まさおレポート

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NTTデータ草創期メモランダム6 リクルート事件

2015-12-13 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

 

 

NTTデータの社員として働いている間にもっとも印象に残っている一つがリクルート事件だ。政界をゆるがす事件に発展したが大物にまでは検察の手は伸びず政界では藤尾、池田の両議員が逮捕されたのみであり、NTT法により真藤、長谷川、式場が有罪となり、葬り去られた。有罪では真藤氏の大物ぶりが際立っている。

江副氏が2013年に亡くなり、世間の大方の意見は「釈然としない」に集約される。結果から見れば真藤氏に狙いを定めた事件ということができる。ロッキード事件、田中角栄失脚、近畿不正経理事件、北原安定氏に変わり真藤氏が社長に、リクルート事件で真藤氏が失脚の流れは偶然か、あるいは巨大ななにかに仕組まれたものなのか、あるいは田中氏と中曽根氏に代表される勢力の抗争劇なのか。おそらく今後も解明されないままに置き去りにされるだろう。

NTTデータの社員として働いている20数年の間にこの事件に関連するかもしれないいくつかを実際に見聞きした。いずれも断片的な記憶であり、点でしかない。

上司がよく北原氏のもとにふろしきを携えて伺っていたこと、横浜西局にはリクルートのスパコンが設置され運営と保守をNTTが行っていたが、局舎の一階で真藤氏と一団を見かけたこと、大阪の地で近畿不正経理事件の報道対応を広報課長から聞いたこと、おなじく勤務したことがある堂島電電ビルにもリクルートのスパコンが設置され運営と保守をNTTが行っていたこと、大阪ではそれまで日本製が占めていると思っていたが日本ダイレックスの時分割多重装置が設置されていたことが印象に残ったこと、長谷川氏が着任しフロアで着任挨拶を聞いたこと、真藤氏が社長就任時に社内一斉放送でNTT法の存在に危惧を抱くのをスピーカを通して聞いたこと、ボランティア資金供出の経験をしたこと、シンシナティ―ベルの料金システム導入を無理筋だなと思ったことなどがある。

しかしこれらは点として私の記憶の断片に残るだけであり、線としては結びついていないし今後も結びつくことはないのだろう。

1976年

ロッキード事件は1976年(昭和51年)2月に明るみに出た。田中角栄首相が戦闘機の機種選定にからんで数億円を受け取ったとする汚職事件で、次期総裁に北原安定氏を押す田中首相の失脚で一気に外部から総裁を招き入れる声が強くなる。さらに1985年の民営化の際にも田中角栄氏は初代社長に北原安定氏を推すが、その田中角栄氏も中曽根氏と財界が強く推す真藤氏の初代社長就任を興銀の中山素平氏を訪れて応諾したと中曽根氏の回顧録にある。

北原氏と全電通の山岸委員長は民営化に反対で、山岸氏は民営化では折れたが分割には断固反対だったとある。結局最後まで民営化反対の北原氏は中曽根総理大臣の時代が到来し、角栄氏は戦いで敗れたということになる。

ロッキード事件もこの頃に起きた。田中角栄首相が戦闘機の機種選定にからんで数億円を受け取ったとする汚職事件で、北原安定氏を押す田中首相の失脚で一挙に真藤総裁のNTT初代社長が決定した。

電電を分割する必要はないと全電通委員長・山岸章氏は主張したが真藤恒氏が山岸氏にとにかく民営化だけは認めろと説得して山岸氏が折れ、次いで田中角栄氏が初代社長に真藤氏が就任することを承知することで副総裁の北原安定氏が孤立し民営化と真藤社長が実現した。(『自省録・歴史法廷の被告として』 中曽根康弘 新潮社)

1978年から1979年

その後しばらくして、1978年から1979年にかけてカラ会議やカラ出張あるいは一般人にはなじみのない特別調査費という勘定科目で十二億余万円もの裏金をねん出した金を組織的に金をプールして全電通への接待や部内外幹部への飲み食いに使っていたという大事件で、南町奉行と称する社内の人物なども紹介され、連日賑やかに報道されていた。

実際にはこの事件が電電公社の総裁を外部から迎え入れる世間の空気を一気に盛りあげる役目を果たしたと考えている。真藤氏は1981年に同社出身の土光敏夫名誉会長(当時)に請われ、北原氏を押さえて旧日本電信電話公社総裁に就任が決定した。

