氏のyoutube講演より断片メモです。意味がとりにくいかもしれませんがおいおい書き足していきます。
今の日本人に欠けているのは中世の人が持っていた剛直な生き方。
万事を捨てて一時に就くという精神がない。
背中を向けてくれた方がありがたいこともある。
大勢の愛を全部受けていたら大変なことになる。もし苦しくないとすれば本当に相手を大事にしていないのかもしれない。
愛情は説明しなくてよいというのは間違っている。話して初めてわかる、通じる。
解脱とは自分を縛っているものから自由になること。たばこの禁煙に例をとるとやめてもまだ吸いたいと思っているうちは解脱していない。
「未知との遭遇」を観て、宇宙人が地球を救済するという話は興味深いと述べている。同じように考えている。
冥加とは目に見えない力に支えられていることでそれを如来神通の力とも。
80、90まで生きるがその代わり生きているのか死んでいるのかわからない状態で生きるのはごめん被りたいと。氏は91歳で亡くなったが最後まで講演を続けて人に希望を与え続けた。
日蓮上人の佐渡御書
前世の報いで佐渡に流されるとご自身で書いておられる。
日蓮上人には矛盾したものが同居している。矛盾したものが相克するなかでエネルギーが出てくる。矛盾の内包は祖師たちに普通のこと。天賦のものであり業を感じる。業が悪いだけのものではない、 エネルギーの源泉となる。
罪の意識が日本にはない。絶望がない。罪を悔いなさいと言われても日本人にはぴんと来ない。
ロシアのような罪の意識はない。だから日本にカラマーゾフの兄弟は生まれないと聴いていて思った。
罪の意識として「俺の命と引き換えに家来の命を助けてくれ」が日本人にピンとくる。
はるかぜの はなをちらすと みるゆめは さめてもむねの さわぐなりけり 西行
この歌を美しいと感ずる限り、私達は、めいめいの美的経験のうちに、空即是色の教えを感得している
坊さんでなきゃ仏教を説いてはならないということはない。
創価学会は「証拠がなけりゃだめだ」というけどそんなことはない。信は証拠があろうとなかろうと信じるから信で、そうでない場合は確認あるいは理解。
「紀野さん、わしの母は、死ぬときにわしと姉を枕元に呼んでなあ、わしは今から死ぬが、死んでも草葉の陰からお前たちをみまもっているからね、と言うて死んだんだ。紀野さん、わしは、それからというもの、野原で遊んでいるときはいつも、草の葉を裏返してみてあるいたもんだ。草葉の陰から、といったから、虫かなんかにでも生まれかわっているのかなあとおもってなあ。」朝比奈宗源が語った。
聖徳太子には暗い地獄を見る目があったのではないか。
親鸞は聖徳太子に惹かれる まっすぐ繋がっている。
煩悩即空 空はこの場合むなしいとの意。
師匠と弟子の関係はないんだ 維摩経義疏。
地獄は一乗住処ぞかし 極楽を望むのは乞食信心。
縄文土器をみると闇夜にともしびをつけるがごとく感じる。
自分の闇が深くないと明かりをみてもありがたいと思わない。
政治というのはやりたがらないやつがやると良い政治ができる。
ほとけさまを知れば知るほど恐ろしくなる。
人間はどうしようもないものとしる。そこから人間理解が始まる。
軍隊で裸になって校門まで検査され人間が変わった。
本覚坊遺文 井上靖 中世のひとは一本の道をあるく 仏に歩かされていると自覚していた。
歎異抄の言葉 永遠の女性がたった一人でも存在すれば「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」となる。
皆さん、お迎えがきたら安心していきなさい、あかるいところに、 浄土にいけるんだから。
苦しんだからいけないというわけではないんです。xxはあんなに苦しむんだったら信心がほんものじゃないんでないのかと周りが言った。しかし死ぬときに苦しんだからと言ってその人の信心とは関係ない。
自分ではいい死に方をしたいと思う。3度死にかけた。撃針が指に刺さったのが3度。こりゃ死なないようになっている。生かしていただいている。もうけものだと思う。
瀬戸内の海が黄金色 銀の色が加わって 親父もおふくろも死んでるなあと思いました。
父母姉妹は私が題目を唱えようと経を唱えようと完全に成仏しているとおもう。しかし毎日名を呼ばずにはいられない。
法華経に恋慕を抱いてまっすぐで正直で柔軟で感じやすい心を持つ
質直意柔軟 一心欲見仏 不惜身命 人はこの気持ちと覚悟がなけりゃ駄目ですね。
死んでしまうといなかったも同然になる。亀井勝一郎が死んだ次の年に全集が二束三文で売られていた。
亀井は暁烏のところにいって話をした。暁烏はふん ふん ふん と聞いている。こりゃ駄目だと帰ろうとした。出口までいった背中に「あんた師匠は誰かね 師匠のない仏法はないよ」と一撃された。亀井さんもそのときに師匠を決めればよいのに「よく考えます」とか言って決めなかった。
自我を滅却すると仏と一体になる。
キリスト教しかしどこまでいっても神になれない(だからそれを納得できない氏は)本当の意味でクリスチャンになれない、だから仏教徒でいると。
キリスト教をわからないと仏教はわからないですね。わたしは戦後に津山で姉の家に1年居候しておりましたが図書館の館長の縁で内村鑑三の本を読み、キリスト教青年会のリーダーをしたことがある。
矛盾したものがそのまま共存している凄さに。
日蓮上人は戦闘的であり一方では「涙ひまなし」
この世しかないと言いながら金吾には霊山でまっているとも言う。
「誰にだってあるんだよ 人には言えない苦しみが 誰にだってあるんだよ 人には言えない悲しみが ただだまっているだけなんだよ いえばぐちになるから」(相田みつを)
古語 君看よや、双眼の色。 語らざれば、憂いなきに似たり。
「惻隠の情」
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