まさおレポート

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映画『ベネデッタ』をみた

2024-12-03 | 映画 絵画・写真作品含む

映画『ベネデッタ』を観た時、まず感じたのは、言葉にできないような混乱だった。あまりにも多くのテーマが一度に押し寄せてきて、どこに焦点を当てていいのかわからなくなるような感覚。奇跡、信仰、不条理、そしてセクシュアリティどれも強烈に描かれ、そのすべてが絡み合いながら進んでいく。この映画は、歴史の再現や宗教批判ではない。むしろ、一人の人間の本質をとことん突き詰めた物語だ。


映画の中でベネデッタは、神に仕える修道女であると同時に、激しい情欲を持つ女性として描かれる。彼女が幻視を見たり、聖痕を体現したりする場面は、宗教的な荘厳さを感じさせる一方で、どこか際どく、挑発的ですらある。そして、それが単なる演技ではなく、彼女自身の中にある「本当の自分」を必死に探し求めた結果なのだと感じられる。

ベネデッタの同性愛的な関係も、この映画の大きなテーマの一つだ。彼女とバルトロメアの肉体的な交わりは、禁じられた愛として描かれるが、そこには単なる背徳的なエロスだけではない、何か深い人間的なつながりがあるように思えた。厳しい修道院の規律の中で抑圧された欲望が、彼女にとっては唯一の「生」を感じる瞬間だったのかもしれない。


セクシュアルな描写に感じた魅力

この映画を語る上で、ベネデッタのセクシュアリティを避けて通ることはできない。正直、私自身もその描写に引き込まれてしまった。彼女が神の奇跡を体現する聖なる存在であると同時に、肉体を持つ生身の女性であるということ。この矛盾が、彼女をただの狂信的な修道女でも、ただの罪深い異端者でもない、複雑なキャラクターにしている。

たとえば、バルトロメアとの情熱的なシーンは、単にスキャンダラスなものとしてではなく、抑圧された環境の中での解放の象徴として感じられた。彼女が自分の欲望に忠実であることは、ある意味でとても人間らしい。それは信仰や規律によって封じ込められた自分を解き放つ瞬間であり、同時に神とのつながりを追求する自分とも矛盾しないのだ。


奇跡か、それとも現実逃避か

ベネデッタの幻視や聖痕は、彼女が本当に神に選ばれた存在であったことを示しているのか、それとも現実の不条理から逃れるために心が作り出したものだったのか。その答えは観客に委ねられている。私自身も結論を出すことはできないが、どちらであっても、彼女の体験は彼女自身にとっては紛れもない「真実」だったのだろう。

もしかすると、幻視や聖痕は、抑圧的な環境の中で自分を守り、存在を肯定するための無意識的な手段だったのかもしれない。それが宗教的奇跡であれ、心理的な防衛反応であれ、彼女がその中で必死に「自分」を見つけようとしていたのは間違いない。


ベネデッタという人間の魅力

映画の終盤、ベネデッタは周囲から完全に孤立し、奇跡を信じる者とそれを疑う者との間で翻弄される。彼女の行動は矛盾だらけで、見る者に多くの疑問を投げかける。それでも私は、彼女に対して強い共感を覚えた。彼女は不条理な時代を生きた一人の女性であり、神に選ばれた特別な存在であると同時に、欲望に突き動かされる生身の人間でもあった。

その矛盾が彼女をより魅力的にしている。聖と俗、信仰と欲望、そのどちらもが彼女の中に存在していた。その姿は、決して特別なものではなく、むしろ普遍的な人間の姿そのものだと感じられた。


現代とのつながり

『ベネデッタ』の物語は、400年前の話ではあるけれど、現代にも通じるテーマを多く含んでいる。宗教や規律が変わっても、欲望や自由への渇望、不条理への怒りは、いつの時代も変わらない。そして、その中で自分を見つけようとする姿は、私たちにも共感を呼ぶ。

一方で、こうしたセクシュアルな描写や宗教批判を含む作品が発表できる今の社会は、少しだけ自由になったのかもしれないと思う。もちろん、現代にも不条理は多い。でも、その不条理を語ることができるのは大きな進歩だ。


結び

『ベネデッタ』は、奇跡と欲望が複雑に絡み合う一人の女性の物語だ。その中には、聖なるものへの憧れと、抑えきれない情熱の衝突が描かれている。その矛盾に満ちた姿は、私たちが抱える内なる葛藤や不条理そのものを映し出している。

観終わった後、私はベネデッタが何者だったのか、結論を出すことはできなかった。ただ、彼女が必死に自分を生きたこと、その姿に惹きつけられたことだけは確かだ。不条理の中で奇跡と欲望を生きた彼女の姿は、私たちに「自分は何を信じ、どう生きるのか」を静かに問いかけているように思えた。


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