手安の弾薬庫跡
昭和7年に旧陸軍により構築された弾薬庫。二重壁の構造。戦時中は、陸海空軍の弾薬貯蔵補給基地、終戦とともにすべての弾薬は大島海峡沖に廃棄された。
昭和7年に旧陸軍により構築された弾薬庫。二重壁の構造。戦時中は、陸海空軍の弾薬貯蔵補給基地、終戦とともにすべての弾薬は大島海峡沖に廃棄された。
高倉のある春景 昭和35年(1960)頃 田中一村記念美術館藏。バリを彷彿。
「漁樵對問」昭和34-35年(1959-60)頃 田中一村記念美術館蔵
奄美初期に色紙とともに送られてきたといい、千葉寺風景の連作と同じ川村家の書斎の額絵用サイ ズの作である。旅人的視線で千葉へ向けた内容といえ、ガジュマルの木と高倉を背景に当地の風俗 を、古来の文人画の画題になぞらえ、画中に題し、ややコミカルに描いている。(田中一村展カタログ)
人生最後の日々を過ごした「和光の借家」
車で、中心市街地側から和光トンネルを抜けてすぐの和光園を右に見ながらしばらく走り、住宅街の 細い道を山に向かって突き当たった場所に「田中一村終焉の家」はある。
昭和36年(1961)12月ごろから昭和52年(1977)8月末までの約16年暮らした借家を退去しなく てはならなくなった一村が、ようやく見つけた引越し先がこの家だった。元は家主が農機具置き場として使っていたもので、雨漏りのするお世辞にも立派とは言えない木造家屋だったが、一村は「御殿 のようだ。ここでまたいい絵が描ける」と喜び、自ら手を入れて修理し、井戸から水を汲み上げるポン プや家の中に敷く畳の手配、電気を引く契約などを行い9月1日に入居したが、わずか10日後の9月 11日に急逝してしまった。
一村の没後、この家はしばらく空き家のまま和光園近くの現地に残された。その後、平成5年 (1993)と平成10年(1998)の2回の移転を経て、現在の場所に落ち着いた。移転した際、家の周囲に ガジュマルやソテツ、クロトン、クワズイモなどいろいろな種類の植物が植樹されたが、26年経った 現在、小さかった植物たちはもりもりと生い茂り、特にガジュマルは建物を覆い隠さんばかりに成長 した。それはまさに、一村の作品世界を彷彿とさせる景色である。
ただ、「田中一村終焉の家」とその周囲の雰囲気が「あまりに、らしくなってしまった」ことで、時折 訪ねてくる観光客の中には、「終焉の家は初めからここにあった(一村はここで亡くなった)」や「現存 するこの家が、16年間暮らした有屋の借家だ」と誤解している人がいるようだ。 日日新聞」2008年9月11日付,提供:大重武男氏 田中一村展カタログより