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まさおレポート

草創期のNTTデータ3 職場の風景 5011文字

 

 

1970年当時のデータ通信本部は港区の愛宕下通りにある虎ノ門第17森ビルにあった。統括部や第一から第三データ部が入り、第一は公共システム、第二は銀行系、第三はDORES DEMOSと略称された共同利用型システムを扱っていた。(41森ビルには社内システム部が入っていた。)いずれも今は跡地に神谷町MTビルなど新ビルが建つ。

データ通信本部は13階から16階までを占めていて私は13階フロアにある第二データ部に他の新人3人と共に配属された。近くに特許庁があった関係か大きな特許事務所が入っていて、いつもその階でエレベータの扉が開くと鈴江特許事務所の看板が目に入った。その後神谷町にある41森ビル(1993年3月に神谷町MTビルとして新築されている)に移るまで4年ほど勤務した。

横浜銀行システムの開発センタが横浜桜木町にあったので正味の滞在は意外と少ないのだが17森ビルオフィスは思い出が多い。近くに特許庁がある関係で途中のエレベータの扉が開くと鈴江特許事務所の看板が目に入った。

通勤はJR新橋駅から左手にお持ち返りの寿司店、かわきもの専門店、漬物店を見ながら烏丸通を歩く。愛宕下通りを左に曲がると第10森ビル、藪蕎麦などを右に見ながら数分で虎ノ門第17森ビルに着く。お持ち返りの寿司店、かわきもの専門店などをなぜ今でも記憶しているのかと思われよう。当時はなにかと社内で飲み会を催し、そのたびに最若手はこの店で買い出しを仰せつかったためだ。

このビルを通り過ぎてさらに行くと愛宕神社がある。愛宕神社は三代将軍・家光の時代に「寛永三馬術」の一人である曲垣平九郎が男坂を馬で登ったという伝説がある急峻な石段があり男坂と呼ばれた。桜の季節など昼休みに階段を登り、東京で最も高い山(といっても26メートル)の頂から一帯を眺めた。テレビ放送発祥の地でもある。

虎ノ門第17森ビルの斜め向かいには蕎麦の名店「志な乃」があり、一杯800円だった。玄くて硬く太く打った田舎風の蕎麦で量も2人前くらいあった。この店で蕎麦の旨さを教えてもらった。店の入り口に店の主人が年に一回蕎麦粉を求めて日本中を旅すると張り紙がしてあった。けんちん汁と合わせて食べることも多かったが、太くてつるつるしたうどんとのあいもりもうまい。

この店で出すお茶に特徴があった。最初は煎茶がでてくる。食べ終わって抹茶いりの濃い茶が出される。このコンビネーションがじつによかった。給料日に楽しみにして出かけるのだがこの店は12時丁度に行ってもいつも店の前に10人程度が並んでいた。蕎麦好きの男たちにはたまらない店だったのだろう。月に一回(20日が給料日だった)行くときは11時45分頃から行き並ぶのを避けた。

その後この「志な乃」店は閉店したと人伝手に聞いた。

愛宕下通りの一本西側の通りには民社党の本部がありそのあたりに小ぶりだが備長炭で焼く焼き鳥屋があった。店のたたずまいやつくねにかける七味の黒コショウまでがその店の看板娘の面影とあわさって立ち上がってくる。

日本たばこ支店、愛宕下通りの陸橋、慈恵医大の玄関、港区図書館の貸出用クラシック音楽テープ、日比谷図書館、新橋の鉄なべの匂いが懐かしいもつ鍋屋、ニュー新橋ビルの一階にあったオーディオスピーカ専門店等々が懐かしい風景として甦る。

デ本はコーヒー好きの多い職場であり、私も日に5,6杯は軽く飲んでいたのではないか。いつでも飲めるようにコーヒーメーカーでコーヒーをたてており、その豆の買出しのために卸と小売りを営んでいる交差点角の店まで買い出しにき、店の前にたつと炒りたての豆の香ばしい匂いがした。

