リクルート事件にからむエピソードのいくつかを記しておきたい。断片的であり、石原氏の寄稿文のように大胆な推測の話もあるが、こなれの悪い断片も集めると当時のNTTが伺える助けにはなると考えるからだ。
エピソード1。
長谷川寿彦氏は東京通信局長時代の1984年11月16日に東京で発生した地下ケーブル火災の対応に活躍して、その采配ぶりが当時電電公社総裁であった真藤氏の目にとまる。今風に言えば真藤チルドレンの一人だ。電話8万9000回線が使用不能になり、都市銀行オンラインネットワークが停止するなどの大事件となり港区にあった第17森ビルのオフィスで新聞報道の切り抜きサービスに目を通しながらやきもきした記憶がよみがえる。火災発生9日後には火災障害は終息した。
その後長谷川氏はNTTデータ通信本部長に就任し、堂島電電ビルの一階受付前のフロアに社員が集められて訓示を受けたが当時は氏の絶頂期でなかなか颯爽としていた。それまで赤字続きでNTTの収益面で重荷になっていたデータ通信事業を立て直すための抜擢であったと思う。
式場英・元NTT取締役は長谷川氏と並びやはり真藤チルドレンの双璧で、企業向けマルティメディア営業のスター的な存在であった。当時の業界関係雑誌に登場しないことが珍しいほどNTTの法人向け営業の顔であった。
1985年真藤氏に重用され最年少で役員になった長谷川取締役が1985年頃だろうか、NTTデータの初代社長含みでNTTデータ通信本部長として着任してきた。堂島センターの入り口ロビーに職員を集めてのあいさつを私も聞いた。週刊文春だったかで東京通信局長時代のうどん屋の女性との問題を取り上げられる。失脚するのとリクルートで有罪になるのとどちらが早かっただろうか。
真藤氏は石川島播磨から1981年に電電公社総裁に就任したときに電電語を話すなと訓示したことはつとに知られている。総裁就任直後に社内略語でそのままレポートされてイライラしたことで発したものだろう。100万円を「1円」と呼びならわす習慣は同じ社宅に住む知人の口からよく聞かれた。(なんだか得意げな感じも受けた)戒名というのは電電公社が建設勘定でおこす建設工事のすでに完成した工事名の事を指す。おもわずぶっ飛ぶようなネーミングだが1986年当時データ通信本部でこの工事管理システムを担当した時にもまだ残っていた。
おなじく真藤氏が総裁に就任した頃、電柱工事やとう道(通信ケーブル用のトンネル)の工事でよく気の毒な死亡事故があった。記憶は薄らいでおぼろだが線路工事部門の職員のあいだでは今日は「何人ころした」といった表現がまかり通っていた。つまり本日の死亡事故数を言っているのだが、この表現を聞いた真藤氏は怒り、厳しく禁止した記憶がある。電電公社でとう道工事のロボット化を進めたのも真藤氏だと電電公社社内誌「施設」か同「技術ジャーナル」で読んだ記憶がある。こうした電電語を話す幹部の中で長谷川氏や式場氏のような新しいタイプの人材が抜擢されていったのだろう。
エピソード2。
北原安定氏は日本の巨大な通信産業を電電ファミリーとして完全に抑えていた。NTT調達の通信機器の納入には東芝、松下といった家電大手も一切参入できず日本電気、日立、富士通を御三家とした電電ファミリーと呼ばれるメーカーが占有していた。北原安定氏はこの巨大電電ファミリーのトップに君臨し、電電ファミリーの名のもとに国産メーカーを擁護し米国の産軍複合体の日本参入を阻止していたと思う。
時分割多重装置などは日本メーカのお手の物の装置であり、これが米国製を日本ダイレクト社を通して購入するようになったのも北原氏が敗れた結果と言える。そしてこれが中曽根政権の貿易均衡への一環となっていった。田中失脚は北原失脚となり、中曽根、真藤ラインはレーガンと組んで米国製スパコンや米国製料金システムの導入、米国製時分割多重装置を納入する日本ダイレクス社の興隆へと繋がっていった。
これに対して中曽根氏や真藤氏は米国からの製品導入で貿易摩擦を解消し米国との蜜月をつくり出そうとした。真藤氏と北原氏の初代社長争いは電電ファミリーと米国と日本の新たに参入したい企業群の戦いの様相を呈してくる。財界主流は電電ファミリー以外の声が強く後者を支援したと推測している。北原氏は日本の電気通信産業界を当時としては最大効果のあるやりかたで牽引してきた。
