色彩によるトランス
バリのヒンズーはインドのヒンズーとは異なりバリ特有のアニミズムの影響を強く受け、さらにこの島に伝わる古来からの伝承や習慣とも結びつき、多様な要素が一体となって“アガマ・ヒンズー”と呼ばれる独自の完成された宇宙観や宗教性を形づくっている。
シュピースはこのアガマ・ヒンズーの世界にパラダイスを見出した。
この世界には善とともに、悪しき神や悪霊も存在する。すべての自然は太陽と月、光と闇、善と悪、生と死というように対になり、相互の混沌としたバランスの上に世界は生成し濃密な場を生みだしている。
バリではいたるところ白と黒の格子模様の布白と黒ボレンが祭壇や神木、彫像に巻かれているのを見かける。これはバリの宇宙観を反映したもので終わることのない二極間の闘争をシンボライズしている。バリの人々は善なる神に祈ると同時に悪しき神にも宥めと祈りを捧げる。陰陽の思想は黒と白が絡み合って円となる太極図で象徴されるがどこか通底する。オゴオゴやケチャなど儀礼の際の邪霊をはらうため、人々はポレンを身に着けている。
舞踏によるトランス
跳ねば跳ね 踊らば踊どる 春駒の 乗り(法)の満ち(道)をば 知る人ぞ知る
一遍
冒頭に一遍の句を掲げたが、日本でも仏教で室町以来のトランス重視の伝統がある。さらにさかのぼれば卑弥呼がいる。日本ではトランスの宗教的意義はすたれたがなお阿波踊りや河内音頭にその名残を見ることができる。しかしバリでは歴史的なものになるどころか現役バリバリの宗教行為であり、その先に彼らはガベンに代表される輪廻転生観を具体的に持っている。
改めて宗教とは教義ではなく行為なのだと思い知らされる。
バリのサンヒャン・ドゥダリは二人の少女が踊るもので一種の幻覚状態を引き起こすとされる香(penudusan)をかぎながら、次第にトランスに陥り、歌にあわせて踊り始める。(ドゥダリは精霊を意味する)
バロンとランダ
ランダとバロンも対にして考えられている。ランダは女、年寄り、悪、夜、病、人間の魔物で「左」の魔術を使う。
一方のバロンは男、若者、善、太陽、薬、動物の化物で両者はともに善悪の両義を持つファジーな存在だ。
魔女ランダ(=チャロン・アラン=マヘンドラダッタ)と聖獣バロンの善と悪との闘いという図式は単純化されているにすぎない。
バロンはランダの現れた姿の一つで、供物を捧げて人間側につけてランダに立ち向かわせたのだと人によっては説明する。
森の聖獣バロンは、バリの人々から最も敬われている空想の動物で、災いや病いを祓う大いなる力があるとされる。森から抜け出て、村の外れや通り、家々の門前を練り歩き、凶事の原因となる魔を追い払う。
チャロナラン劇は聖獣バロンと魔女ランダの戦いを中心に演じられるが両者は寺院の闇の奥へと消えていき戦いの決着のつかない点が劇の特徴となる。
聖獣バロンの取り巻きがバリの剣クリスで魔女ランダを襲うが逆に魔女ランダが魔法をかけて取り巻きが自らの胸を突き刺すようにしむける。ところが今度は聖獣バロンが魔法を掛け返して取り巻きの胸を硬くしクリスが通らないようにする。こんな具合に決着がつかないのだ。
善悪が合わさってこの世があるというヒンドゥの教義を見事に反映している。なにかを思い出さないだろうか、そう、村上春樹の1Q84で登場する尊師が説くところのこの世は善悪から成り立つという話を。
バリのアニミズムから発しヒンドゥの影響を受けたバロンは、祭りにバリの村々を練り歩くことで古くから人々を守ってきた神秘の力を持つ偉大な聖獣でありバロン文様となって威力を発揮し続けている。
ガムランによるトランス
ガムランgamelanたたかれるものの意。インドネシアの器楽合奏音楽。木製、竹製、金属製の打楽器を用い、儀式、演劇、踊りの伴奏とする。青銅に金をまぜて鋳造することも多く、秘伝の配合によって絢爛たる響きや重厚でダイナミックな響きがうまれる。
平均律を採用して、可もなく不可もない等質な音階を作るよりも、多少歪んではいても個別的な偏りを好むという傾向がバリ人にはある。音階に限らず、法則やシステムを統一したり平均化するという方向性は、芸能というものにとって進歩ではないと彼らは考えているように思われる。
デジタル化できないニスカラの世界観をそのままガムランに表現したことをシュピースは肌で知っていたに違いない。
ガムランは青銅楽器でバリの祭礼、ウバチャラにはバリ島特有の楽器の演奏と舞踏が伴う。
