まさおレポート

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「自己」とは何か? インド哲学と西洋の見方 その1

2024-03-14 | バリ島 不思議な話・死後の世界・輪廻・自己とは
 
 
2024/3/13追記
6年前に書いたこの記事を今読み返して見て自画自賛ながら面白い。
 
こういう七面倒くさい記事が段々と書けなくなっている。これはよくない傾向だと自覚しなければならない。
 
この疑問がわたしの出発点でもあるし終着点でもある。
 
来たるべきAI時代の危機回避と連結させていかなければ。
 

2018/4/4 加筆

初稿に下記のように書いたが、今日本屋でなにげなく本を手にとってなにげに開いたページがまさにこの意識のハード・プロブレムの最新動向だったので少し驚いた。我々にはいくつかの解けない問題が頭の奥底に眠っているが、だれだってその問題にずばり切り込んでいるページを偶然に開くなんて驚き以外の何物でもない。このブログ記事はかつて掲載したものだが、この中に以下の記述がある。この問題の最先端を紹介した記事だったのだ。

ティム・ロバーツは意識の超難問と言い、「私はなぜこの私なのか」という問題は意識のハード・プロブレムとも呼ばれるらしい。物理学と化学に従う脳から主観的な意識体験、クオリアが生まれる仕組みも意識の超難問やクオリアという言葉を知らない20代の頃に考えたが、これも自己とはなにかの問いかけの関連した疑問ではあるが別の問題として心の奥深くに残った。

ニューロンをひとつひとつ人工に置き換えていくとクオリアはどうなるかという問題、クオリアのフェードアウトと呼ぶらしい。私の20代のはじめにまことに不思議でいろいろ思考実験をして考え、友人にも問いかけをした記憶がある。聞かれた友人はさぞかし変な質問だと思ったことだろう。クオリアはそのまま人工物に残るだろうか、あるいはフェードアウトするか、結論はクオリアが残るかどうかはわからない、そりゃそうだろう、本人に聞いて見なきゃわからん問題だし、その本人は人工物で、わかったふりをするかもしれないのだから。でも意識は人工物に宿ると考える学者もいるらしい、

2018-03-29 初稿

「インド哲学七つの疑問」宮元啓一の第3問 本当の「自己」とは何か?」自己が世界外存在はインド哲学の常識らしいが、宮元啓一はどこかで西洋の自己とはなにかはインド哲学に比べると幼稚だとのべていたような記憶が。そこで現代哲学の自己とはなにかを宮元啓一の第3問と見比べて見ることにしよう。私にとってなにかあらたな知見が得られるかも知れない。

①「ヤージャナヴァルキヤ(紀元前8~7世紀)は、・・・地の中に住し、地とは別ものであり、地が知らず、地を身体とし、地を内部で統御しているもの、これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。

②水の中に 火の中に 中空の中に 風の中に 天の中に 太陽の中に 方角(空間)の中に 月と星宿の中に 虚空の中に 闇の中に 光の中に(ここまでは宇宙的環境をなす要素である。仏教でいえば、器世間 生き物がいきる器としての環境世界をなす要素だといえる。万物の中に 仏教でいえば有情世間)・・・気息のなかに(生命エネルギー) 発声器官のなかに( 行為器官) 眼の中に(感官) 耳の中に(感官) 意の中に(心という内官) 皮膚の中に(感官)・・・認識の中に(感官と心という内官により生じた認識作用) 精子の中に(行為器官)・・・ヤージャナヴァルキヤは、自己は、これらすべてのなかにあるけれども、それらとは異なるものであり、それらを内から照らすものだといっている。p94

③なお、紀元後4世紀にヴァスパンドゥ世親によって完成された唯識論では、・・・じつは本質的にはほとんど有我説なのである。p96

認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己はしりえないといっているのである。p99

⑤紀元後8世紀の不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラが・・・なぜなら、(認識しようとする欲求が)認識主体を対象とすると、認識主体と、認識しようとする欲求とは、無限後退するという論理的過失に陥るからである。p99

