まさおレポート

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パスカルの「神の存在証明」と歎異抄 同と異

2021-05-26 | AIの先にあるもの

理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す『パンセ』233節

パスカルの賭けと呼ばれるこの言明は確率論の新たな領域を描き出したとして有名だ。確率論でしか表現できないと言われる量子力学の基礎を与えた人の一人ということは可能だろう。

このパスカル『パンセ』の一節からはその証明が正しいかどうかよりも「なるほどね、損得の確率で神の存在を証明するとはすごい証明方法だな」と感心してしまう。と同時に神の存在に対してどこか強迫観念のような雰囲気をも感じてしまう。ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のイワンの悩みをどこかで感じてしまうのだ。

デカルトも「方法序説」で神の存在証明を試みており、この近代科学の元祖とも呼べる両巨頭が共に神の存在証明に関わっていることから近代科学への道を押し開いたという点で感銘を覚えるが、一方痛ましいほどに当時の彼らが神の存在証明で格闘していたことも感じられる。

翻って仏教ではこのように「仏」の存在証明で格闘した人はしらないがひょっとして当時のインドの無名の哲学者のゼロの発明や空論が哲学的な仏の存在証明と言えるのかもしれないと思い始めている。 


パスカルも神を信じたほうが確率的によいと述べたが親鸞も歎異抄で地獄は一定すみかぞかし。法然を信じて浄土にいく確率があれば、どのみち地獄へ行くよりもよいと述べている。

類似点が興味深い。


念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。

そのゆゑは、自余の行はげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定すみかぞかし。歎異抄 第二条

①「自余の行はげみて仏になるべかりける身が」の自余の行とは自行化他の行で法華経の修行を指す。仮に親鸞がこの法華経の修行を志しても 「いづれの行もおよびがたき身となれば」として、到底かなわぬと見て地獄に行く。

②「念仏を申して」日蓮の四箇格言に唱えるように地獄におちる。

③「とても地獄は一定すみかぞかし。」①でも②でもどっちにしても地獄に行く。

④ならば「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」と腹を決める。

この①から④まではなんとパスカル『パンセ』の233節「得るときは全てを得、失うときは何も失わない」と似ていることか。

しかし大事な点で異なるとも言える。

歎異抄では「得るときは浄土に生まる、失うときはどっちにしても地獄だ」となる。つまりパスカルの「何も失わない」と、歎異抄のどっちにしても地獄行となる、この違いは興味深い。

パスカルの確率論の背後にあるものは近代合理主義ともいうべきもので、一方歎異抄はその後の武士道にも通じる覚悟を情緒として述べる。

2019-11-15 15:43:02初稿


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