バリ・ガムランはテンポ、強弱の変化が激しく、ひとつの旋律を2人で分担して入れ子で演奏するコテカンと呼ばれるずらしを多用する。通常の倍のスピードで演奏でき速いパッセージをやすやすと弾け音楽脳を刺激し陶酔へと導く。
ガムランには楽譜がなく指揮者もいない。クンダンという太鼓からの合図が指揮棒の役割をする。
ガムランの演奏が止まり、人々はお祈りの準備に入った。境内は、お香の微かな匂いで包まれた。僧侶の鳴らす鈴の音が境内に響くと、人々は両手を額の前で合わせて、お祈りを始めた。南国の暑い陽射しの中ではあるが、お祈りの神聖な行為が暑さを静寂の隅に追いやった。人々は静かにお祈りを続ける。
数分後、それは何の前触れもなく始まった。お祈りの群衆の中から、静寂を切り裂く「ワーッ」という奇声がした。トランスが集団発生したのだ。
バロンの獅子頭の裏側に仕込まれた鈴は、青銅や真鍮のインゴット(地金)を削りだして造ったもので、十数個密集させ鋭く豊かな超高周波成分をバロンの頭の内側に発生させる。内側に装備されているため観客には見えない。
この鈴の音は、他の演技者や観客に及ぼす演出効果はゼロに等しく、表現 装置としてはほとん ど貢献していない。
バロンの内側にいる振り手が受容する鈴音の周波数分布を実際に測定してみると、驚くべき超高周波を含むことが見出された。
さらにバロンの演技中しばしば行われる面の上下の歯を打ち合わせる音が加算されると、超高周波成分がより増強される。鈴音の発現させるハイパーソニック・エフェクトは、振り手の生理的状態をトランスに誘導する大きな要因になっている。
ケチャによるトランス
バリにはレゴンと並ぶもう一つの舞踏がある。ケチャダンスあるいは単にケチャ、ケチャックと呼ばれる。これは男だけの舞踏で大勢の男たちが胡坐をかいてすわり、チャ、チャ、チャという声を連続して発する。その声の中を男あるいは女のダンサーが踊る。周りは必ず男で必ず座位だ。
踊り手はチャ、チャ、チャの高音を含む極めてテンポの速い発声と舞踏で徐々に陶酔状態に入っていく。若者たちは皆、特殊な訓練を受けたものではなく、普通の農民でとりたてて真剣にやっているわけでもない。なかには隣同士でにやにや笑いあってふざけているものもいる。しかし全体として巧みにリードし会いプロデュースすることで完成度を増し、音楽脳、感性脳を最大限まで刺激し周りと自らを陶酔に高めていく。
言葉ともいえない音の発声だけで深い陶酔に入り、火の恐怖と痛みを克服している点だ。酒も麻薬も使っていない単にリズミカルな連続した発声だけでトランス状態になっていけるものなのだ。酒も麻薬も外部からの薬物効果だが、このケチャは音声のみによるトランス効果で体をむしばむことのない方法の一つだ。
陶酔が深くなってきたころ、ヤシガラに火をつけて床一面を火にする。ヤシガラは燃えてる。ふれればやけどは間違いのないところだ。その燃え盛るヤシガラのなかに男は飛び込み、裸足の足で踏みつけていく。踏みつぶして火の手が収まるころに男は失神する。僧がこの男を抱きかかえていく。これでダンスは終わりを迎える。
このダンスで驚くのは二つある。陶酔に入り熱さを感じなくなっているばかりか、やけどをしていないことだ。目の前で火の中に入り、直接燃えるヤシガラに触れているのに誠に不思議な現象だ。もうひとつは言葉ともいえない音の発声だけで深い陶酔に入り、火の恐怖と痛みを克服している点だ。酒も麻薬も使っていない単にリズミカルな連続した発声だけでトランス状態になっていけるものなのだ。
酒も麻薬も外部からの薬物効果だが、このケチャは音声のみによるトランス効果だ。体をむしばむことのない方法の一つだろう。もうひとつは北アフリカやエジプトで見る旋回舞踏だろう。これは音声ではなく、ひたすらクルクルと旋回することによりトランス状態に入る。
これらの音楽と舞踏による陶酔の方法はかつての日本の信仰にも使われてきた。室町時代の空也に始まり鎌倉時代の一遍でピークを迎える踊り念仏の繰り返しはこのケチャと通じるものがある。
バロンダンスは平和で穏やかで神に感謝を捧げる踊り、ケチャダンスは生死をかけた戦闘の前の勇気を鼓舞するための踊りそんな理解を自分なりにしてみた。そしてケチャは音声の繰り返しだけでも麻薬に匹敵するトランス効果があることがわかる。
ケチャのリズム
主旋律が一人でタンブール「シリリリ・プン・プン・プン」と発声しながら四拍子を刻みリズムを主導する。他の一人プポはメロディーを歌う。他の全員が以下の4つのパートに分かれ「チャッ」「チャッ」の発声を行う。
