好きで最高と言いながら禅の柴山師との出会いをかたる、宗派にこだわりのない寛容さである。つまり氏には宗派や宗教団体などはどうでもよい、これが現在の宗教界には実に大切で、氏が唯一の存在だと思います。
長唄のお話を聞きながら、法華経のことも、禅のことも、あの世のことも、良寛様のことも、ついでに自分のことも、すっかりわかってしまったのです。回心のない宗教はありません。「ええなあ!という人生」
氏にとって如来使とは””懐かしいひと””と同義語で紀野一義は今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、この空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりだという。円覚寺の朝比奈宗源老師、南禅寺の柴山全慶老師、藤沢市鵠沼にご退隠の中川日史貌下がそうだといいます。
柴山師がアメリカへたびたび出かけたことが氏の寿命を短くしたと非難ではなく残念がっている。柴山師のエピソードも多く話されている。
氏が30代のころのあるとき柴山全慶師の話を聞きその内容を記して師に確認したところ「あんた速記ができるのか」と尋ねられ、いいえと答えると「録音したのか」またいいえと答える。師は録音でもしなければこんなに正確に記録がとれるものかと思ったらしい。当時ソニーの前身東京機械工業がテープレコーダーを販売していたがとても高くて手の出るしろものではない。
これはたいしたものだと思われたらしい柴山全慶師は紀野一義に対して以降いつでも会いにいらっしゃいと言われる。「いつでも尋ねていらっしゃい 食事中でも雪隠でも」
柴山老師は優れたお弟子もたくさんいたにもかかわらず一人も印可しなかった。悲しいことだ、優れた師にはなぜか大馬鹿な弟子がつくともいう。
紀野一義は親鸞の歎異抄「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」をしばしば引用する。師弟は一方向だといいたいのだろう。つまり師と内心定めるのはいいが師の方からわたしが師でお前が弟子だとはおこがましいといいたい、導くのはほとけだけだとの思いからくる。
おまえを育ててやったのは俺だ、おまえを一人前にしたのはわたしだなどはおこがましい、師として選ぶべきは師と自称しない人物を選べということになる。これは矛盾のようであって矛盾ではない、氏のいうところの二重構造であり実に含蓄のある言葉だと思います。
氏と師の関係を示すエピソードがある。フランクな関係といえばいいのだろうか。ほほえましいと云うべき間柄です。
柴山全慶師が氏の狭い家に講演にきたときのこと、日程を間違えていらっしゃった。
「紀野、今日は講演だというから待っておったが誰も迎えに来なかったぞ。だからこうしてやってきたぞ。」「お昼はなにを召し上がりますか」「なんでもよい」「ラーメンでもよろしゆうございますか」「らーめん?いいぞ」どうも柴山全慶師はラーメンをお知りにならなかったんですね。ちかくのラーメン屋から来たラーメンがおいしかったので全部お食べになりました。ひっくりかえして丼の裏までご覧になっていたといいます。
後を継ぐ人が出て10年も経てば「ああそんな人もいらっしゃったなあという気になる」しかしね10年たっても20年経っても生きていて欲しいと考えるのは考える方がどうかしています。死んだって同じことですよ。柴山老師がお亡くなりになっても屁とも思わないようになれ。
亡くなったら俺は生きる方向を失うだろうなということはない。年をとればいくほどその人が大事に思えてくると語ります。
ヴィクトール・E・フランクル
「夜と霧」の著者である精神科医ヴィクトール・E・フランクルは1941年のある朝にナチス当局からの通達を受け取り軍司令部に出頭するよう命じられた。この時フランクルは36歳、ナチスの「ユダヤ人狩り」は1939年の第二次大戦勃発に先立つ1933年頃からドイツ周辺でひそかにしかし着実に進行しており、宣戦布告時のドイツ国内には六つの強制収容所があった。その後2年ほどの間に、ポーランド、オーストリアなどの占領国内に新たな収容所が次々と増設された。
フランクルは出頭を命じられるや「ついに来たか」と、覚悟を決めた。収容所に送られる少し前にフランクルはアメリカに亡命できるビザを手に入れたがそのチャンスを見送る。
