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まさおレポート

草創期のNTTデータ2 国産主義(7015文字)

 

 

1960年代当時の日本の巨大な通信産業を電電ファミリーと称して電電公社は支配下に置いていた。北原安定は電電公社の技術系経営陣として大きな力を持っていた。電電公社調達の通信機器の納入には東芝、松下といった家電大手でさえも一切参入できず日本電気、日立、富士通を御三家とした電電ファミリーと呼ばれるメーカーが占有していた。

北原安定はこの巨大電電ファミリーの実質的トップに君臨し、電電ファミリーの名のもとに国産メーカーを擁護し米国の産軍複合体の日本参入を阻止していた。既に世界的一流家電大手となっていた東芝、松下でさえも一切通信機器に参入できなかったことは民需レベルの技術では通信事業では使えないという強固な信念のあらわれだろう。

北原安定は1966年に電電公社施設局長としてデータ通信サービスの認可を受けるために千葉の保養所でデータ通信事業の計画を練っている。(こうした泊まり込みの作業はカンズメと称されて、集中的な作業が必要なときによく行われた。平塚清士からデータ通信本部設立の起草を練った伝説的逸話を何度も聞かされたものだ)

1967年8月には電電公社で新たにデータ通信事業を行うため技術系6専門(交換、無線、搬送、電信、線路、土木)の各分野から全国的に若い人材が集められた。当時の施設局自即データ通信網設計室地銀システム担当に異動すると集まった4人に米沢威行.、平塚清士両氏から訓示があった。今から読めば「言うなれば、真珠湾攻撃を行うと同じである。君達は特攻隊として死ぬつもりで働いてもらいたい」は劇画的であるが平塚清士は本音で語ったのだろう。

コンピューター事業は、今IBMが全世界に事業拡大を行っている。IBMのなすがままにしておけば、日本のコンピューター事業は席巻される。次に通信事業も侵される。ひいては日本の家電製品もそうなるかもしれない。コンピューター事業は大きな資金が必要である。IBMの侵略を水際で阻止するために、電電公社は立ち上がった。言うなれば、真珠湾攻撃を行うと同じである。君達は特攻隊として死ぬつもりで働いてもらいたい。

その後この電電公社施設局チームは地銀システムと呼ばれることになる全国地方銀行協会システム(ACS、1968年稼動開始)で他銀行間決済・交換業務バッチ処理を開発する。群馬銀行も同年にコンピュータシステムサービスを開始し電電公社施設局チームは開発の経験を積んでいく。

1966年にデータ通信サービスの認可を受け1967年にデータ通信本部を設立した年に当時分類上は地方銀行だが都市銀行の埼玉銀行などよりも規模の大きい横浜銀行のオンラインシステムの受注に成功している。

開発チームのリーダーには北原安定の信任が篤い平塚清士がついた。前章で17歳の少年時代の平塚清士が理研で活躍する姿を記したが、その後陸軍に召集され敗戦を迎えて電電公社に復帰し既に30年が経っている。全国への自動即時網は当時の電電公社の悲願であり、その中心である施設局でその一端を独特の個性と頑張りで担ったようだと伝えられている。

強烈な愛国心と独創性や感、頑張りに7歳年長の北原安定が目をつけたのだろう。以降北原安定、米沢威行の両氏が味方の少ない平塚清士の後ろ盾となり横浜銀行オンラインシステム開発へと進んでいくことになる。当時の先輩は次のように述懐している。

平塚さんを取り巻いていた人々以外には味方はいなかったのではないかと思います。北原さんー米澤さんー平塚さん・・・この直線的な太いパイプがすべてであったのではないかと思います。

デ本初の本格的オンラインシステム開発となる横浜銀行オンラインシステムは全国地方銀行協会システム開発に携わった施設局の若手(多くは大学卒業後数年)が中心に据えられた。彼らは蒲田にあった富士通のラボに日参して研修を受け短期間でオンラインシステム開発技術者に仕立て上げられた。

