サヌールでは毎日のようにベビーカー、ブガブーに一歳の娘を乗せてビーチに出かけた、朝に夕と行くこともある。ビーチまでの道沿いに土産物屋が立ち並んだ通りがあり、その中にカリマンタンから運んできた植物で編んだバッグを商う店があった。
いつもランニングシャツでバッグづくりに精をだす勤勉な親父で私は「カリマンタン親父」と呼んでいた。バリ人の年齢はわかりにくいが息子がウダヤナ大学の4年だというから40代の半ばと見てよいだろう、目が大きく精悍な体と顔つきをしていた。息子が可愛くて仕方のない優しい親父だ。
毎日その店に立ち寄ってはベビーカーを店の前に止めて親父と世間話をする、ときにはおやつを自転車で売りに来るおばちゃんからふわふわせんべいクルプックKerupukと水を買い店の品を眺める。
ある日店先にボルネオ(カリマンタン島)のビーズでカバーされた古い山刀が目に入った。ホコリだらけで黒ずんでおり模様がよくわからない。
「親父、これは刀なの」
「カリマンタンの山刀だ、20年前にカリマンタンのダヤック族から買ったものだ、抜いていいよ」
手に取って抜いてみると刃は見事に錆びている。ビーズも長年の塵埃で薄汚れているし、中の山刀も錆びている。しかし、そのビーズ模様といい、錆びたとは云えどことなく鋼の質の良さを感じさせる刀身といい惹きつけられる。
「洗ってみな、ビーズがきれいだよ。ビラに持ってかえり部屋に飾っときな。金はいつでもいいよ」
そう言われていそいそとビラに持ち帰ったら連れ合いが渋い顔をしている。
「なにそれ、きたないね」
「洗うときれいになりそう」
よく絞った布でビーズ部分を拭いてみると中から鮮やかな色が出てきた。ビーズの大きさは不揃いなのだが、陶器製の実に美しい色が埃のなかから現れてきた。かつて埃まみれのまだら茶の捨て猫を拾ってきて、こんな不細工な子猫はどうしたものかと思いながら洗うと、実に美しい漆黒と純白の毛並みが出てきて驚いたことがあった(ミルバの思い出)が、今回はそれほどではないが、その思い出を彷彿とさせる。
当初はダヤック族といわれても何のことか特に関心を持たなかったのだが、ベビーシッターのシシに聞いてみるとダヤック族はインドネシア人なら全員知っているくらい有名な部族だと言う。近年まで森の中で独自の文化と言語と生活習慣を守り、いくつかあるその村にたどり着くには山を越え、川を上っていかなければならなかったという。もちろん近年まで電気も供給されていない秘境だったという。今ではありふれた田舎の村になっているらしいが。ビラの壁に貼ってあるインドネシア地図でカリマンタンをみると大きな島に川がいくつも流れている、それをあのカリマンタン親父はカヌーでさかのぼって行ったのか。ビジネスとは言え、まるで冒険家だ。
お手伝いのシシはダヤック族と聞くと意味ありげな顔をした。1990年代に政府主導でジャワ、バリ島に集中した人口の分散と農地拡大の国内移民政策が行われた。マドゥラ族はカリマンタン島へ渡りカリマンタンの先住民族ダヤック族と衝突し1,000人以上が亡くなった。2001年に再衝突が起き500人のマドゥラ族が虐殺され、マドゥラは海軍の助けを借りて島を逃げ出し故郷の島へ帰ったことを手短に説明してくれた。
バッグ屋の親父は結婚前にカリマンタン島で1年3ヶ月滞在していた事がある。22年前のその当時は、川をボートで一日半漕いでやっとたどり着いたのだという。さらりと言うが相当に危険な旅だったであろうと思う。治安など求めるべくもないジャングル地帯を小さなカヌーで川を遡るのだ、兄弟でオランウータンの住むジャングルを野宿しながら数週間かけて進む旅で、しかもジャングルには首刈りで名を馳せるダヤック族が支配するエリアだ、カヌーには紙幣やコインが通用しないので物々交換用にTシャツや砂糖を大量に積んでいる、狙われたらひとたまりもなく殺されても痕跡すら残らない。
集落にたどり着くと一安心で既に顔なじみになっているダヤック族が迎えてくれる。彼らにとっても年に何回やってくるかわからないが彼らに貴重なものを運んできてくれる交易の手段だったのだろう。そのうえ彼らの特産である籠バッグを交換で持ち帰ってくれる。そのときに彼らとの交換で手に入れたものの一つがこの山刀だという。
そのころ観光客が訪れることなど無かっただろうから土産用に作ったものではない、現役の山刀をたくさん並べられて一番美しいこの山刀を手に入れたのだという。いわば命がけで交換してきた山刀なのだ。その交換の背景を想像しただけでも大事にしなければいけないと改めて思う。
親父は若い時に彼らと一緒に山でイノシシ狩りもしたという。吹き矢と弓あるいは山刀で大きなイノシシをしとめるには植物からとった毒薬を塗るがその毒の効果はものすごく、小さな吹き矢が刺さるだけでその場で昏倒するか、あるいは逃げてもすぐ近くで倒れているという。この毒薬は矢や山刀にも塗る、アマゾンの秘境でもそのような話を読んだことがあるが、似た話がカリマンタン島でもあったのだ。
ダヤックの山刀は鞘は木でできているのが一般的で、このようにビーズ編みでカバーされているものはダヤック山刀の中でも貴重品だっただろうと推測され、現在では入手不可能なものに違いない。