NTTのネットワーク部長などを歴任した石川宏氏が情報通信学会発行のマガジンで、氏が入社当時に日本には軍産複合体が無いので電電公社がその任を負うのだと先輩から言って聞かされる逸話が紹介されていた。
そうしたなかで降って湧いたように北原安定氏の自宅購入に絡む脱税記事が朝日新聞に載った。当時世田谷区中町にあった電電社宅でこの記事を見て驚愕したことを記憶している。一体だれがこの些細なうっかりミスに近い脱税記事をリークしたのだろうか。この記事をきっかけに近畿通信局不正事件が起き南町奉行事件へとつながって行った。しかもこの南町奉行事件はしりきれ捜査に終わっている。南町奉行事件などは全電通接待のために裏金を作るという名目で巨額を遊蕩していたが、体験的に十分あり得ただろう。
ロッキード事件は1976年(昭和51年)2月に明るみに出た。田中角栄首相が戦闘機の機種選定にからんで数億円を受け取ったとする汚職事件で、次期総裁に北原安定氏を押す田中首相の失脚で一気に外部から総裁を招き入れる声が強くなる。さらに1985年の民営化の際にも田中角栄氏は初代社長に北原安定氏を推すが、その田中角栄氏も中曽根氏と財界が強く推す真藤氏の初代社長就任を興銀の中山素平氏を訪れて応諾したと中曽根氏の回顧録にある。北原氏と全電通の山岸委員長は民営化に反対で、山岸氏は民営化では折れたが分割には断固反対だったとある。結局最後まで民営化反対の北原氏は中曽根総理大臣の時代が到来し、角栄氏の闇将軍の戦いで敗れたということになる。
1978年から1979年にかけてカラ会議やカラ出張あるいは一般人にはなじみのない特別調査費という勘定科目で十二億余万円もの裏金をねん出した金を組織的に金をプールして全電通への接待や部内外幹部への飲み食いに使っていたという大事件で、南町奉行と称する社内の人物なども紹介され、連日賑やかに報道されていた。実際にはこの事件が電電公社の総裁を外部から迎え入れる世間の空気を一気に盛りあげる役目を果たした。真藤氏は1981年に同社出身の土光敏夫名誉会長(当時)に請われ、北原氏を押さえて旧日本電信電話公社総裁に就任が決定した。
後年、石原慎太郎氏が月刊誌「文藝春秋」へ寄稿し、その記事の中でロッキード事件と田中角栄氏に触れ、その事件の背後にある米国の陰謀を匂わせる内容を書いていた。CIAから対日本工作にかなりの金が出ていたとも記していた。田中角栄氏は死ぬまで「自分は(対米追随派に)はめられた」と考えていたらしい。前述の変化は石原氏の指摘と矛盾しない。
エピソード3
真藤氏に重用された企業通信本部長の式場取締役もリクルート事件で失脚する。このころ日経コミュニケーションズなどの業界雑誌に式場氏の名前が載らないことはなかったくらいで、NTTの企業向け営業の顔として活躍していた。後年私が新電電の一社に転職し、式場氏がリクルート事件で有罪判決を受けた後に何かの折に上司のGさんの縁で式場氏の事務所を訪れたことがある。新橋の煉瓦通り沿いにあるビルの一室にひっそりとした事務所を構えていた。長谷川氏、式場氏とも失脚後リクルートが面倒を見ていた。長谷川氏はリクルートアメリカで、式場氏はコンサルタントとそれぞれ次のステップに移っていた。
エピソード4
1989年までNTTに在職したが、気になっていた事がある。1985年当時管理職の末端につらなったが、その年の暮れ、冬のボーナスが出たころ、よくわからない金を拠出した。会ったこともない人から電話があり、管理職は任意で金を拠出することになっている。職場に集金に周るから準備しておいてほしい。その趣旨の説明もなく、拠出を断る管理職はいない、と面倒くさそうに高圧的にしゃべり、その電話だけでは金を拠出する目的などは皆目わからなかった。管理職の親睦会のようなものかと理解したが釈然としなかった。そのうち見知らぬ人が職場に現れ、集金にきたのでたしか5000円程度だったか手渡したが、領収書もなければ、趣意書もない。新米の課長で、言われるままにしていたがなにやら胡散臭い気がしたものだった。