当時の先輩に借りた1968年発行の「電子計算機リアルタイム—システムの設計・管理・運用 (1968年) ジェームズ・マーチン著北原 安定訳」には赤線がびっしりと引かれいたるところにメモが書き込まれてあり、懸命に学んだ後が偲ばれる。この本を熟読することでオンラインシステムの開発を行ったのだ。

1960年代半ばから大手都市銀行で始まった本店・支店を結ぶ銀行業務のコンピュータ化及び通信システムとの融合は後年第一次オンライン化の時代と呼ばれ、当時第一次オンライン化を終えていた都市銀行のオンラインシステムは日本IBMがほぼ独占していた。

第1次オンラインシステム - 1960年代半ばに構築 勘定系システムの構築。本店と支店のオンラインによる結合。左記による現金自動預け払い機(CD)での預金の預け入れ・引き出しの実現。自動引き落しサービス、振り込みサービスの提供など。1965年5月、三井銀行(現:三井住友銀行)で日本初のオンラインシステムが稼動。

IBM 1410とIBM 1440をそれぞれ二重化したシステムであった。1960年代終盤には他の都市銀行がこれに追随した。地方銀行、相互銀行、信用金庫がオンラインシステムを導入するのは1970年代に入ってから本格化した。by wiki

第一次オンライン化は勘定系システムと呼ばれる普通預金や為替など単一科目処理をなんとかオンライン端末とホストコンピュータで処理して銀行窓口業務の逼迫を回避しようとする目的で計画された。

現金自動預け払い機(CD)での預金の預け入れ・引き出しの実現。自動引き落しサービス、振り込みサービスの提供なども主たる目的であった。

オンライン化が進む以前は通帳で金の出し入れをするために同一銀行でも他店では金を引き出すことはできなかった。もちろんATMや現金自動預け払い機(CD)で金をおろす事も入金することもできない。自動引き落としもできなかった。そして機械化ができていないために現金のチェックも大変だった。行員は1円でも現金が合わないと合うまで残業させられたという話が当時の横浜銀行の行員からも聞かされた時代だった。

1円でも現金が合わないと合うまで残業させらたというのは過去のものかと思っていたが「教えてgoo」には現在でも次のような回答が寄せられている。一応残業にはなるらしいがめったにないほど改善はされているという。

確実に残業にはなります。差異の原因がわかるまでは帰れません。帰れない雰囲気になります。とはいえ、今の時代、お金を数えるのも出し入れするのも全て機械ですから、そうそう差異は出ませんよ。(教えてgoo)

今にして思えば当時の電電公社は自信過剰ともいえる新規事業への進出だったと思う。コンピュータの経験皆無の会社がシステム開発業務に乗り出すのだ。資金力は全く問題ないがシステム開発の人材はにわか仕立ての地銀・群馬銀行経験者のみという状態だった。結果的には電電公社の豊富な資金力と富士通をはじめとするメーカ技術者が張り付いての全面的バックアップ、未経験ながらレベルの高い若い職員の旺盛な知識吸収力でなんとか開発を成功させた。

当時のデ本でもIBMなど経験豊富な他社から開発経験の豊富な中心人物を引き抜いてくることや有力なシステム開発会社を子会社化することなどは考えもしなかった。明治以来の電話技術で培った富士通・日電・日立をはじめとする国産メーカーに対する巨大な購買力を源泉とするファミリー支配力と、通信技術設計の経験、電話系の優秀な人材を抱えているという自信、それに米国に負けるものかとの敗戦の屈辱がバネになっていた。

NTTのネットワーク部長などを歴任した石川宏が情報通信学会発行のマガジンで、氏が入社当時に日本には軍産複合体が無いので電電公社がその任を負うのだと先輩から言って聞かされる逸話を紹介している。

当時の上役平塚清士からも同じことを常日頃から聞かされた。北原安定のもとにふろしきに説明資料を包み、日比谷の本社まで近況説明に伺う姿が脳裏に残っているが、北原安定と平塚清士はいわば敗戦の屈辱と復興の意気ごみで強固に結びついていた。