最初の出頭命令の時は、思いがけない執行猶予がフランクルに与えられた。接見したゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)の好意?によって収容所への抑留は1年間延期された。フランクルはゲシュタポの管理下に置かれていたウィーンのユダヤ人病院の精神科に勤務する。そこで戦後フランクルのデビュー作として世に出ることになる医師による魂の癒し(邦題 死と愛—実存分析入門霜山徳爾訳、みすず書房)を執筆する。
フランクルはアメリカに亡命できるビザを手に入れたがチャンスを見送る。自分一人海外に逃れて、愛する両親や妻を祖国に置き去りにしていくことはできないと考えたのだ。家族と共にウィーンにとどまる決意を固めビザを期限切れにした。
1944年10月に夫婦は貨物列車でアウシュヴィッツへ移送されフランクルはアウシュヴィッツに三泊しただけで、別の収容所へ移され、その時離ればなれにされた妻はベルゲン=ベルゼン収容所で殺された。母親と兄もすでにアウシュヴィッツ収容所で亡くなっていた。フランクルは一人の妹を除く家族を全員収容所で失った。
彼は収容所で収容されている人々をみずからも明日ガス室へ送られるかもしれないなかで観察し小さなカードに書き記し、毎夜月明かりの中でチビた鉛筆で考察を書き加える。
自らの衣服を他人に与える人やパンを与える人もいれば、他の収容者の衣服やパンを奪う人もいる、どちらもおなじユダヤ人だ、その違いはどこから来るのだろうと考え、自らの生きる意義を知っているかどうかの差だと気が付きます。
ある日チフスの40度にもなる高熱に冒されたフランクルは眠っては死ぬと自らの太ももをつねりながら耐えていると夢を見た。つまり祈りが夢に現れた、解放され、現在執筆中の著作が評判になりカーネギーホールで喝さいをあびているという姿が夢に現れたのだ。解放後実にその通りになります。
「夜と霧」はフランクルのアウシュヴィッツ到着から終戦による解放に至るまでの半年間の収容体験をつづったもので、人は「ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」この一言ほど祈りの効果を示すものはない、効果という若干実利的な言葉すら恥ずかしくなるほどの一言です。
わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。
人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を超えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。事実はそうではなかった。
現場監督がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。あのとき、わたしに涙をぼろぼろこぼさせたのは、パンという物ではなかった。それは、あのときこの男が私にしめした人間らしさだった。そして、パンを差し出しながらわたしにかけた人間らしい言葉、そして人間らしいまなざしだった。
わたしたちは、おそらくどの時代の人間も知らなかった人間を知った。では、この人間とはなにものか。……人間とはガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。
紀野一義はフランクルの「夜と霧」の長い引用を通して菩薩とはこういう人の事だと紹介している。氏にとってヴィクトール・E・フランクルも如来使に列せられています。
ヴィクトール・E・フランクルはアウシュビッツで靴底に体験を速記で書いた。同じアウシュビッツにいたオットーに覚えさせ、妻に愛していると伝えてくれと頼むがオットーの方が先に死んでしまう。
しかしフランクルは絶対にあきらめなかった。世の中がお前になにをしたか、期待しているかを思い出せ。世の中がなんにもしてくれないと嘆くか、何をしたいかが人間を別ける。だまされても信じるのが法華経、絶対肯定で、口でいうほど簡単ではないすざましい楽天主義だとフランクルについて氏は語ります。
「夜と霧」の作者フランクルの話を通して人間の無意識の中に潜む素晴らしいものの存在に気付く。お釈迦さまもそうした無意識のなかから思い出されたのではないでしょうかねと氏は言い添える。
フランクルはある収容者が老人の代わりにガス室へ自ら入っていく姿を描いて、フロイトのいう性欲だけではないもっと深い自己があることに気が付く。フランクルはそれを精神的無意識とか実存的無意識とか宗教的無意識とか呼び、実存的世界をほったらかしにすると実存的空虚になるということを言い出した。