蕎麦屋やコーヒー豆、焼き鳥屋などを書き記すのは、当時の緊張感のある職場(今風の見方によればブラック企業かもしれない)ではこうしたことや時折ある研修的な出張が大きな救いとなって厳しい日々を送ることができたことをお伝えしたいためだ。平塚清士はぎりぎりまで部下を追い込むが肝心のところでは古き良き時代の救済ポイントを心得ていた。

当時の先輩の次の述懐はその当時のブラック企業風な様子をリアルに伝えてくれる。

役員会でめちゃめちゃな勤務が問題になっている。当時はまだシフト勤務はなく、本社(本部)は常日勤勤務でした。それが昼も夜も自分たちで勝手に時間を決めてやっている。労働協約無視、就業規則無視です。

古き良き時代の救済を心得ていたことは先輩の次の述懐でもよく伝わってくる。

一方で大変細やかな気遣いもされる方でした、ちょうどこの時期、いろいろとあった時にお心遣いを頂いたり、またお宅にお邪魔したこともあるものですから、私は平塚さんを厳しい人,こわい人と思っていたのですが妻は優しい人と思っていた様です。

隅々まで目配りが感じられる先輩の述懐も紹介しておく。

浜銀の事務所の守衛さん達には我がチームの仲間が遅く帰るために多少のご足労を仕事柄とは言えお掛けしていた。お盆と正月には守衛室への寸志(お酒等)を届けるように若い私に話してくれた。いうなれば舞台ウラの一幕ではありますが。

17森ビルの地下は電電公社デ本の社員食堂で新入りは午前中の10時頃にはチーム全員の昼食の注文をとり食券を買いに行く。赤や緑、黄色のプラスティック片にはA定食やB定食などと彫りこまれており昼食までに全員に渡しておく。高くても300円台で周りの店で昼食をとると倍近くはしたから安かったのだ。ほとんどの職員が遅くまで残業していて夜食代は捕食と称して会社から提供されていた。

この地下食堂で全電通(現在の情報労連)NTTデータ分会のオルグ活動していたのが津田淳二郎で後年全電通の委員長になった。このことについては章をあらためて述べてみたい。

地下の駐車場からは電電公社日比谷本社へのハイヤー便があり、用事があるときは私のような若い社員でも黒塗りの車に乗って往復することができた。日本たばこの支店、慈恵医大の玄関、港区図書館、日比谷図書館、新橋の鉄なべ屋、ニュー新橋ビルの一階オーディオスピーカ専門店が風景として甦る。

配属されたチームには当時40名以上のスタッフ、20代後半の若手メンバーが中心で自信に溢れて働いていた。新入りは膨大な量の青焼きといわれるジアゾ感光紙をリコーのコピーマシンでコピーした。大量にこの感光紙に触れていると指先が荒れてくるのでゴムキャップをはめてしのいだ。

プロジェクトチームのボス平塚清士に席に呼ばれ新入り4名がボスの前の丸椅子に座る。軍隊上がりを思わせる風貌のその上司は髪を短く刈り上げ、セルロイド製のめがねをかけていた。年のころは40代半ばで、同じフロアの周りのプロジェクトのボスをみると、皆平塚清士より若い世代でごく一般的なサラリーマン的雰囲気だ。この平塚清士のみ年齢的にも雰囲気的にも異質の空気を周りに漂わせていた。必ずノートを持ってくるようにとの注意があった。ボスはニコリともせずに「訓示」を厳かな態度ときわめて小さな声音で始めた。

「君達は先輩達に顔と名前をしっかり覚えて貰いなさい。そうしないと先輩たちは仕事を教えてはくれない。朝一番に出勤し、出勤直後と三時にはお茶を全員に配りなさい。先輩達は電電公社の職員のなかで極めて優秀なものばかりで、日本のデータ通信の夜明けを担う大変重要な仕事をしている。コピーの仕事が回ってきたら喜んで全部引き受けなさい。」
さらに続く。
「朝は早めに出勤をして全員の机の拭き掃除をしなさい。」「出勤は8時30分だが、8時には来ていなさい」