データ通信システムの機種選定には国産コンピュータそれも富士通のみを使う生粋の国産派となるのは流れから当然であった。機種選定の候補にIBMでも提案しようものなら徹底的に絞り上げられた。

1967年に富士通はIBM360互換の国産大型機FACOM 230 60を完成している。このことも北原安定がデータ通信事業に乗り出す動機のひとつになったのではなかろうかと推測している。平塚清士も横浜銀行システムにFACOM 230 60を選定している。(富士通の伝説の開発者池田敏雄の存在が北原安定の決断にどう影響したかはいまだに明らかではない。平塚清士の口から池田敏雄の話を聞いたことはないが)

1959年に富士通社長に就任した岡田完二郎はコンピュータに関心が強かった。池田敏雄は1961年にトランジスタを用いた大型コンピュータFACOM 222Aを完成、1962年に岡田はコンピュータ事業に力を入れ始め、1967年にFACOM 230 60を完成している。 世界初の2CPUを実現した。

平塚清士がチームリーダとして横浜銀行システム開発を完成させたことでその後データ通信事業本部の中心的存在になったのではと思われるだろうか。しかし宮仕えの運命はそう簡単ではない。横浜銀行システム開発でチームが総裁表彰を受けるほどの名誉に預かり、氏も50歳になり調査員からようやく調査役に昇格するが、その後の処遇は不本意であったようだ。デ本にも40代の若手管理者が氏の上役に付き、50代の氏の考え方が受け入れられなくなってきた。眞藤恒が総裁につき北原安定の影響力で抜擢された氏が唯一の後ろ盾をなくしたことも考えられる。あるいは年齢的にも燃え尽きたのかもしれない。

平塚清士はコンピュータ選定で強固な国産推進派なのだがなぜか電電公社仕様のDIPSは嫌った。横浜銀行システム開発のあと電話帳印刷システム(電電公社社内システム)の開発を担当することになったがそのときは日立製DIPSを使うよう電電公社上層部から強い圧力が掛かっていた。日立製DIPSとはどういうことか、DIPSは電電公社仕様ではあるが富士通、日本電気、日立の大手三社がシリーズ別に製作を担当していたのだ。このあたりも平塚清士がDIPSを嫌った理由ではないか。つまり競争力のない馴れ合い的な国産は嫌ったのだ。

平塚清士は富士通のコンピュータシリーズを採用する意向であり日立製DIPSを採用しての開発には全く乗り気では無かった。もっとはっきり言えばサボタージュすれすれの抵抗をしていた。このあたり平塚清士はサラリーマンの範囲を逸脱している。富士通の伝説の開発者池田敏雄も奇人で鳴らした人物だが突破口を開く人物には大なり小なりこの種のタイプが存在する。「北原さんー米澤さんー平塚さん・・・この直線的な太いパイプがすべてであったのではないかと思います。」が切れてしまい良くも悪しくも新しい人材が育ちつつあるデ本で平塚清士にとっていこごちの悪い時代だった。

サボタージュすれすれの抵抗とはどういうことか。平塚清士は58歳の定年を迎えるまで6年間電話帳印刷システムのソフトウェアの開発には一切着手せず、その間電子写植機や日本語入力装置等の周辺機器開発に自らとスタッフを駆り立てていた。それも装置の技術的な開発は富士通が行い、もっぱら人名漢字の研究と漢字入力装置の研究ばかりをしていた。理研当時の好きなことに没頭する技術者魂を思い出していたのかもしれない。

諸橋大漢和辞典が15巻揃えられた。電話帳に出現する人名と漢字をスタッフが明けても暮れても調べている風景はNTTデータ本部の仕事では極めて異色で、さながら人名研究所の趣であった。又、電子写植機や日本語入力装置等の特許取得に全力を注いでいた。人名と漢字の研究では今から見ても有意義な文献を創出したが誰もその意義については着目せず地下の倉庫に眠ったままその後散逸してしまったようだ。