1989年当時の国会会議録にボランティア基金という言葉を発見した。リクルート事件と共に議論されていて、その中の質疑で質問者の発言に「3年で8億円を集めた」とある。当時のNTT管理職は3万人だったので、一人あたり平均1万円弱ということになり、ランクの高い管理職は高額を、私のような末端の管理職は5000円とするとなるほど計算は合う。
国会審議の中でもこの金の拠出はボランティアということで結局、この資金の解明は不問に付されたようだ。当時は真藤NTT社長が政界工作に使ったのかとぼんやりと考えていたが、出納帳など仮にあったとしても闇に葬られてしまっているだろう。誰かが集金の途中で抜いても追及のしようがない。NTT2代社長・山口開生氏の国会答弁はボランティアで誰かがやったことであずかり知らぬということで押し通している。8億円は政界資金としては大きな金だろうが全く足のつかない金として重宝されたことだろう。筆者も当時NTTの課長になりたての頃に得体のしれない献金を拠出したので記憶に鮮やかだが。私の経験上の実感と山口開生氏の回答にはずれを感じる、これなどは闇に葬られていく事件のひとつだろう。筆者の経験上の実感と山口開生氏の回答にはずれを感じる。
国会速記録1 (参 - 逓信委員会 - 3号 平成01年03月28日)
○山中郁子君 電通協ないしはボランティア基金から一億円のお金が出されたと 。亡くなられた参議院議員に対する献金として自民党の福田幸弘さんをめぐるNTTのいわゆる企業ぐるみ選挙 でNTTが電通協に対して賛助団体として年間二千万円のお金を出しているということを児島副社長が答弁の中で認めていらっしゃるわけです。
国会速記録2 (参 - 法務委員会 - 2号 平成01年03月28日)
○橋本敦君 NTTが幹部職員からボランティア基金と称して八億円の政界工作資金、これをつくっていた。
国会速記録3 (参 - 予算委員会 - 5号 平成01年03月31日)
○参考人(山口開生君) 一般の世の中のおつき合いの一つとしまして、政治方面との儀礼的なおつき合いとか、あるいはボランティアの有志の諸君が自分たちの仲間意識から身内の者を支援したい、こういった考えから相談し合いまして、ボランティア活動として資金カンパをしたものだというふうに聞いております。
ボランティア資金の流れは結局闇のなかに埋もれることになった。山岸氏が委員長時代に全電通の事務局が起こし、津田委員長のときに発覚した生命保険会社事件がある。これも巨額の金が闇に消えている。新進党の政治資金になったとかのうわさもあるが闇のなかである。電電公社民営化の流れには政治と金の裏舞台がありそうだが果たして開明される日がくるのかどうか。
エピソード5
田中角栄氏の後を継いだ中曽根首相と米国レーガン大統領はロン、ヤスと呼び合う蜜月関係を作り出した。米国のシンシナティーベルから電話会社運営の基幹システムソフトの導入を決めたのもこの頃でこの「CUSTOM」の開発がもたつきをみせたのは真藤氏の辞職と関係があると思う。強力なリーダシップで導入を決定してもこうしたシステム開発は数年にわたることが多い。リーダが不在になると途端に息切れが始まる。あるいは現場の業務の流れを理解していないとの強い反対があり大幅な仕様変更を迫られたためだとも考えられる。最後まで完成にこぎつけた結果は当初のシンシナティーベル仕様とは相当かけ離れたシステムではなかったのか。かつてNTTのシステム開発に携わった経験から、当初から「シンシナティーベル仕様」の導入などは必要なかったのではと考えている。
NTTデータ通信本部在職時に真藤イズムの一環としてソフトウェアのモジュール化の推進が言われた。造船の製造工程からの類似の考え方からくる製造工程の合理化手法だった。真藤イズムのモジュール化以前から銀行システムでこの考え方のもとにいくつかのものが開発導入された例があるが、システムのモジュールでこの手法が実を結んで開発合理化の実を結んだとの記憶はない。理念は正しいが、現場のオペレーションが追い付いていないときの進み過ぎた理念は害になることがある。モジュール化の推進と米国礼賛が結びついたのが「シンシナティーベル仕様」の導入だったのだろう。