プニャチャ四拍子の間に「チャ」という叫び声を7回入れる。
チャク・リマ四拍子の中に「チャ」を5回入れる。
チャク・ナム四拍子の中に「チャ」を6回入れる。
プニャンロットチャク・ナムを16分の1後ろにずらして刻む。
このように高度の組み合わせを持ち全体として破裂音による高音域の不思議なハーモニーを奏でる。日常では発しない高音域の発声と早いテンポのリズムがトランスに導くことになる。つまり西洋のオーケストラでコンダクターが指揮するのではなく全員が主役で群の演奏を行う。
ワヤン・リンバクはバリス舞踏のダンサーとして有名であり創作にバリス舞踏の動きも組み込む。さらに男性合唱は発声によるリズムだけでなく手や体の動きで猿や蛇の役も演じて表現の幅を広げることにした。
すぐれたパフォーマンスが人を快感や陶酔の境地へいざなうことをシュピースとリンバクは知っていたのだ。
1989年にバリ島の友人とディスコへ出かけたことがある。彼の踊りはバリス舞踏そのものであり、周りの白人の踊りと一線を画していたが完全に溶け込んで自然だった。彼はバリの手の動きの陶酔にひたることを選択していた。
唐辛子によるトランス
バリのキーワードはなにかと問われたら迷わずトランスと答える。バリは生活のあらゆるところでトランスに結び付いている。祭り、チリ唐辛子の多食、香の匂い、マジック、光る織物による衣装、白黒のポレン等々。
チリの多食
ドライバーのRが毎食に唐辛子10本を食べると言う。私は一本もたべられない。せいぜいチリ醤油にしてたらすくらいで、それで充分においしい。しかし多くのインドネシア人は10本程度を平気で食べる。単に辛い物が伝統的に好きという事ではない。ドライバーRが唐辛子を食べると多幸感に襲われると説明してくれた。自らもカプサイシンオイルで経験し、またどこかで聞きかじったことはあったが実際にインドネシア人からその効果について聞くのは初めてであり、なるほどそうかとおおいに納得できた。
かつてタイでカプサイシン入りのマッサージオイルを体に塗ったことがある。猛烈に刺激が強く痛いので驚いたが数分後には痛みが完全に引き、そのあと確かに体が軽くなり多幸感ともいうべきものを味わった経験がある。
唐辛子は単に食物を超えた存在なのだ。βエンドルフィンを放出するメカニズムが唐辛子の辛み成分カプサイシンにはある。カプサイシンが体に入るとカプサイシン受容体が火傷とおなじシグナルととらえ体がエマージェンシー信号を出す。このカプサイシンによるエマージェンシーは一時的なものである。わさびも似たように一時的だが唐辛子はやや長い。
火傷と異なり実際には体を損傷していないので身体に実害はなくすみやかにエマージェンシー信号は消えるが、体温の上昇や快感物質βエンドルフィンのみが残り多幸感をもたらす。この価格が上がるとインドネシア人は大騒ぎするのは単なる食べ物の域をこえた重要なものだからだ。
似たようなメカニズムを足裏マッサージでも経験する。足裏や足指の間に痛点がありそこをぐりぐりやられるともうやめてくれと言いたくなるほど痛いが、すぐに快感に変わる。これも同じように理解することができる。痛点はカプサイシン受容体と同じく実際には身体に危害はないのだが痛みを感じる点が足裏周辺にはあり、そこを刺激することでβエンドルフィンを出すのだろう。
われわれの体は騙しの痛点や受容体をもっている。じつに不思議で神秘なメカニズムだと思う。バリ人はこのチリを愛好するのはトランスを愛するゆえだろう。
バリでは至る所でトランスに接する。例えば日常に食するトウガラシ、バリではチリをドライバーのRは毎食に唐辛子10本を食べると言う。私は一本もたべられない。せいぜいチリ醤油にしてたらすくらいで、それで充分においしい。
しかし多くのインドネシア人は10本程度を平気で食べる。単に辛い物が伝統的に好きという事ではない。ドライバーRが唐辛子を食べると多幸感に襲われると説明してくれた。自らもカプサイシンオイルで経験し、またどこかで聞きかじったことはあったが実際にRからその効果について聞くのは初めてであり、なるほどそうかとおおいに納得できた。
かつてタイでカプサイシン入りのマッサージオイルを体に塗ったことがある。猛烈に刺激が強く痛いので驚いたが数分後には痛みが完全に引き、そのあと確かに体が軽くなり多幸感ともいうべきものを味わった経験がある。