⑥シャンカラ(8世紀)は・・・自己が存在することは否定できないから、「に非ず、に非ず」といって・・・「これはわたくしではない、これはわたくしではない」といったふうにして、自己に到達するのである。p103

⑦世界は自己をみることがない。幻影の世界を成り立たせている無明(根本的無知)が取払われたとき、世界は消滅し、自己のみがひとりのこる。・・・唯識説までいって、仏教は開祖ゴータマ・ブッダを飛び越えて、はるか昔へ先祖帰りしてしまったのである。p106

⑧古代ギリシャ哲学では、自己の問題は魂の問題であった。そしてその魂は記憶をもつとされる。プラトンもいっているように、魂がイデアに憧れるとは、魂によるイデアの追憶にほかならない。p108

 

以下の疑問は子供の時から抱いていて考えれれば考えるほどわからない問題として残り、いまだに私の中で最大の不思議として残っている。  

あなたが生まれる前にこの世界は本当に存在していたのだろうか?あなたの死後この世界は存在していると言えるのだろうか?
なぜあなたはこの時代の地球に日本人として存在しているのか?
カラスとして生まれなかった理由は?
江戸時代に生まれなかった理由は?
どこか他の星の宇宙人として存在していない理由は?
実在とは何か?という疑問が生じる。参考:

https://ja.wikipedia.org/wiki/なぜ私は私なのか

しかし次の解答が全てかもしれない。

④認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己はしりえないといっているのである。p99

ティム・ロバーツは意識の超難問と言い、「私はなぜこの私なのか」という問題は意識のハード・プロブレムとも呼ばれるらしい。物理学と化学に従う脳から主観的な意識体験、クオリアが生まれる仕組みも意識の超難問やクオリアという言葉を知らない20代の頃に考えたが、これも自己とはなにかの問いかけの関連した疑問ではあるが別の問題として心の奥深くに残った。

今、ネット検索でこうした知見に出会えるのが嬉しい。つまり同じ疑問を持ちながら勤め人の生活でそのままにして生きてきた私に対して、世界にはこの最大の疑問に取り組んでいる学者がいると知るだけでなんだか嬉しい。

自己は夢の中でも自己で次のような疑問もある。

「夢の中に登場する人物は全部自分の脳が作り上げた人物だと思う。なぜ、その中の一人(自分)だけ特別に元の自分の意識や自我を持つのに、他人の行動や思考は夢の主人公から分からないように隔離されているのだろう?」

次のように自己は錯覚との見方もあるが、これはどうもよく理解できないが幻影論的一元論と同根かもしれない。

スーザン・ブラックモアの考えでは、(受け入れることは難しいが)意識は錯覚であり、自我を持つ誰かなどはおらず、「私」が存在するような気がするときはいつも、その「私」は一時的な虚構にすぎず、また私たちに自由意志はない。

これには次の文が参考になるだろうか。

⑤紀元後8世紀の不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラが・・・なぜなら、(認識しようとする欲求が)認識主体を対象とすると、認識主体と、認識しようとする欲求とは、無限後退するという論理的過失に陥るからである。p99

次の文もコンピュータ・プログラムとのアナロジーで無限後退のことを言っているが上述のシャンカラの言葉と重なって見える。

神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとするのが否定神学である。私たちは神について直接知ることはできないという考え方である。例えば、あなたは飼い犬に朝刊を持ってくるように訓練したとするが、この飼い犬はどのように訓練してもその新聞に書かれている内容を理解することはない。同様に、私たちの知性は制限されており、究極の真実を知ることができないように作られているのだ。何が分からないのかそれすら理解できないようになっているのだ。ただし中途半端に人類に知性を与えたお陰で、近年では科学というツールを用いてこの世の成り立ちがさまざまに調べられ、(量子力学に代表される)この世のほころびがあちこちで見つかっている。我々が「宇宙」の演算結果であるとしたら、それを解明することが本質的に困難なのは、「演算結果が演算を理解する」困難さなのかもしれない。