フロイトが末那識だとしたらフランクルの見たのは阿頼耶識であり、フロイトが性欲が源泉だと説く以上にフランクルは心の深い層を観ているとフランクルを高く評価しています。
紀野一義は心は眼、耳、鼻、舌、身、意の意、つまり第六識に相当し、那識、阿頼耶識、阿摩羅識を加えて九識とする心のレイヤに分ける。レイヤを分けることがポイントで、その最深部は時空を超越したレイヤでありほとけに通じる最深部だという。
(AIの機械学習も最初の層を入力層(inputlayer)、最後の層を出力層(outputlayer)というレイヤに分ける)に分ける。氏はこうした最先端の知識をさらりと説明に導入する。
業を語る
業を考えることになった発端はバリでのスペイン人とのプール談義だ。スペイン人リカルドは「仏教は人生は苦だと説く」と述べた。それに対して強烈な違和感を抱いたわたしは祖国愛に燃えて反論をした。
帰国後に折に触れて調べてみるとスペイン人リカルドの「仏教は人生は苦だと説く」が欧米での一般的な受け取り方だと理解できた。苦は業に通じます。
業は引き算で落とす
人はなぜ生きるのか、紀野一義はこの人生で徳を積んで業を引き算し、よき輪廻転生を繰り返すことだ、業とは運命のようなものであるが運命とは違うという。一体なにが違うのか、引き算できるというのが運命とは違うとわたしは理解してみました。
わたし自身にもいろんな鬼がくっついているらしいから、自分でも困るが、困りながら、やっぱりちゃんとしたいなと思う、それが人間として大切なところだと思うのである。 ある禅者の夜話
誰の子供に生まれてくるのか、運命の神様もいたずらできない、業の命ずるままに人は生きていく、生まれてきたときに業をもっている、業はなかなか落とせないが引き算で落とすしかないと氏はいいます。
日蓮上人は立派な人だったので自分の業をわかっていた、佐渡流罪の苦難は過去世で法華経の行者を迫害した罪だとお書きになっている、そして殺されかけたり流罪されたり15年も苦しんで佐渡から帰って来た時にこれで業は償えると書かれている。
日蓮上人は自らを悪いもの、似非ものであるけれど法華経は素晴らしいので自分はすばらしいと言われています。
正しいことをしていても苦しむときは業が償われています。それがどうしても納得いかないとなれば引き算は完了しないと氏は言います。
親鸞上人は自らを凡愚といい、凡愚なひとほど立派な人が来て業が償われる。素晴らしい人をつかまえなければ業は解消できない。自分がにせものであり、罪深い者であることを痛切にかんじる痛みの自覚のない人はついに業が償われないと言います。
生まれてくる親は選べない、だから人間に自由なんてない、こういうものの言い方が出来る人がいなくなったと氏はいう。差しさわりのある意見はいまどきたちどころに批判を浴びますが氏は平気でこういう事をいいます。何人も不平等な業を抱えて生まれてくるからこそ業なのだ。
業は願いの深さで償う
光明皇后の行為も安全で快適な地位と生活からごくまれにこうした行為を行うのだから偽善といえば偽善だろう、しかし行為はやはり尊い。光明皇后はライ患者の膿を吸ったと伝えられる。
光明皇后は業を感じさせる顔で、ライの膿を吸いだすことは実は自分の業を吸いだしている。光明皇后の母親の橘姫は人を殺しているが光明はその業を吸いだしていると紀野一義は語ります。
光明皇后は垢をながしたが千人目の人のライ患者の背中を流すと、なんと膿を吸ってくれという、身分の高い人に膿を吸ってもらうとライが治るといわれていた。何でこんなことまでしなくてはと思っただろうけど、母の事を思うと、いやしなければと光明は考えたのでしょう。
光明皇后の母の橘三千代は娘を皇后にするために長屋王を殺しているのでその罪業を償わなくてはならない。11面観音の11は"多く"の意であり、眺めていると光明皇后の業の多さを感じる。
光明皇后の最後の千人目に重症の癩病患者が現れ、皇后に膿を口で吸い出すよう要望し彼女がその通りにすると病人は正体を現し阿閦如来として出現したという。罪業の深さは願いの深さで補ってくれる。
三谷さん
三谷さんは西田天香の一燈園から派遣されて満州に赴いた。戦後シベリアに送られ抑留された。一緒に抑留された美人の女性はシベリアでソ連兵に犯されて飛び降り自殺未遂した。
もう一人の将校はソ連の将校から顔つきが気に食わないと言われ、親からもらった顔だからしょうがないと言い返すとその将校は机の引き出しから拳銃を取り出し彼を射殺した。