唐辛子は単に食物を超えた存在なのだ。βエンドルフィンを放出するメカニズムが唐辛子の辛み成分カプサイシンにはある。カプサイシンが体に入るとカプサイシン受容体が火傷とおなじシグナルととらえ体がエマージェンシー信号を出す。このカプサイシンによるエマージェンシーは一時的なものである。わさびも似たように一時的だが唐辛子はやや長い。
火傷と異なり実際には体を損傷していないので身体に実害はなくすみやかにエマージェンシー信号は消えるが、体温の上昇や快感物質βエンドルフィンのみが残り多幸感をもたらす。この価格が上がるとインドネシア人は大騒ぎするのは単なる食べ物の域をこえた重要なものだからだ。
似たようなメカニズムを足裏マッサージでも経験する。足裏や足指の間に痛点がありそこをぐりぐりやられるともうやめてくれと言いたくなるほど痛いが、すぐに快感に変わる。これも同じように理解することができる。痛点はカプサイシン受容体と同じく実際には身体に危害はないのだが痛みを感じる点が足裏周辺にはあり、そこを刺激することでβエンドルフィンを出すのだろう。
われわれの体は騙しの痛点や受容体をもっている。じつに不思議で神秘なメカニズムだと思う。カプサイシンによって体に異常を来したと感じた脳が、ついにはエンドルフィンまで分泌してしまうのである。
エンドルフィンは、脳内モルヒネとも呼ばれ、麻薬のモルヒネと同じような鎮痛作用があり、疲労や痛みを和らげる役割を果たしている。つまり、カプサイシンによる痛覚の刺激を受けた脳は、体が苦痛を感じて正常な状態にないと判断し、痛みを和らげるためにエンドルフィンを分泌するのである。そして結果的に私たちは陶酔感を得る。
匂いとトランス
早朝に起きて窓を開けるたびに微かな薫香がただよってくる。花の薫だと思うのだがどの花から来るものかはわからない。朝日が昇る頃にはこの匂いは消えてしまう。夜の闇の間のみ放つ匂いなのだろうか、あるいは人が活動を始めるころになるとこの微妙な薫を感じなくなるのだろうか。ヤコウボクあるいはナイトジャスミンと呼ぶ花のせいだとバリの人は云うが確かな事はわからない。
サンヒャンの舞は祈祷師の儀式上の行為で、悪魔、病気、その他の悪影響から村を追い払うために用いられている。供物、祈る人々、線香の匂いと煙、歌と詠唱のなか、踊り子はトランスに入り神あるいは精霊(ドーダリ)が若い純潔な女性に入り込む。ガムランの旋律で踊る。踊り子は耳にジュプンの花を挿している。
この線香の匂いはトランスに有効に働く。バリの街角でふとよい匂いがして立ち止まることがあった。祠に茶色の線香が立てかけられており、そこから陶酔させる匂いが一筋の煙とともに到来する。
いつもジュプンの落花を拾い集めている婆さん、歯は抜け落ちて、枯れたような風情で歩いている。拾い集めては砂浜に乾くまで干す。すっかり乾いて黒く変色したものを線香屋に売る。キロ300から400円くらいらしい。バリのどこにでも見られる風景だがこれが上等の線香の原料になる。バリで朝晩に漂う匂いのよさに感動することがあるが、実はジュプンから採った天然の薫りだったのだ。
この花は素晴らしい芳香をもつので、線香の匂いもすばらしい。日本のお彼岸などでお墓に煙っているあの臭い線香とは比較にならない。みやげもの売り場の線香でなく土地の人が家の門にある小さな祠風の祭壇に供えるものにはっとするくらい素晴らしい薫のものがある。人工のまぜものなし、100%ジュプンなのだろう。
市場でセダップ・マラム Sedap malamと呼ばれる白い花をときどき買ってテーブルに挿すが、これはインドネシア語で夜に匂う花との風雅な意味で、この花も薫は夜に匂うものらしい。
ある日に乗ったタクシードライバーはシンガラジャの出身で、今晩遅く村に帰るという。ガルンガンやクニンガンそのほか各種の祭り=セレモニーでは彼の亡くなった父がやってくるのが感じられるといった。どんな風に感じるのかと問うと、父の霊がやってくると、花のような芳香がまわりにたちこめるのだそうだ。霊がやってくるとよい匂いがたちこめるとははじめて聞いた。霊というとなにやらおどろおどろしいものにしがちだが、芳香が立ち上るとは何と素敵な霊の来臨であることか。
さて匂いについてバリ人はどう考えているか。日本人が五大として知っているのは地・水・火・風・空で、またの名を五輪という。宮本武蔵の「五輪の書」の五輪だ。世界はこの5大元素からなるといにしえの日本人は理解した。
バリではこれが土・におい・風・光・水になる。これも又、五大に劣らず興味深い五元素だ。「におい」と「光」が五大にはないバリ特有のものだ。この匂いと光、いずれもトランスに決定的な効果をもたらす。