まさおレポート

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機械学習のレイヤと末那識、阿頼耶識、阿摩羅識

2021-11-07 | 紀野一義 仏教研究含む

気と心は一見似た言葉だがどう違うか。


気使い 心づかい これは珍しく同じ意味だ

気配 心配はまるで違う

病気というが病心とはいわない

気苦労 心苦労とはいわない

気になる 心になるとはいわない

気難しい 心難しいとはいわない

気を失う 心を失うとはいわない

気の流れ 心の流れとはいわない


気や心という言葉が漢から伝わってきて日本人はその違いに気が付いていて使い分けてきた。しかしわたしはこの違いは明快に説明できない。古代の日本人が持っていた感覚が既に失われてしまったのだろうか。

逆にいえばこの気と心の違いが分かれば古代の日本人の気持ちがわかるかもしれないが。

いずれにしても古代の日本人は心をレイヤにわけて認識していたことがわかる。


紀野一義は心は眼、耳、鼻、舌、身、意の意、つまり第六識が相当し、気を末那識、阿頼耶識、阿摩羅識を加えて九識とする。

つまり心のレイヤを3層あるいは4層に分ける。いずれにしてもレイヤを分けることがポイントで、その最深部は時空を超越したレイヤであり仏に通じる最深部なのだろう。

AIの機械学習も最初の層を入力層 (input layer)、最後の層を出力層 (output layer)といいレイヤを分ける。そうだとするとアナロジーで末那識、阿頼耶識、阿摩羅識の理解が深まるかもしれない。


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