三谷さんはいつもソ連の将校に合掌していた。「お前はなぜ俺にそんな合掌をするのか」と問われた。「あなたのなかの神に対して拝んでいるのだ」と応えるとその将校はそれ以降三谷さんの顔を見るたびににこっと笑うようになった。
ある日、三谷さんはソ連の将校から「お前は病院へ行け」と言われた。処刑するばあいにそういう言い方をすることも多い。ああ、とうとう終わりかと三谷さんは観念した。しかし日本に送り返され、日本に帰国した後は抑留経験を話して回った。そのなかでとある結核病院に行ったときのことを語っています。
結核病院の院長が、ある少年に話をしてやってくれと三谷さんに頼んだ。三谷さんが院長と連れ立って少年の病室に行くと少年は院長に馬鹿野郎と言い、「俺は死ぬんだ。なんにも聞きたくない」という。三谷さんを最初は全く受け付けない。出て行こうとすると後ろから凄い目で睨んでいます。それで三谷さんは少年が淋しいんだなとわかった。院長に話して少年に付き添うことにしました。
少年の生い立ちは悲惨です。大工の父と母の間に生まれたが父は妊娠すると母を捨てて出て行き、母は産褥熱で死んだ。飲食店に預けられて出前の残りもので食いつなぎ、その後家出をしてお宮の軒下などで生活していた。そして保護されたときは重度の結核にかかっていました。
三谷さんが付き添っていると少年は出された飯を食い、三谷さんに晩飯の残りを食えという。三谷さんは結核菌が気になったが喰わないとこちらの言うことを聞いてくれない、そこで最初の人さじをやっとの思いで食べる、二さじ目もやっと、あとは自然に食べることができ最後のお椀はうまかったと言います。
少年は心を開いたのか「おっさん、なにか話してくれるか」と言われた。三谷さんは「お前は死にたいというがな。人間はうまれてきたら一つだけすることがあるんや。お前は周りに死にたいとか言わずに黙って死んでいけ。それがこの世でお前にできるその一つや」といいます。
少年はやっと心を開いた。「俺は親に意見されたことはない。意見してくれる親がいるということは大変ありがたいことや。おっさん、俺が死んだらそれを皆に話してやってくれ」という。
その子は結核性の痔ろうで肛門が出ているので三谷さんはそれを新聞紙で中に入れてやる。血痰を伴う咳をする少年の背中を一晩中さすってやる。翌朝三谷さんが部屋を出ようとすると少年は「おっさん、帰るな」という。
三谷さんは人は別れがつきものだと少年にさとす。院長室へ行くと豪華な朝ごはんが出ていた。あの少年の食事をみたらこんなごちそうは申し訳ないといって御飯と香の物だけ箸をつけた。
院長と話していると看護師が呼びに来た。看護師はいつも馬鹿野郎とかいうのににこにこしているので少年にわけを聞くと「今日はご機嫌なんだ」と少年はいった。
そうしているうちにふと振り返ると少年は布団の中で静かに手を合わせて死んでいたという。
「誰にも知られずに静かに死ぬのがお前ができるたったひとつのことだ」との教えを守ったが三谷さんは少年に手を合わせることは教えていない。少年は自らの意思で手を合わせて死んだ。
「お前は誰にも知られずに静かに死ぬのがお前ができるたったひとつのことだ」とは誰も言えない、三谷さんが言ったのではなくほとけさんが言わせたのだと紀野一義は言います。
業と運命は違う
何代も何代も積み重なってできた業、一朝一夕にできたものではない。みなさんは人には言えない業をお持ちだろうと氏は語りかける。業とは運命のようなものであるが運命とは違う、運命に立ちはだかる自分が業そのものである、自分を一番愛さなければならない、つまり業そのものも愛さなければならないと氏は語る。
吉野秀雄は業が自分だと思って生きて行こうとした、そうすると凛凛たる生き方ができる、病ということを超えていく、これが弥陀の誓願だと思って生きた。
人の人生は無数の前世の業を引き継いで生きている、うまくいっている時は業を足し算しているが人生のいずれかのタイミングで業の引き算をする時期がある。(美輪明宏も同じことを述べていた、そういえば両氏は若い時に対談をしている)
氏は相田みつをとつきあって心の洗濯をさせてもらい、業の引き算をさせてもらったという、氏のいう業の引き算とはなにかがわかってくる気がします。
五障を持つ龍女の変性男子とは男子にならなければ成仏しないという意味ではない、男は女に、女は男にならないと成仏しない、つまり今のままでは業が引き算できていなくて成仏しない、変わらなければならない、それが変性男子の意味するところだといいます。