1982年1月26日朝日新聞朝刊13版23面 電電不正 部長級は不起訴 大阪地検 41人、裏付け取れず 五十三、五十四年度にカラ会議やカラ出張で、十二億余万円もの裏金をねん出、流用していた日本電信電話公社(真藤恒総裁)の不正経理事件で、大阪地検特捜部は二十五日、背任、虚偽公文書作成など五つの罪名で告発されていた近畿電気通信局などの当時の部長級四十一人全員を、「嫌疑不十分」として不起訴ににする処分を発表した。

北原氏追い落としのために暴かれた事件だとすると、既に真藤氏が総裁に就任していたために近畿電気通信局の部長級四十一人全員を、「嫌疑不十分」として不起訴ににする珍しい決着となったのだろうかとも勘繰れるがどうなんだろうか。

1980年

土光さんの臨調が始まり電電公社の民営化が議論されだした頃だったか、ある日朝日新聞一面に北原安定氏の脱税問題が記事になっていた。北原安定氏のうっかりミスに近い納税問題がかなり大きく取り上げられていた。

1981年

田中氏の後を継いだ中曽根首相と米国レーガン大統領はロンとヤスと呼び合い蜜月関係を作り出した。米国のシンシナティーベルから電話会社運営の基幹システムソフトの導入を決めたのもこの頃で、同様に米国からスーパーコンピュータをリクルート社が購入して、横浜西電話局と大阪のNTT堂島センターに設置した。いずれも勤務地であった関係で記憶している。

横浜西電話局の廊下で一度真藤氏ととりまきの一団を見かけたことがある。真藤氏が横浜西電話局にくるのは珍しいことなのでひょっとしてスーパーコンピュータ設置センターの視察に来られていたのだろうか。

1973年GATT・東京ラウンドがスタートし、GATT協定が採択される。、1981年1月より、GATT協定に基づく調達方式をトラックⅠ、日米取り決めに基づく市販品ベースの電気通信設備の調達をトラックⅡ、開発が必要な電気通信設備の調達をトラックⅢとし、「オープン」「公正」「内外無差別」をうたった調達手続きがスタートした。2001年7月をもって完全に失効した。

NTT資材調達についても随意契約を原則廃止して必ず入札を行うように法制化したのもこの頃か。

1984年

1984年(昭和59年)11月、世田谷電話局のすぐ前の地下のケーブルを入れるトン ネル(とう道)内のケーブルが 全焼するという大事故があり、都内の電話に大きな影響を与えた。この事故対策の責任者として腕を振るったのが長谷川氏で真藤氏の目に留まり、以降徴用されるきっかけとなった。虎ノ門17森ビルのオフィスで火災の続く状況にやきもきしたときの記憶は鮮明だ。

1985年

真藤氏に重用され最年少で役員になった長谷川取締役が1985年頃だろうか、NTTデータの初代社長含みでNTTデータ通信本部長として着任してきた。堂島センターの入り口ロビーに職員を集めてのあいさつを私も聞いた。週刊文春だったかで東京通信局長時代のうどん屋の女性との問題を取り上げられる。失脚するのとリクルートで有罪になるのとどちらが早かっただろうか。

江副氏がスパコンを導入してVAN事業を展開しようとしていた折でもあり、スパコンは既にNTTデータ堂島ビルに設置されている。長谷川氏のNTTデータ通信本部長就任は真藤氏と江副氏との通信事業提携を一層バックアップする人事だった気がする。後にリクルートに吸収される日本ダイレックスも盛んに時分割多重装置を独占に近い形でNTTデータに納入していた時期であり、真藤氏、日本ダイレクト若山社長、江副氏、長谷川氏とNTTデータを中心に点がつながるようにも見える。

北原安定氏は日本の巨大な通信産業を電電ファミリーとして完全に抑えていた。NTT調達の通信機器の納入には東芝、松下といった家電大手も一切参入できず日本電気、日立、富士通を御三家とした電電ファミリーと呼ばれるメーカーが占有していた。北原安定氏はこの巨大電電ファミリーのトップに君臨し、電電ファミリーの名のもとに国産メーカーを擁護し米国の産軍複合体の日本参入を阻止していたと思う。

