サムエル記下10章
5節「この人たちが甚だしい辱めを受けたという知らせがダビデに届くと、…ひげが生えそろうまでエリコにとどまり、それから帰るようにと言わせた」(新共同訳)。
1節「その後、アンモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった」。本章はアンモンとアラムの対戦であるが、その発端はアンモン人の王の死に際して弔意に訪れたダビデの使者を辱めたことからである。ナハシュがダビデに対して「忠実であった」という記事はないが、8章3~8節の対アラム戦で勝利した時、ハマトの王トイが戦勝祝いを贈った。その後にダビデが聖別した品々の中にアンモン人から得たものがある。ダビデは外交的手腕でアンモン人に敬意を表したものと思われる(2節)。ところが高官たちが王ハヌンに弔問の使節というのは偽りで町を探りに来たと言ったので、ハヌンはこれを真に受けて、使節の衣服を腰から下を切り落とし、髭を半分剃り落として追い返した。ダビデはこの使節を髭が伸びるまでエリコに留めおいて帰らせた(3~5節)。使節の受けた辱めを癒すダビデの温情が伺える。
6節「アンモン人は、ダビデの憎しみをかったと悟ると、ベト・レホブおよびツォバのアラム人に人を遣わして歩兵二万を傭兵として要請し、マアカの王には兵一千、トブには兵一万二千を要請した」。ダビデの憎しみをかうことを承知の上で彼は戦争を挑み、傭兵軍を募った。王の短慮と失政が民を戦禍に巻き込む。ダビデはこれを聞き、ヨアブを指揮官にして勇士たち全軍を対戦に向かわせた(7~8節)。戦線がアラム軍とアンモン軍とのはさみ打ちになっていることを見たヨアブは兵士を二手に分け、精鋭軍をアラムに向け、後は対アンモン軍をアビシャイの指揮下に置いて戦列を整えた(9~11節)。
13節「ヨアブと彼に従う兵士たちが戦おうと迫ると、アラム軍はヨアブの前から逃げ去った」。これを見たアンモン軍もアビシャイの前から逃げ出し、都ラバの町に入った。ヨアブはアンモン軍をそのままにして引揚げエルサレムに帰った(14節)。
15節「イスラエルに打ち負かされたと見ると、アラムは団結し」。アラブ砂漠で活躍するアラムの王ハダドエゼル(8章5節)はユーフラテスからの援軍を要請し、司令官ショバクに率いられて再度挑戦し、ヘラムに着いた(16節)。この報告を受けてダビデもイスラエルの全軍もヨルダン川を渡りヘラムに向いアラム軍と対戦したのである。アラム軍は敗走して勝敗は決した。アラムの戦車兵七百、騎兵四万を殺し、軍の司令官ショバクもその場で打ち殺した(16~18節)。ハダドエゼルに隷属していた王たちはみな、イスラエルに敗北したことを認め、和を請い、イスラエルに隷属することとなった。アラム人はこの戦争で敗北したことでイスラエルを恐れ二度とアンモン人を支援しなかったのである(19節)。
一体この戦争は何だったのか。11章に出てくる戦争の最中に起きたダビデの醜聞事件の複線といわれる。とすれば、アンモンのハヌンのことと併せて、箴言16章32節が響いてくる。「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。…」。口語訳では「…自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」となっている。
5節「この人たちが甚だしい辱めを受けたという知らせがダビデに届くと、…ひげが生えそろうまでエリコにとどまり、それから帰るようにと言わせた」(新共同訳)。
1節「その後、アンモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった」。本章はアンモンとアラムの対戦であるが、その発端はアンモン人の王の死に際して弔意に訪れたダビデの使者を辱めたことからである。ナハシュがダビデに対して「忠実であった」という記事はないが、8章3~8節の対アラム戦で勝利した時、ハマトの王トイが戦勝祝いを贈った。その後にダビデが聖別した品々の中にアンモン人から得たものがある。ダビデは外交的手腕でアンモン人に敬意を表したものと思われる(2節)。ところが高官たちが王ハヌンに弔問の使節というのは偽りで町を探りに来たと言ったので、ハヌンはこれを真に受けて、使節の衣服を腰から下を切り落とし、髭を半分剃り落として追い返した。ダビデはこの使節を髭が伸びるまでエリコに留めおいて帰らせた(3~5節)。使節の受けた辱めを癒すダビデの温情が伺える。
6節「アンモン人は、ダビデの憎しみをかったと悟ると、ベト・レホブおよびツォバのアラム人に人を遣わして歩兵二万を傭兵として要請し、マアカの王には兵一千、トブには兵一万二千を要請した」。ダビデの憎しみをかうことを承知の上で彼は戦争を挑み、傭兵軍を募った。王の短慮と失政が民を戦禍に巻き込む。ダビデはこれを聞き、ヨアブを指揮官にして勇士たち全軍を対戦に向かわせた(7~8節)。戦線がアラム軍とアンモン軍とのはさみ打ちになっていることを見たヨアブは兵士を二手に分け、精鋭軍をアラムに向け、後は対アンモン軍をアビシャイの指揮下に置いて戦列を整えた(9~11節)。
13節「ヨアブと彼に従う兵士たちが戦おうと迫ると、アラム軍はヨアブの前から逃げ去った」。これを見たアンモン軍もアビシャイの前から逃げ出し、都ラバの町に入った。ヨアブはアンモン軍をそのままにして引揚げエルサレムに帰った(14節)。
15節「イスラエルに打ち負かされたと見ると、アラムは団結し」。アラブ砂漠で活躍するアラムの王ハダドエゼル(8章5節)はユーフラテスからの援軍を要請し、司令官ショバクに率いられて再度挑戦し、ヘラムに着いた(16節)。この報告を受けてダビデもイスラエルの全軍もヨルダン川を渡りヘラムに向いアラム軍と対戦したのである。アラム軍は敗走して勝敗は決した。アラムの戦車兵七百、騎兵四万を殺し、軍の司令官ショバクもその場で打ち殺した(16~18節)。ハダドエゼルに隷属していた王たちはみな、イスラエルに敗北したことを認め、和を請い、イスラエルに隷属することとなった。アラム人はこの戦争で敗北したことでイスラエルを恐れ二度とアンモン人を支援しなかったのである(19節)。
一体この戦争は何だったのか。11章に出てくる戦争の最中に起きたダビデの醜聞事件の複線といわれる。とすれば、アンモンのハヌンのことと併せて、箴言16章32節が響いてくる。「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。…」。口語訳では「…自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」となっている。