業の足し算の人生があるとき引き算に転じる、ゼロになると成仏してもう転生しない。生まれてくるのも迷いだが涅槃に達したひとも人を救済するためにまた生まれてくるといいます。法華経のポイントはここにあるのですね。
長生きする人は業が深い人、業の浅い人ほど早く死ぬ。すこし冗談めかして高齢者の多い聴衆に話す。氏は91歳まで生きた。
善も悪もなさずに一生を終える人がいる、それから比べると悪いことをするやつのほうが社会にインパクトを与えているということでまだ役に立つ、これも聞きようによってはきわどいトークを氏は語る。あだ花も花ということか、このあたり一見矛盾したことをさらりと話す凄みが紀野一義にはあります。
三獣渡河
ウサギ、馬、象の河の渡り方と業について述べ、ウサギは浮いて泳ぐ、馬は体を沈めて泳ぐ、象は河の底に足をつけて渡ると。(徹底という言葉は象の河のことからきている)
ウサギ、馬、象は三乗をそれぞれ表すとの説明があるがそれには深く触れず、業との関係を氏は述べている。ウサギは業が浅いのだが、業の軽い人は河に流されてしまうことがある。
業が重い人は先祖代々の業がのしかかっているので重い、だから足を河底につけて歩まねばならない。苦労は多いが着実にさとりの道へと進む、深い業は深い願いと深い縁で救済されると氏は説きます。
生まれてくるのも迷いだが涅槃に達したひとも人を救済するためにまた生まれてくる。
天台の十界互具と一念三千は非常に大事な考えであり西洋人にはその考えはない、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道輪廻と声聞、縁覚、菩薩、仏で十界がある。
十界互具とは仏の中にも地獄や畜生がある。もし仏の中にも地獄や畜生がないとすれば仏は地獄の衆生を救うことができない。
十一面観音の真後ろにある顔が暴悪大笑面です。地獄に徹すればほとけになれる道もある。地獄の人間は「これでいいのだろうか」の思いが一点あるから業を引き算でき仏になれると氏は言います。
人のこころは不思議です。漱石の「こころ」は友人がのどを欠ききって自殺するのを悔いる男のこころを描いています。
漱石は座禅などもしたが迷いっぱなしだからああいう小説が書ける。未解決で放り出される結末です。作家は結局は自分が安心できるところまでしか書けないが完全な安心に至っているわけではない。
無明と付き合う
無明は十二因縁のはじめであり無明は人間として克服していくことができないだろうと氏は言います。無明は情感と深くかかわっています。末那識は無意識の一番上にあるが情感と関係がある。知情意で知と意はコントロールできるが情は末那識からくるのでコントロールできないと氏は言います。
迷いを断ち切ってしまうと人間の命まで断ち切ってしまうと思う。その迷いを上手に使って迷いを乗り越えてそして迷いを動かしている力を自分のものにするということが大切になる。無明の無くなることはない、人間は生きている限り迷うものだと氏はゲーテのファウストを読んだ18歳の時にわかったと言います。
氏は一時期小林秀雄に会いたかったがそれも自己分析し、一種の無明だと冷静に捉え、迷いを上手に使って迷いを乗り越えることの大切さを語ります。
小林秀雄さんに会いたいという気持ちの中にはねやっぱりこれは違うものがあるからですね。ですから本当は小林秀雄でも誰でもいいと言わなきゃいけないのですね。西行法師を語るのには別に小林さんを入れなくてもいいんですよ。
しかし今の私にはまだそういうその色気みたいなのってあるわけですね。だから小林秀雄先生と一緒に対談したいという気持ちがある。私はそういう気持ちは大切だなと思います。
しかしね西行法師について語るのには小林ではさん以外にはないと考えるのは本当はこれは間違いなんですね。間違いであることはよくわかっているんですよ。一種の煩悩みたいなんです。
ただ大変体裁のいい煩悩だから皆さんが聞いてもあんまり引っかからないんでしょうかね、ほんとは煩悩です。小林秀雄さんが出ないといえば、そうですかご縁がなかったですねさよならってやそれでいいんですよ。西行法師をそのちょっと教えてくれたりしたら素晴らしいんですけど。
春風の花を散らすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり(西行)
小林秀雄が「なんとも言えない歌だ」といったのはこの歌だけ。小林秀雄もそうとう執念深い人だとおもいますよ。