結果的に平塚清士のDIPS嫌いは正しかったことになる。電電公社仕様コンピュータDIPSは1991年に姿を消している。横須賀通信研究所を通じて膨大な開発投資が富士通・日立・日本電気に流れたのだが、現在から見ると国産大型コンピュータはさえないことになっている。電電公社の国家的視点の国産大型コンピュータ開発は失敗した。

DIPSは国産三社が電電公社と協同で開発したシリーズだが「こうした形での開発では世界的レベルのコンピュータは出来ない」と平塚清士は考えていたのではないか。なにより寄り合い所帯の開発であり競争の中で生まれてくる緊張感が欠けていては世界に互するものは開発できないと考えていた。少しは横須賀通信研究所に対するライバル意識もあったようだ。

通信システムは国防上極めて重要なインフラだとの訓示に対して「少し大げさなのではないか」と心中苦笑いしていた部下も多かった。もちろん私もその例に漏れなかった。だが後年米国に信号網接続の調査で出張した折、米国の通信会社を中心に話を聴いて回ったが、その中で異質な感を覚える調査対象機関があった。

米国国家安全保障局と言ういかめしい名を持つ機関を上記調査の一環として訪れたのだ。トムクランシーのシリーズを愛読されている方にはなじみの深い機関でCIAとともに対テロ情報危機管理機関としての最重要機関のひとつだ。

対面した担当者は「米国国家安全保障局が全米の電話通信システムの信号網ネットワークをコントロールしている」といった。もとより日本にそのような類似の組織は無いので格別の違和感と驚きを覚えた。しかし米国はのちのインタネット繁栄の基礎となった著名なアルパ計画でもわかるとおり、通信系の安全は国家安全対策上極めて重要視しており、通信会社を結ぶ信号網を国家統制化に置くという考えは至極当然の対処であったのだ。

通信システムが国防上重要であり国家的対処を信号網という点に着目して対処した米国と、平塚清士の信念は今日的なファーウェイ問題を見ても通じていると思わざるを得ない。

当時の国産主義は平塚清士のみならず電電公社や日本全体の空気でもあった。データ通信本部発足時の熱い思いと日の丸半導体は連動していたことも記しておきたい。

1975年には、電子化された交換機などに利用する通信用超LSI開発プロジェクトが電電公社でスタートし富士通、日立、日本電気3社が電電公社の武蔵野電気通信研究所に集結した。

コンピューターや電子交換機の性能向上には高度に集積化された半導体が不可欠で、特に記憶機能に特化したLSIであるDRAMの大容量化が重視された。ここで開発された容量64キロビット、128キロビットのDRAMは、その後の日の丸半導体の牽引車となる。

特定の産業を戦略産業に位置づけ、そこに政策手段を投入する。当時の日本にはダイナミックな産業政策があった。役人にも、経営者にも鉄鋼などに代わり、産業の主力となりつつあった半導体産業を育てようという気構えが電電公社にもみなぎっていた。

IBMに対抗するため、集積度の高いLSIを作るという明確な目標が官民を一体化させ製造装置や材料開発などに集中することで日本の強みに生まれ変えようとの機運があった。日本の基盤は情報通信、情報通信の基盤はコンピューター、コンピューターの基盤は半導体という認識が電電公社をはじめメーカー、国にも共有されていた。

半導体事業を手がける総合電機メーカーは多額の資金を投入することができるようになり、設備の更新を繰り返すとともに技術革新を推し進めた。そうしてできた良質で安い半導体がテレビやヘッドホンステレオ、VTR、パソコンなどに搭載され世界中で使われた。半導体と家電製品は相乗効果を生みながら、世界を席巻していくことになる。日の丸半導体は国内市場の9割超を独占し米国市場をはじめ世界を制した。

次回は平塚清士が横浜銀行チームを具体的にどのように率いていったのかを眺めてみよう。

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