時分割多重装置などは日本メーカのお手の物の装置であり、これが米国製を日本ダイレクト社を通して購入するようになったのも北原氏が敗れた結果と言える。そしてこれが中曽根政権の貿易均衡への一環となっていった。田中失脚は北原失脚となり、中曽根、真藤ラインはレーガンと組んで米国製スパコンや米国製料金システムの導入、米国製時分割多重装置を納入する日本ダイレクス社の興隆へと繋がっていった。

これに対して中曽根氏や真藤氏は米国からの製品導入で貿易摩擦を解消し米国との蜜月をつくり出そうとした。真藤氏と北原氏の初代社長争いは電電ファミリーと米国と日本の新たに参入したい企業群の戦いの様相を呈してくる。財界主流は電電ファミリー以外の声が強く後者を支援したと推測している。北原氏は日本の電気通信産業界を当時としては最大効果のあるやりかたで牽引してきたが、時代の潮目を読めなかったと言うべきだろう。

後年、石原慎太郎氏が月刊誌「文藝春秋」へ寄稿し、その記事の中でロッキード事件と田中角栄氏に触れ、その事件の背後にある米国の陰謀を匂わせる内容を書いていた。CIAから対日本工作にかなりの金が出ていたとも記していた。田中角栄氏は死ぬまで「自分は(対米追随派に)はめられた」と考えていたらしい。前述の変化は石原氏の指摘と矛盾しない。 

同様に真藤氏に重用された企業通信本部長の式場取締役もリクルート事件で失脚する。このころ日経コミュニケーションズなどの業界雑誌に式場氏の名前が載らないことはなかったくらいで、NTTの企業向け営業の顔として活躍していた。後年私が新電電の一社に転職し、式場氏がリクルート事件で有罪判決を受けた後に何かの折に上司のGさんの縁で式場氏の事務所を訪れたことがある。新橋の煉瓦通り沿いにあるビルの一室にひっそりとした事務所を構えていた。長谷川氏、式場氏とも失脚後リクルートが面倒を見ていた。長谷川氏はリクルートアメリカで、式場氏はコンサルタントとそれぞれ次のステップに移っていた。

真藤氏がNTT初代社長になって全社員に一斉放送で挨拶と訓辞をおこなった。自席でその声を聞いたのだが、しわがれ声でとても小さい声で内容が聞き取れないときもあった。その話の中で妙に印象に残った話がある。「NTTが民営化されたがNTT法は残った。このNTT法が残ったことの意味の大きさを殆どの社員は気づいていない。しかしやがてこのNTT法の存在が大きな意味を持ってくることを諸君はしることになるだろう」。

真藤氏はリクルート事件で逮捕され有罪判決が下ったが、これはNTT法違反によるものだ。言い換えればNTTが他の民間会社と同じでNTT法がなければ逮捕されなかったことになる。そう考えるとこのときの挨拶はすごみを持ってくる。

1988年

1988年6月18日の川崎市小松助役に対するコスモス株譲渡のスクープを朝日新聞が報じたことをきっかけに発覚したリクルート事件で、1989年に逮捕、1990年10月23日には真藤NTT前会長の判決があり、懲役2年・執行猶予3年が確定した。真藤氏は年齢的な点も考慮してこの判決をうけいれたとあった。他に長谷川寿彦元NTT取締役は一審で懲役2年・執行猶予3年、式場英元NTT取締役は一審で懲役1年・6ヶ月執行猶予3年が確定した。

これにより真藤氏は逮捕され失脚する。これによってNTTは再び生え抜きの社長人事に戻ることになる。その頃私は新電電の一つ日本高速通信に転職してNTTとの接続問題を担当することになったが、真藤氏が失脚して相互接続問題の態度が変化したことを感じた。一言でいえばしわくなった。

 回想のNTTデータ

新電電メモランダム(リライト)4 真藤氏 NTT初代社長就任と辞任

「リクルート事件・江副浩正の真実」と見聞

 


2 コメント

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修正依頼 (匿名)
2023-07-21 22:48:06
”日本ダイレクト” ではなく”日本ダイレックス”
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Unknown (masao)
2023-07-22 08:48:19
日本ダイレックス そうでした。ありがとうございます。
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