迷いが無くなると人は死ななければならない。人間は無明=迷いを利用してこれを楽しみながら生きていく。仏教者は無明を避けようとするがそうではないと氏はいいます。
食欲は無明だが楽しいもので氏は食べることは大好きだ、おばあさんの汚い店で1300円でおごってもらったジャガイモとベーコンや酢漬けにしんがうまかったことなど、堂々と食欲は楽しむものだ。
無明は暗い方ばかりではおかしい、色即是空で一旦は空の世界に行くがそれがわかったら空即是色で色に帰り人生を楽しめばよいのだ、無明とうまく付き合いながら業を引き算する人生、これがよいのだ、化城喩品の化城を時に楽しみながら歩むのがよい人生だといいます。
自分の闇が深くないと明かりをみてもありがたいと思わない。一年に2度ほど氏を尋ねてくる僧がいます。奥さんを殺した元やくざだが弔うために日本を歩きたいと言います。紀野先生、地獄ってあるんですかね、刑務所の中で死刑囚と一緒にいるが彼らを見ていると地獄へいくはずがないと思いますと。
朝比奈老師があるとき「地獄があるとおもうかね」と聴衆に尋ねたことがある。100人ほどのなかでひとりだけ「絶対にあると思います。浄土が絶対あるように地獄も絶対あるとおもいます」と。奥さんを殺した元やくざといい、地獄も絶対あるといった聴衆といい、どちらも自分の眼と耳で知ったので揺るがない。氏はどちらも真実だと言いたそうです。
さらーっと生きる
目立ちたがりに嫌悪感を持つ人もいるが軽薄な人がいなくなると世の中面白くない。
「なんとなく嫌い」も情感と関係がある、桜が好きというのも心情だと述べ、水上勉の心情を語ります。
水上勉が汽車に乗って窓を見ていると裸足で女の人が走っている。その背中に年をとった男の人を背負っている。女の人は年をとった男の人を病院に連れて行こうとしているのか汽車に乗るために走っているのかわからない。これを見る水上勉の心情は業をしょっている女性だと氏はいう。
生まれてくることに迷い死ぬ時も迷う、迷いを繰り返す。これも氏の講演でしばしば繰り返される。迷いを断ち切る方法を氏は安易には述べないがうまくつきあって行く方法は述べる。
生死は迷いでありほとけの命を生きている、嫌だと放り出せば仏の命を放り出すことになる。さらーっと生きて行けるようになるとほとけの命を生きることになると氏はいいます。
仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。正法眼蔵 生死の巻
念のうすきは人間、念のなきはほとけといった盤珪さんとおなじでこの文はむずかしいことはなんにも言っていない、しかしこうなる前には何年も切ない思いをすると氏はいいます。
空(くう)を語る
この世はゼロであり仏の世界だが一をつまり一点を信じてほとけの世界に入っていく。虚空なるこころ、あはれは澄んだ世界で空。それがわからんと題目を唱えても念仏を唱えてもなにもわからんだろうと氏はいいます。
「空」といえば空しい、切ないような受け取り方をする方が多い。だから空しさから「空」(くう)へはいっていくのがよい、一切のものは空(無我)、世界も苦も生も死もすべては空、無神論にみえるが空が仏でありダルマだ、紀野一義は空をほとけだといいます。
無我説や空
仏教では、ヴェーダ宗教の「アートマン」つまり「我」を否定した「アナートマン」、「アートマンではない」という意味で、これを漢訳の時に「非我」「無我」と訳した。ヴェーダ宗教のウパニシャッド(奥義書)では、アートマンとは個の原理であり、宇宙の原理であるブラフマンと同一のもの、アートマンを悟れば宇宙の真理も悟れる。個の主体であるアートマンは、常に認識する主体で、認識された対象は、すべてアートマンではない。
紀野一義は30代の学究の頃に論文で次のように記しています。
原始仏教の無我説の無我とは自在性(我)のないもののことであると言います。ところが我は固定不変のものであり、無我とは固定性のない可変のものとも考えられている。同じ「無我」でありながら全く相反する立場が共在していたと言います。
一切法空も世俗的な解釈では「一切法に封する執着をひとつひとつ空じで行くこと」であるとしているが「一切法そのものがもともと空なのである」という相反する立場が共在していると言います。
紀野一義は、生きていることはなんともいえずむなしいということを考えないことがないと言います。どんなにがんばってもこころの奥の方で徒労だよ徒労だよとの声が聞えるときがある。五蘊皆空とは優しい言葉に直したら人間が生きているということは無駄なことだなぁということなんですよとまで言います。
