「自己とは何か」統一された自己感(sence of self)を生み出す部位は存在するのか。インド哲学を始めとして探求、言及がなされてきたが、自己とは何かという疑問を,脳の活動を調べる脳機能イメージング技術によって追求し、内側前頭前野とする研究もあるらしい。
さて、これらの研究はインド哲学に反論や回答が可能か、いまだ可能とは思えない。数学や物理学の深淵にせまる進歩と比べるといまだ幼稚な段階にあるようだが、それだけ難しい問題だということだろう。
「インド哲学七つの難問」メモ その3
①「ヤージャナヴァルキヤ(紀元前8~7世紀)は、・・・地の中に住し、地とは別ものであり、地が知らず、地を身体とし、地を内部で統御しているもの、これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。
②水の中に 火の中に 中空の中に 風の中に 天の中に 太陽の中に 方角(空間)の中に 月と星宿の中に 虚空の中に 闇の中に 光の中に(ここまでは宇宙的環境をなす要素である。仏教でいえば、器世間 生き物がいきる器としての環境世界をなす要素だといえる。万物の中に 仏教でいえば有情世間)・・・気息のなかに(生命エネルギー) 発声器官のなかに( 行為器官) 眼の中に(感官) 耳の中に(感官) 意の中に(心という内官) 皮膚の中に(感官)・・・認識の中に(感官と心という内官により生じた認識作用) 精子の中に(行為器官)・・・ヤージャナヴァルキヤは、自己は、これらすべてのなかにあるけれども、それらとは異なるものであり、それらを内から照らすものだといっている。p94
③なお、紀元後4世紀にヴァスパンドゥ世親によって完成された唯識論では、・・・じつは本質的にはほとんど有我説なのである。p96
④認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己はしりえないといっているのである。p99
⑤紀元後8世紀の不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラが・・・なぜなら、(認識しようとする欲求が)認識主体を対象とすると、認識主体と、認識しようとする欲求とは、無限後退するという論理的過失に陥るからである。p99
⑥シャンカラ(8世紀)は・・・自己が存在することは否定できないから、「に非ず、に非ず」といって・・・「これはわたくしではない、これはわたくしではない」といったふうにして、自己に到達するのである。p103
⑦世界は自己をみることがない。幻影の世界を成り立たせている無明(根本的無知)が取払われたとき、世界は消滅し、自己のみがひとりのこる。・・・唯識説までいって、仏教は開祖ゴータマ・ブッダを飛び越えて、はるか昔へ先祖帰りしてしまったのである。p106