「私も事情が許せばカリマンタンにいたかったよ。」と親父はバリコーヒーを飲みながら話だした。バリコーヒーを私にもすすめたが朝既に飲んだので遠慮する。
「カリマンタンではビジネスが難しいの」と私が尋ねる。
「バリ人はヒンドゥだから他の土地に住むのは難しいんだよ。死ぬときはヒンドゥで死にたいからね。長い間他の土地に住んでいても結局バリに帰って村に受け入れてもらうことになる。それも生き方だけどね。人によってはダヤックと結婚するものもいる。私の兄貴がそうだ。もう住み着いて22年になる。兄貴がカリマンタンで仕入れてこちらに送り私が店で売っている。」
つまり親父の兄はダヤック族の女性と結婚したということらしい。彼の兄貴はもう長く住み続けて家庭を持ち離れることは出来ないのだろう。さらにはバリではもう受け入れてもらえない可能性もある。兄弟は同じバリ人だがそれぞれ生き方が違う、選択した生き方でそれぞれ苦労はあるのだ。親父は続ける。
「ダヤックの女は腰みのだけで乳房は出している。いい女が多いけど手を出したら大変だね。結婚するしかない。もし結婚を拒んで逃げるような事があれば相手の親や兄弟に首を切られてあげく食べられてしまう。」
親父は手刀で首を切るジェスチャーをし、「マカン」・・・インドネシア語で食べるの意・・・と食べる仕草をした。つまり彼の兄貴も同じ状況に立ち至ったのかとの思いがよぎるがさすがに確認は出来ない。
ダヤック族は20世紀初頭まで台湾の砂族などと同様、首狩り族として名を馳せていた。その名残だろうか。家族の娘に手をつけて結婚しない男は情け容赦なく殺されるという。いまでも世界中に残っている復讐談がここでもあった。元首狩り族なので当然だろうなと親父の話を聞く。
「ダヤック族はいい人だった。ビジネスはごまかさないし親切だ。男はものすごく筋肉が発達している。吹き矢で狩りをするんだが、彼らはコンプレッサーのような肺筋肉で100メートルも離れた獲物を倒すことができる。私もやってみたが全くとばなかった。あれは全身の筋肉でとばす。彼らの筋肉質な体だからできるのだね。」と親父は語る。
「100メートルってすごいよ。吹き矢で100メートルとは何かの間違いじゃないのかい。弓でさえそんなに飛ばないよ」と疑問を投げかけると
「うそじゃない。本当に飛ぶんだ。100メートル先のイノシシに命中するのを見た。さすがに100メートルも離れると刺さり方が浅いのですぐには倒れない。しかし毒が効いてきて30分後に近くで倒れている。犬が発見するんだ。」と親父は本当だと目玉をむいて強調する。「狩ったイノシシは村中でサテやスープにして皮以外はほとんど食べてしまう。豚に比べて脂肪分が少なくておいしい。」
「どのくらいの長さの吹き矢なの。」
「2メートルくらいかな。堅い木で直径2センチくらいのまっすぐなものの中をくりぬく。銅を熱しては押し当て熱しては押し当てしてゆっくりゆっくりと刳りぬくんだ。」なるほど見てきたから言えるリアリティーを感じる。
「狩りには弓矢と吹き矢とどちらを多く使うの」と私。
「吹き矢の方が多いかな。」弓もこのくらいあったよと両手を広げて見せる。
親父は立ち上がって古いポストカードを持ってきた。みると年配の女性が細工物を編んでいる。その耳をみると耳たぶがのびて20センチもある。ピアスの穴が伸びてのびて20センチに達している。50グラムのイアリングを小さいときから長年つけているとここまで伸びるという。長いほどよいそうだ。
ある日にいつもの散歩コースをビーチに向かうと、店には籠バッグ屋の親父がいた。
「このところいなかったね どうしたの」
「ウブドの近くのバツブラン村まで帰っていたんだ」
5年に一度の葬儀のためだというので何のことか分からない。よくよく聞いてみると次のような話だった。
バリでは亡くなると一旦埋葬する。その後5年たってから白骨化した遺体を取り出し火葬にするのだという。村中の火葬を一斉にするので150体ほどの集団火葬になる。何故そんなことをするのかと尋ねると火葬費用を節約するためだという。一回の火葬に20万円程度かかるので個人では大変な出費となる。集団で行うと一人あたりは割り勘になり当然安くなる。余裕のある家は個人で火葬にするのだという。
家族が白骨化した遺体を深さ1.5メートルの地下から掘り起こすのは数時間かかるとのことだ。その模様を籠屋の親父はリアルに説明してくれた。現代の日本人だとグロテスクに感じてしまうだろうが、この親父は村の祭りのダンスの振り付けを説明するように手振りを交えて淡々と述べる。その葬儀の珍しさよりも親父の淡々とした説明ぶりに感心してしまった。バリ人のメメント・モリは生活の中に自然に根付いている。5年というのは意味のある数字だと思う。熱帯のバリでは5年立つと完全に白骨化するのだろう。十分に白骨化していない遺体は火葬には適さない。
掘り出した白骨は神輿に乗せて激しく揺らして火葬場に運ぶ。日本の火葬場を連想すると全く異なる。いわば野焼きを行う。
「御輿が激しく揺れながら上下にぐるぐる回り始めたのは、死者の魂が戻ってこれないように惑わせる意味があった。葬儀=ガベンは祝うべき新しい旅立ちなのだ。」と「サムライ、バリに殉ず」 にあったことを思い出す。
続く