次に対比はどうだろう、ちょっと強引な対比かも知れないが。

宇宙の始まり、生命の始まり、意識の始まり、これら3つの究極の謎の解明に常に立ちはだかるのが量子力学の壁である。そして我々人類はこの量子力学を理解できないように作られているのかもしれない。

②水の中に 火の中に 中空の中に 風の中に 天の中に 太陽の中に 方角(空間)の中に 月と星宿の中に 虚空の中に 闇の中に 光の中に(ここまでは宇宙的環境をなす要素である。仏教でいえば、器世間 生き物がいきる器としての環境世界をなす要素だといえる。万物の中に 仏教でいえば有情世間)・・・気息のなかに(生命エネルギー) 発声器官のなかに( 行為器官) 眼の中に(感官) 耳の中に(感官) 意の中に(心という内官) 皮膚の中に(感官)・・・認識の中に(感官と心という内官により生じた認識作用) 精子の中に(行為器官)・・・ヤージャナヴァルキヤは、自己は、これらすべてのなかにあるけれども、それらとは異なるものであり、それらを内から照らすものだといっている。p94

次の対比は同じことを言っていないだろうか。

「人間には思い描くことのできるものがあり、できないものもある。実在の本質はそうした理解を超えたところにある」(レオナルド・サスキンド)

①「ヤージャナヴァルキヤ(紀元前8~7世紀)は、・・・地の中に住し、地とは別ものであり、地が知らず、地を身体とし、地を内部で統御しているもの、これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。

次の対比はプラトンのイデア論の科学的メタファと読めるかもしれない。まだ十分に理解できていないが。

ホログラフィック原理(ある体積を持つ時空の中で起きている事象は、その体積の境界で起きていると説明できるとするサスキンドとトフーフトの理論)によると、3次元空間は「ライトシート」と呼ばれる2次元面に書かれた情報から出現する。この理論は、全宇宙は宇宙の地平面上に「描かれた」2次元の情報構造と見なすことができ、我々が観測する3次元は巨視的スケールおよび低エネルギー領域での有効な記述にすぎないことを示唆する。「ライトシート」は内部で起こる現象を記録するフィルムではなく、むしろこちらが万物の源であり、粒子やその間に働く力、時空をつくりだしている。宇宙はコンピューターのようなもので、その内部の情報が、物理的実体を作り出している。

この可視の物質世界は、宇宙の外側(または別次元?)にあるプラトン的世界(=数学的構造)の投影である。

物質的世界は、プラトン的世界の一部から生じます。だから、数学のうち、一部だけが現実の物質世界と関係しているわけです。次に、物質的世界のうち、一部だけが意識を持つように思われます。さらに、意識的な活動のうち、ごく一部だけが、プラトン的世界の絶対的真実にかかわっているわけです。このようにして、全体はぐるぐる回っていて、それぞれの世界の小さな領域だけが1つにつながっているようなのです。

ロジャー・ペンローズ『ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』

プラトン的世界こそ本質であり、量子的計算が行われてこの宇宙の物質が生成されている。この物理世界は基本的には巨視的スケールでニュートン力学が支配しているが、微視的スケールまで拡大していくと破綻するのは、この投影時の量子的計算のためである(アナロジーとしては、我々が音楽を記録するために、アナログ波形をフーリエ変換によってデジタル情報に変換するわけだが、どんなに緻密に量子化しても拡大していくとアナログ波形そのものを表すことができない

⑧古代ギリシャ哲学では、自己の問題は魂の問題であった。そしてその魂は記憶をもつとされる。プラトンもいっているように、魂がイデアに憧れるとは、魂によるイデアの追憶にほかならない。p108

準結晶超伝導転移からペンローズの意識と量子力学に


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