まさおレポート

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バリの風景 歴史

2014-11-29 | バリ島 文化・風習・葬祭・ヒンドゥ・寺院・宮殿

「サムライ、バリに殉ず」 2010-03-07

「ググールブンガ(落下)=独立戦争を闘った英雄の葬送に演奏される歌」

「ジョヨボヨの予言=10~13世紀頃インドネシアを支配したクディリ王朝の国王であり、数多くの予言を書き残している。そこには、「わが王国はどこからか現れる白い肌の人々に乗っ取られるであろう。彼らは魔法の杖をもち、離れた距離から人を殺すことが出来る」
「白い肌の人々の支配は長く続くが、やがて北から黄色い人々がやってきて、白い肌の君主を追い出す。彼らは天から白い布をまとっておりてくるだろう」

南米のペルーにも似たような予言があり、そのために唯々諾々とスペイン人に滅ぼされたとあるが、なんと共通した予言があることだろう。
このあと、黄色い肌の人々も去っていくと続くのだが。

「バリ人達は「ジュンポール」=白馬という言葉で日本軍を歓待した。」
上記の予言の力によるのだろうか。

「彼らはトウモロコシの花が咲くころまでこの地を支配し、去っていく。その後、ラトウ・アディル(正義の神)が支配する祝福される治世がくる」 日本兵が去っていくことの予言

「インドネシアには「シンタカン」と呼ばれる特有の言葉遊びがある。NIPPONのスペルも「後でインドネシアはオランダと戦うだろう」という言葉遊びに使われていた。」

「兵補が徴用されたのは1943年の5月である。インドネシア全体で200万とも400万ともいわれる人々が連行され、油田開発やシンガポールの肉体労働現場、タイ・ビルマのタイメン鉄道建設に投入された。そのうち2万人が行方不明になったといわれる。」

「日本軍がバリ島に円滑に上陸し、統治をすすめられたのは、三浦襄が軍部とバリ島民の仲介役を買って出たからだといわれている。・・・三浦は自らの棺桶を用意した上で、デンパサールの自宅でピストルの引き金を引いた。享年57。三浦はバリのサムライとしての最後を遂げたのである。」どんな時代にもこういう立場に立つ誠実な人がいる。しかし権力に利用されて結局は裏切られる。

バリ島の王家支配からオランダ支配へ 2010-03-07

サムライ バリに殉ず」より
16世紀初頭に滅亡したジャワ王朝からバリ島に逃れてきた一つの王家=マジャパイト王朝からわかれた。ジャワではマジャパイト王朝は今のインドネシアとほぼ同じ版図をおさめていた。
最初の王デワ・アグンはクルンクンに住んだ。7つの公告をつくったがそれぞれが独立した。デワ・アグンがカーストを持ち込んだ。スードラ=平民は正確にはカースト外で、もともとのバリ人を指す。スードラとは外の人の意味である。

この像は、1343年にバリはマジャパイト王国に支配されるがその時の将軍ガジャマダの雄姿だという。日本の仁王さんのルーツかとも思ったが、それよりずっと新しい。右手にクリスという波をうった短刀、左手にカンパックという斧を持っている。

バリを除くインドネシア全域がオランダの支配下は徳川幕府成立の頃。バリが何故支配を逃れたか。バリのラジャ達が奴隷貿易で富と武器を持っていた。又、オランダからみて魅力のある島ではなかった。

19世紀の終わりにバリのすべてのラジャを巻き込んだ領地争いが起こり、その内戦に乗じて1894年カランアッサム王家の領土ロンボクを制圧、1906年デンパサールのバドン王家のププタン=集団自決、1908年のクルンクン王家のププタンによりオランダのバリ支配は完成する。


インドネシア独立までのバリの歴史概略

1,700,000 B.C. ジャワ原人
250000B.C. ホモ エレクトスがバリに 洞穴や木の上に住む。毛皮や木を切る。
40000B.C. ホモサピエンスがバリに
20000B.C. スラウェシ イリアンに洞穴画
12000B.C. 氷河期の終わり 西からの陸続きの移住は最終期に
4000B.C. 金属使用の時代がタイの北部で始まる
2000-3000B.C. Malaysia, Philippines,  Oceaniaからオーストロネシア語族がバリに移動

バリ島西部のCekikでこの時代の石器が発見されている。

1000B.C. インド、中国との交易がはじまる
500B.C. DONG SON文化の影響を受け青銅の製造がバリとジャワで始まる。中国と香辛料の交易がはじまる。
200B.C. ヒンドゥ、ブディズムの王国が東南アジアで起こる。
100B.C. DONG SON文化の影響を受けた銅鼓が発見される。
400AD ジャワでスリビジャヤ SRIVIJAYA HINDU 帝国が起こリ、バリはジャワの支配を受ける
450AD カリマンタンに文字の書かれた遺物