NTTの資材調達については随意契約を原則廃止して必ず入札を行うように法制化したのもこの頃か。1973年(昭和48年)GATT・東京ラウンドがスタートし、GATT協定が採択される。、1981年(昭和56年)1月より、GATT協定に基づく調達方式をトラックⅠ、日米取り決めに基づく市販品ベースの電気通信設備の調達をトラックⅡ、開発が必要な電気通信設備の調達をトラックⅢとし、「オープン」「公正」「内外無差別」をうたった調達手続きがスタートした。真藤氏が総裁に就任した時期と符合する。(2001年(平成13年)7月をもって完全に失効した。)
このあたりの話は米国政府と日本経済界主流派の暗闘にも見えあるいはそうでないかもしれない。米国政府の規制緩和を推進するパワーで通信業界が競争状況になり、料金が引き下げられたことも事実である。しかし日本メーカーの凋落を促したとの考え方も出来ないことはない。真相はもっと時間がたたないと見えてこないのかもしれない。
エピソード6
電電を分割する必要はないと全電通委員長・山岸章氏は主張したが真藤恒氏が山岸氏にとにかく民営化だけは認めろと説得して山岸氏が折れ、次いで田中角栄氏が初代社長に真藤氏が就任することを承知することで副総裁の北原安定氏が孤立し民営化と真藤社長が実現した。『自省録・歴史法廷の被告として』 中曽根康弘 新潮社
北原安定氏が1960年代の終わり頃に千葉の電電公社保養所にこもってデータ通信本部設立の起草を練った話を筆者20代の頃の上司から何度も聞かされた。この時に北原氏の頭には国策として国産コンピュータの発展を願っていたことは間違いない。(この国策には国防と言う意味合いが非常に強いのだが)
この国産コンピュータ開発の例からもNTTの研究開発力というとき、単にNTTの通信研究所だけではなく巨大な電電ファミリー全体が米国の軍産複合体に性格の似通った研究開発機構として機能していたということになる。従ってNTT通信研究所自体も世界的レベルであるが、電電ファミリーの研究開発力も合わせたものがNTTの研究開発力とみなされ、実態よりも一層巨大に映り、又重要性の認識も実態以上に大きなものに世間には映ったものと思われる。(通研の実力を否定しているわけではない)NTTの研究開発力を冷静に議論するときは電電ファミリーの開発力を分けて考える必要がある。
通研は中曽根氏も全国的ネットワークと同様に保存する必要を感じていたと回顧録で述べている。つまり彼は民営化賛成、分割反対であり、工事部門やデータ通信部門を切り離せといっていた。工事部門の切り離しは昨今のラストワンマイル会社切り離しとは似て非なるものである。この工事会社切り離しはNTT系列会社として行われたがもっと徹底した分離が為されていれば地域独占の弊害をなくすことができた可能性がある。中曽根氏の先見性は工事部門の子会社化という中途半端な形でお茶を濁されたが、このアイデアをもっと徹底して地域独占の弊害打破にいたるまで形を追求していればと思うと残念であるが、当時はだれもこのアイデアの素晴らしさに着目をしていなかったし、現時点でもそうである。
エピソード7
情報産業労働組合連合会(情報労連、津田淳二郎委員長、約二十七万人)傘下のNTT労組組合員らが加入する年金共済の保険料約六千人分、約三百億円が加入者に無断で解約され、商品先物取引などに投資されていたことが十四日、読売新聞社の調べでわかった。解約金は五年間、大手投資会社で運用し、積立先の東邦生命保険(昨年六月破たん、GEエジソン生命に事業譲渡)に戻される約束だったが、解約から七年たった現在も戻ったのは85億のみで大半の回収が滞っている。情報労連側は、別の金融機関から三百億円近くの融資を受けて一時的に積み立ての穴埋めをしている。2000.12.15 読売新聞
そうか津田元情報労連委員長の突然とも思える辞任はこのことと関係があるのかもしれないなと思う。