まさおレポート

紀野一義の研究39 見宝塔品

紀野一義のyoutube講演から断片的メモです。


見宝塔品は大乗の法華経結集の有様を華麗にイメージ化したものです。

世尊、何の因縁を以てか此の宝塔あって地より涌出し、又其の中より是の音声を発したもう。

此の宝塔の中に如来の全身います。乃往過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名く、彼の中に仏います、号を多宝という。其の仏本菩薩の道を行ぜし時、大誓願を作したまわく、
 若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説く処あらば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に、其の前に涌現して、為に証明と作って、讃めて善哉といわん。

彼の仏成道し已って、滅度の時に臨んで天人大衆の中に於て、諸の比丘に告げたまわく、我が滅度の後我が全身を供養せんと欲せん者は、一の大塔を起つべし。

仏前に七宝の塔あり。高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり。地より涌出して空中に住在す。種種の宝物をもって之を荘校せり。五千の欄楯あって龕室千万なり。無数の幢幡以て厳飾となし、宝の瓔珞を垂れ宝鈴万億にして其の上に懸けたり。


氏の解説。欄楯はインドでストゥーパやその周囲の神聖な場所を,俗界の地と区別するために設けられた玉垣ですね。龕室は寺の塔。塔の下の部屋です。


爾の時に宝塔の中より大音声を出して、歎めて言わく
 善哉善哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊所説の如きは皆是れ真実なり。

爾の時に四衆、大宝塔の空中に住在せるを見、又塔の中より出したまう所の音声を聞いて皆法喜を得、未曾有なりと怪み、座より而も起って恭敬合掌し、却って一面に住す。


多宝塔のなかより声が聞えてきた。如是如是 皆是真実と。

ストゥーパは塔婆と訳した。お墓の中に木で作った卒塔婆がありますね。ストゥーパが二重になっていて丁寧な話だなと。インドでは丸い土饅頭を作った。稲を刈り撮った後に丸く盛り上げる。それをストゥーパと呼んだのからとったんですね。

砂漠の中に小さな土饅頭がある。砂嵐でなくなってしまうようなものですね。それが大きなものになったのは釈迦が亡くなった後のことです。

皆が一斉に立ち上がり礼拝した。声だしたのは多宝如来で法華経が真実の教えであることを証明をする。善哉 よきかなと言うのです。まるでオペラみたいですね。

筆者注 アイーダ風。


声が空中から聞えてきたことについて、ラグビーではボールが飛んできて後ろの方で俺が任せろと言うと後ろに任せる。神の声だと思えと言うらしい。後ろが視野が広いからなんですね。


世尊はどういう因縁で大地より湧いて出たのか。多宝如来が法華経の証明をするためですね。滅後には実際にはほとけを見ていない。信者は書かれたものを想像するしかない。その想像上のイメージが多宝如来です。証明されなければならないことは滅後に説かれたことを示すわけですね。

多宝塔は高さ五百由旬で、由旬は一日で皇帝が行く距離、あるいは太鼓が聞える範囲の8倍と。大変おおきなものです。脇侍を集めた後に多宝の扉が開かれる。どんな塔が建てられたかはわからないが5メートルくらいだろうと推定している。


大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)を読むと、「アーナンダよ釈迦の葬儀に心を砕いてはいかん。バラモンが供養するだろう」とある。

大般涅槃経は漢訳とパーリ語の2種類あるがすこし違っている。パーリ語の方が真実だろうと思います。

釈迦がなくなる時が近づいてきたときに心配性の阿難がいろいろと先のことを考えた。

阿難よお前たちは心を煩わしてはいけない。バラモン、商売人などが遺灰の心配をするだろうと釈迦は阿難に諭す。

釈迦滅後116年後にアソーカ王が発掘して遺骨を取り出して8万四千に分けた。これはインド特有の定型的ないい方で、おそらく数百に分けたのでしょう。塔は今でいうお墓だった。

遺骨の上に土饅頭や塔が建てられた。ロシヤの学者が研究しているが土饅頭ストゥーパの高さはは直径が5メートルだろうと。紀元前383年の滅後116年目アショーカ王が墓を発掘8万4千の塔を建てた。8万4千は実数ではなく定型文句だろう。法隆寺に土饅頭や塔のイメージが見れる。右に金堂で仏様がおられ 左に五重の塔でお骨を収める。

法隆寺の金堂に礼拝する。五重塔は骨を礼拝する。これが均等でなければいけないというので中門の真ん中に立っている意味は敬意が均等にとの意だろう。

筆者注 梅原説をやんわりと否定している。

仏塔をたてたのは比丘ではないという点が大事です。釈迦のご遺言がそうだった。つまり在家がおこなうべきものですね。日本の仏教は変わったのでしょう。

塔(墓)を管理したのは比丘ではない。かかわってはいけないと釈迦に命じられたから。塔(墓)は在家が作る。

筆者注 日本の仏教が葬式仏教化しているのをやんわり批判している。


経典を結集する。大迦葉を中心に悟った人のみで経典を集める。如是我聞というのはこうして集めたことを示している。釈迦の説法を皆が正確に覚えているわけではない。阿難が一番正確に覚えていたのだが彼は悟っていない。

阿難は優しい人で、悟れなかった。大迦葉に叱責される。枕を変えて悟り、やっと結集メンバーに入れてもらえた。阿難が結集した経を訂正して採用されこれが在家に伝えられた。

比丘の説く釈迦の話だけを聞いても在家は心が落ち着きません。そういう人はお墓に行く。墓の前で踊ったりした。盆踊りと同じですね。

筆者注 インド映画を想う。


大般涅槃経には、火葬せられるや舞踏や花を撒いたりして供養した、と書いてある。塔を管理していた人たちに比丘も入っていく。そして自分たちのことを菩薩教団と呼ぶ。比丘教団に対して。

経典結集菩薩団が干からびている経典ではなく新しい経典を作ろうとした。そこから大乗の般若、南で華厳、維摩、法華経は西北インドでできたと推定している。

原始仏教からみても法華経が正しいと証明する。皆これ真実という。手の込んだ証明をする。このことからも釈迦滅後に説かれた教えということになる。

クシナガルの小高い山に火葬場を煉瓦でつくった。お墓をたてる陵にお釈迦様の遺骸を運んで火葬にした。このあたりは日本の田園風景にそっくりです。敬慕の念が多宝塔の品を生んだ源流ではないかと思うんです。


日蓮宗のお坊さんにもっと品のよい言葉はないかと言われたが。ええなあ ええなあ が善哉にもっともふさわしいと思います。感動がなければ嘘だ。法華経は論理的に読んでもわかりませんね


岡潔は「日本のこころ」で良寛の「天上大風」を見てすべてがわかったと。これが真如であり信解で善哉ええなあに通じる。感動がないひとはわからないんじゃないでしょうかね。

佐藤勝彦という画家は「いやー」と感心してくれる。信解派だな、 こういう感動する人がわたしは大好きなんです。


薬のむとき絶対効くと思って飲むと効く。すぎなはシリコン(ケイ素)が豊富。

スギナのお茶 これ飲んだら絶対効くと思って飲む。するとこころがプロモートされて体が丈夫になる。

シリコンとゲルマニウム これよりもっと安いのがスギナ。


世尊よ願わくば仏身を見奉らん。官能の喜びから精神的な喜び、静かな喜びへと喜びは移っていく。 

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