まさおレポート

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高知 古満目の山中さん 縁という言葉がふさわしい

2021-09-08 | 心の旅路・my life・詫間回想

2003年の秋が深まる頃にふと思い立って古満目を訪れた。2003年には既に山中さんはこの世にいない。

「年賀を出すことも適わなくなり、これにて年始のご挨拶は言わらせていただきます」と最後の年始をもらってから数年後に奥様から喪中の知らせをいただいた。ひっそりと亡くなっていたのだ。

2003年の9月にわたしは山中さんにあることを報告しようと思い立って宿もとらずに古満目に向かった。

30年前に新婚の二人で訪れ、とても心のこもったもてなしをしていただいた。その地を一人で見て回った。記憶の海岸はそのままで、長い時間海を見つめたあとその途中の民宿に一泊した。

翌日は山中さんの家を訪ね、奥様にあいさつしようかと迷ったがやはりやめておいた。ここまで来たことで十分だ、そう思い小さな店に入りコーヒーを飲んであの世の山中さんを偲んだ。

バスが走る道から石の多い海岸にでると養魚場になっていて、そのはずれでは魚釣りの人が何人かいた。アジがよく釣れるようだった。

そのうちバスがやってきた。それに飛び乗り四万十川に向かった。

四万十川の丸い石が記憶に残っている。


2012-03-08 07:56:14 初稿

昨日、自転車で走っているときに脈絡もなく、ふと山中さん(仮名)の事が頭に浮かんだ。山中さんは高知県の高知からさらに列車でかなりの距離の小さな漁村、古満目(こまめ)にお住まいの方で、ふとしたきっかけで辻堂の断食道場で知り合った。

当時私は23で山中さんは40代、今から40年以上前のことになる。旅先での「ぜひ、遊びにいらっしゃい」の言葉にそのまま甘えて、遠慮もなく出かけて行った。

古満目では夕方に船を出して立派な鰤を持ち帰り、その鰤を中心にそれは豪勢な夕食を出してくれた。鰤は新鮮過ぎると脂で醤油がはじけて、のらないことをはじめて知った。東京の握りとあまりにも違う大きな切り身ののった豪快なすしにも驚いた。

その後、毎年正月には年賀状をいただき、空海に縁の深い高知の人らしく、いつも空海の言葉が記されていた。それが20年以上も続いた。ある時の年賀状で、体が衰えたのでもう今年限りで年賀状は出せないとのことが書かれており、それからしばらくして奥様から訃報が届いた。旅先で知り合っただけなのに、20年以上にわたって交流が続いたのは後にも先にもこの方だけである。

山中さんは戦争中に肺結核になり、片肺が骨ごと切除されていた。その結核療養中に眠れない為、睡眠薬を常用するようになり、いつしか睡眠薬中毒になっていた。おそらく亡くなるまでその悪癖から逃れられなかったのだろうと推測する。

そのつらさと、睡眠薬の症状で大変気が大きくなる、つまり万能感が支配するので、大変危険だとも話してくれたことを思い出す。街でやくざものに絡まれても平気で向かっていくと例を挙げて説明してくれた。アルコール中毒にも類似する万能感、これが薬物中毒の特徴だと記憶に刻み込まれた。共に、山中さんの深い罪悪感のようなものもひしひしと感じた。

山中さんは同和問題にも熱心な方で、その解放運動にも携わっておられ、そのために各地を旅することが多かったようだ。差別は江戸時代、各地で政策的に生み出されたもので、日本人誰でもがその被差別の民として囲い込まれる可能性があったと力説されていた。

来し方振り返ると、こうした出会いは人生には極めて数少ない、指折り数えられる程度であることがわかる。縁という言葉がふさわしい。

追記

山中さんは空海の信仰の厚い人で、年賀状には空海の文言が必ず記されていた。


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