新入り4名は毎朝毎夕お茶を入れ菓子を配った。先輩達は普通預金や外為、通知預金などと担当している各業務の精通者に見えた。黙々とシャープペンシルと羽箒でトレーシングペーパーにプログラム仕様書を作成するもの、打ち合わせをする者、それぞれのところへ朝と三時にお茶を配ると、彼らは仕事をしながら手を伸ばし、黙って一息つき茶を飲んだ。

戦前、戦中派の面影を残す平塚清士は礼儀作法や情報管理、危機管理にもうるさかった。

担当全体で伊豆方面に忘年会に行ったとき、交通事故で社員にけが人出るとシステムの開発に支障があるとの理由で現地までの交通手段を特定し、別の列車に分散して出発した。戦中派ではの指導だった。

機密保護にはかなり面食らった。同じNTT内でも厳禁で友達づきあいがおかしくなる部下もいた。

「あなたの教えたことは、あなたが苦労して習得をした知識であるのでしょう、それをたとえ同期といえども簡単に教えてはいけない」

 

当時職場では囲碁が大流行で昼食をそそくさと済ませると碁盤に向かう仲間がいた。セブンブリッジも流行りだった。そして漫画も必ず誰かしらが買いそろえ新しい号が揃えてあった。つのだじろうの「空手バカ一代」や「後ろの百太郎」、ジョージ秋山の「銭ゲバ」、永井豪の「おもらいくん」、どおくまんの「嗚呼花の応援団」それに少年マガジンなどなど。集中力を必要とするストレスのきつい職場では昼休みの漫画や囲碁が必須の気晴らしだった。

1971年ころの職場は昼休みには囲碁が大流行で、食事もそそくさと済まし、いたるところで碁盤を囲んでいた。確かにこのゲームは中毒性があるほど面白く、やり始めるとこの時間が待ち遠しくなってくる。上司も同僚も大の囲碁好きが多く、いつも昼休みには早碁を数局打っていた。

他の楽しみは漫画で、職場には当時流行っていたドオクマンの「嗚呼 花の応援団」や角田次郎の「うしろの百太郎」「空手バカ一代」ジョージ秋山の「銭ゲバ」「はぐれ雲」「少年マガジン」などが常備してあった。長時間の仕様書やプログラミング作成にはこうした息抜きが必要であったのだろう。私も「嗚呼 花の応援団」が大好きで、このアクのつよいギャグ漫画でしばしストレスを発散していた。この漫画は団長の青田赤道の応援団員に対する行動が前時代的なむちゃくちゃで笑えた。心中ひそかに上司と重ね合わせてストレスを発散していたのかもしれない。

セブンブリッジも盛んに行われた。弁当を食べながら開帳しているところもあった。

昼休みではないが、一時期仲間内でオーディオ趣味が広がったこともある。私もこれにかなりはまった。当時でも国産スピーカのセットで三万円くらいした。三菱ダイアトーンがSTEREO誌で良いと聞くと買い求め、アンプはDENONが優秀だと聞くと手に入れ、プレーヤの針はSHURE社のタイプ3がいいと聞いてはなけなしのボーナスなどで買っていた。SHURE社のタイプ3は当時で三万円以上していた。

当時五味康助氏のオーディオに関する著作「西方の音」に影響されていた。良い音楽を良いオーディオ装置で聞くことが休日の息抜きになっていた。職場の先輩に連れられて吉祥寺にあったファンキーに行き出したのもこの頃だ。ドアを開けるとたばこの煙とパラゴンの大音響が爆発したように吹き出てきた。

その後、昼休みにジョギングすることが流行りだした。こればかりは食事を済ませてからというわけにはいかないらしく、12時きっかりにジョギングパンツに着替えて周辺を40分ばかり走り汗みどろで帰ってきてシャワーを浴び昼飯をすませていた。各職場に2,3名は愛好者がいた。ジョギングハイの状態が中毒性があるのだろう。走らないとどうにも気持ちが悪いとのことだった。官庁街の役人も皇居前を良くジョギングしていたがジョギングの全盛期ではなかったか。

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