たしかにわれわれの前にはただ無だけが残っている。しかしこのように無に帰してしまうことに抵抗するものがあり、これがわれわれの本姓なのだが、またこれこそはほかならぬ生きんとする意志である。・・・われわれがこれほどにも無を嫌悪しているということ自体が、われわれが生きんとする個の意志以外の何者でもなく、個の意志のほかにはなにも知っていないということを、別様に言い換えていることにほかならない。
我々がそもそも意志するということが、我々の不幸なのだ。 ショーペンハウアー
山本周五郎の「虚空遍歴」で「俺のやったことは皆徒労じゃないか」って中也が言いますと女性がたしなめる。川端康成の雪国でお駒に島村が「皆徒労じゃないか」という。川端もそう考えています。地位のあるひとは「自分がいなくちゃ」と思うけど必ず次のが出てくる。人生とはそんなものです。
自分でいいことをしたとしても満足感があるとは限らない、人生は虚空遍歴的だと氏は言います。
氏は婚約者も結核で亡くしている。生まれて三日で子供を亡くし、父母兄妹二人も原爆で無くす、そして津山でも友人二人を亡くしている、甥っ子の転落死も経験している。人生はいいことばかりではない、それらを含めて全肯定で生きよと空を説いています。
紀野一義は生まれて3日の未熟児の赤ちゃんを亡くした時のことを語る。氏は真如会の主宰者で赤ちゃんが亡くなった日は真如会の結集の日だった。死亡届を終えて氏は鎌倉の円覚寺に駆けつけた。
その日の法話は朝比奈宗源師で、氏が控室に行ってお礼のあいさつをすると老師は氏の顔をじっとみて「あんたもなあ」と言った。
こういう体験の上に空を語ります。
現代の人がこの世に生きるということはいつも空しさにつながっています。愛もうつろい美しさもたちまちにおとろえる。しかしよく考えてみれば人はその空しさを通して空しいということをほんとうに体験しそれを突き抜けたところにほんとうの空という大らかな世界に至る、空がひらけて来るのだということをよく味ってみるべきであると氏は言います。
戦後引き上げてきて姉の寺に泊めてもらったとき、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ました。そして布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。二時間の慟哭の中でなんともいえぬむなしさを感じた。せっかく生きのびて故国に帰って来たのに愛する者たちはみな死んでいた。このむなしさの向こうからひらけて来たあの大らかな世界を忘れられない。
「空」についての学説が一杯ある。20の空門というのがある。空空、外空、内空とか云々。20もへったくれもない、こんな議論をいくらやっても「空」はわからない。お経のことばの解釈ばかりしても何を言おうとしているのかがわからない。色即是空をいくら勉強しても「空」とは何かはわからない。
あると言えばある、ないといえば無いとしか言えない。きれいだと思い込んでいるときれいでなくなる。この理解は説明されてわかるものでもないので皆さんでそれぞれ考えて下さいと放り出し、それを空即是色と言いますと氏は結ぶ。
仏教の空は多くの本が出ているが全部読んでもわからない、一旦先入観を捨てて、これは本当はわたしではないのかもしれない、などと打ち消していく、これを色即是空、それからまた先入観の世界に戻ってくることを空即是色という。このようなもの、あのようなもの、それは違う。あれとも違うとしか表現できない。だから如という。
大乗仏教は「空」がわからないと前に進めない。紀野一義は色即是空の空を学問的ではなく人に役立つ知恵として考える。
生かされているのは「空」から始まるということがわからなければなんにもならないと氏はいう。むなしいとの意で「虚空」、大らかさの方は「空」だと、むなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界の「空」なら氏はよく分ると言います。学問的にはむつかしい問題がたくさんある。しかし生きていくうえで必要なことはむずかしいことではないと氏は語ります。
色は迷いで「空」は迷いのない世界だが突き詰めていくと本当は迷いもなく迷いが無くなることも無いと氏はいいます。
「空」に至った方
氏が今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりだ、円覚寺の朝比奈宗源老師、南禅寺の柴山全慶老師、藤沢市鵠沼の中川日史貌下がそうだと言います。