778AD バリのストーパ (塔)にサンスクリット文字が見られる。 ゴアガジャ GOA GAJAHやタンパクシリングTampak Siringがおそらくこのころに設立。


800AD ジャワ島の仏教遺跡ボルブドールがこのころに設立
900AD ベサキPURA BESAKIH ティルタPURA TIRTA TEMPULが建てられる。この100年の間に仏教からヒンドゥーに劇的に変わったのか。

989年 ワルマデア WARMADEA王朝の始まり バリの王子ウダヤナ UDAYANAと東JAWAの王女が結婚する。バリのJAWA化が加速する。
11世紀 バリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国との繋がりを強めるようになる。スバック(水利システム 世界遺産)など21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができる。カヤンガン・ティガや家寺の建立は、ジャワから渡ったヒンドゥー僧クトゥランが広めた慣行とされている。

カヤンガン・ティガはプラ・デサ(Pura Desa)デサを創始した祖先をまつる寺院。プラ・プセー(Pura Puseh)デサの集会所を兼ねる寺院。プラ・ダルム(Pura Dalem)墓地を併設し、まだ浄化されていない死霊をまつる寺院。からなる。

1248年 ジャワのシンガサリ王国クルタナガラ王の軍隊は東JAWAのクディリ王国を滅ぼし、その延長線上でバリは征服される。
1256年 バリを支配していたジャワのシンガサリ王国がジャワの新王国マジャパヒトによって滅ぼされ、バリは隷属から脱する。
1342年 バリはジャワのマジャパヒト王国に侵攻され、BEDA ULUがGAJAH MAJAPAHIT王朝のMADAに敗れる。ワルマデワ王朝は滅びる。マジャパヒト王国は、クディリ王国末裔の第四子スリ・クトゥット・クレスナ・クパキサンを遣わしゲルゲル王国を建国。

1500年 JAWA MAJAPAHIT王朝がISRAMに滅ぼされる。数千人の王国の廷臣、王妃、プリースト、職人、兵士がバリに逃げ,バリ文化に多大な影響を与える。

影絵芝居ワヤンや音楽、彫刻にジャワの影響を受けた文化が花開いた。ジャワから渡来したヒンドゥーの高僧ダン・ヒャン・ニラルタがタナロット寺院やウルワツ寺院など数々の寺院を建立する。
1597年のオランダ商船乗組員がバリ島に最初に上陸しバリのゲルゲルに住む。
1651年 ゲルゲル王がクルンクン(スマラプラ)に移動し、権力基盤が揺らぐ。
17C-18C クルンクン王国のほかに7つの国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンクウィ王国)が起こる
1800年代 コロニアル建築がシンガラジャSINGARAJAから東へ伝搬する。
1846年 オランダ軍がバリに バリ島サヌール沖の難破船引き上げ要請に乗じてバリ サヌールに軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧する。


1860年 ウォーレス線で有名なウォーレスがバリ島に上陸。
1894年 オランダはロンボク戦争でロンボク国とカランガスム王国を獲得。
1906年 オランダ軍はサヌールに上陸しバリを攻撃。ププタンで抵抗する。
1908年 クルンクン王国を滅ぼし、全土を植民地とする。ププタンでオランダは国際的な非難を浴び現地伝統文化を保全する方針を打ち出す。
1917年 バリ島南部大地震による死者・負傷者はそれぞれ1000名を上回る。

1918年 世界的に流行したインフルエンザがバリに

1919年 南部バリでネズミが大量発生し穀物の収穫量が激減した。

こうした災難をバリの人々は神々に対する儀礼をおざなりにしていたことに対する神の怒りとして捉え清浄化のために、バロンやサンヒャン・ドゥダリが盛んに行われるようになる。

1920年代 バリへの旅行熱が起きる。SINGARAJAーDENNPASAR間の道路が完成する。
1930年代 人類学者Margaret Mead とGregory Bateson,画家のMiguel Covarrubiasと Walter Spiesシュピースがバリを祈りの島として宣伝。バリへの旅行熱がいっそう高まる。1932年にはチャールズ・チャップリンがバリを訪れる。

1942年2月、日本軍が侵攻を開始。バリ島沖海戦の勝利を経て、20日でオランダ軍が全面降伏。
1945 インドネシア独立


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