朝比奈宗源老師は晩年「紀野さん、生きるってことは大変だな」といった。「その時、風が吹き抜けた。その風をおやじの風という。」。氏が「唯仏与仏」の二人の一人に上げる朝比奈宗源老師でさえ「紀野さん、生きるってことは大変だな」と、信仰の極致に至った人でさえ常時が極楽のような現実は存在しないことを「おやじの風」と表現しています。
向こうから帰ってくるときの空は否定ではなくおおきな世界だ、色即是空のサンスクリット原典では色空だけしか書いていない。この即を(否定する)動きをあらわしていると亀井勝一郎が言ったのは卓見だと氏は言います。立川武蔵も色と空を往還すると、動きをもとに説明しています。
空の思想は行為の思想に他ならない。迷いの世界という現状から修行という手段を経て空性を体得するに至り、そしてその空性の働きによって迷いの世界が浄化されるというのが空性を求める行為の全体像である。立川武蔵「空の思想史」
色即是空は向こうへ行く動きだ、空即是色は向こうから帰ってくる、向こうから帰ってくるときの空は否定ではなくおおきな世界、包み込むものを指すと氏はいいます。
形のあるものは一旦否定して本当のものがでてくる、空は否定すること、仕事ができた、しかし満足するものではないと否定する。形あるものは美しいものか醜いものか、美と醜はちょっとしたことでひっくり返る、色即是空はこの動きを教えてくれると氏は語ります。
美と醜は背中合わせ
奈良の法華寺にある十一面観音は光明皇后を写したと言われる。この観音にはどこか影がある。光明皇后は天平時代第一の美人と言われた。皇后になるには身分に問題があった。皇后になるために長屋王が殺されてしまうがそれは光明の母橘夫人が計画したと言われている。歴史上の人物が母親の冥福を祈るというのは背後になにか事件がある、美しい話の後ろには醜いものが隠れていると氏はいいます。
光明皇后がハンセン病患者の背中をながしているときに「身分が高い方が膿を吸いだしてくれると治る」とお願いされる。光明皇后がそうする、そして聖武天皇にばれてはいけないので公言してはいけないと口止めする。すると「おまえはアシュク仏の変身を公言してはいけない」と応え、ハンセン病患者はみるみるうちにアシュク仏にかわったという伝説がある。膿は罪の意識であり、自分で自分の膿つまり罪の意識を吸いだすことになる。
アシュク仏と光明皇后はひとつになっている。このエピソードは荒唐無稽だと言ってしまうには済まないものを持っている。美と醜は背中合わせでこれを色即是空だと氏は言います。
芸術家と空
芸術家は50、60になっても妄執を捨てきれず、富の上に安定し、親分子分の組織であぐらをかく人がいる。人も「これは誰が作ったと、中身を鑑賞せずにすぐ聞いて名前だけで感心する。横山大観の晩年は凄み、抵抗を感じなくなるが若い時の絵は恐ろしくなる程凄いものを感じると氏は言います。
芭蕉は晩年になっても「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」で芸術家の鏡だ、最後まで追いかける人でそれが芸術家の宿命であり、好んでその世界に入っていったのでこれは避けられない宿命だ。終わりがないところで空が広がって戻ってくる、そこに入るまでは空しいことを何べんも何べんも経験しなければいけない。
野ざらし紀行は芭蕉41歳の句集で、秋に旅をするというのは当時でも普通ではなく、当時の旅は春に出発して秋に帰るのが普通だった。
野ざらしを心に風のしむ身かな
芭蕉は相当な決心をして冬に向かう旅の出発をしている、死ぬ時がこわいから決心ができる、芭蕉は41歳で切なさの究極までいっている、そしてそこから戻ってきている。この野ざらし紀行は最初からお仕舞まで空(くう)の性格をもっていると氏は言います。
高村光太郎の妹への詩を紹介して、泣きたいだけ一人でなきなさい、すると丘や林が見えてくるだろう、仏とかだらーんとした気持ちとかは本当はいらない、ここに空即是色が味わえる、ここに入るためには空しいという思いが必要になる。そうすると新しい世界が始まる、生きてくことが楽しみになると氏はいいます。
宮沢賢治は詩と実践で菩薩道を行った。芭蕉は「高くこころをさとりて俗に帰るべし」といった。高くこころをさとりては解脱であり、俗への往還こそが大事とした。稲妻に悟らぬ人の貴さよ も同じことをいったものだろう。こうして仏教と哲学と文学の尾根がつながる。
続