ルカ17章
16節「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」(新共同訳)
1節「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である』」小見出し『赦し、信仰、奉仕』。弟子たちに留まらず、キリストに結ばれている者の対する勧めである。躓かせる罪の負債はお互いの赦しに結ばれるものである。「躓き」(スキャンダロン)は、獣の首に仕掛ける罠である。首にひき臼を掛けられ海に投げ込まれるよりましだという。
3節「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。神は赦しに制限しない方だから、何度でも赦すのである(4~5節)。「七回」とは何回でも、ということである。
5節「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき」。弟子たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下せ』と言えばその通りになる(6節)。神の支配の力は、人の思いを超えるのである。
11節「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」。ある村で、重い皮膚病の男十人が出迎えて、声を張り上げ「わたし達を憐れんでください」と言った(12~13節)。ひとりサマリア人で九人はガリラヤ出身だったが、彼らは一緒に生活していた。病気でなければ在り得ない。何故ならここには二重の差別があったからだ。紀元前七世紀イスラエルがアッスリヤに滅ぼされ、アッスリヤ人らが移住し、そして生まれた混血人がサマリア人と呼ばれ、ユダヤ人とは長く反目し合う因縁の仲だった(ネヘミヤ13章28節)。更に「重い皮膚病」(ハンセン氏病)は感染のため隔離されていた。社会的偏見と宗教的差別の精神的苦痛があった。
14節「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた」。病を癒された動機は「憐れみ」で同情ではない(13・15章20節)。ここでは、直ちに祭司たちのところに行って、体を見せなさいと伝えた。15章と違うのは、必ず癒されるというイエスの言葉と先取りの信仰であり、反芻し腹の底にストンと落ちるまで信じて歩いていたに違いない。彼らは、そこへ行く途中で清くされた理由がそこにある。イエスの言葉を信じた通りになることが「からし種一粒ほどの信仰」(5節)である。そして十人は、願い通りに癒された。
15節「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」。二重の差別を受けていたサマリア人だけが踵を返して、大声で神を賛美し足もとに平伏し感謝した。それは肉体の癒しに留まらず、イエスを通して神との交わりの回復が与えられ感謝した。他の九人は何故来なかったのか(17節)。
彼らはおそらく神殿に馳せ参じ、祭司に証明を貰い懐かしい我が家に帰ったであろう。問題は祭司から証明を貰う必要があったのか。イエスにより与えられた新しい日々を(有り難き事として)感謝し賛美を神に表わすことではなかったか。差別からの解放はそこから始まる。イエス御自身が呪いとなり罪と死の病に打たれて十字架にかかり、失われた人間性を回復し癒された。祈りと賛美はその神の御業に対する感謝の応答であり「立ち上がって、行きなさい」(19節)は、イエスの証人となることである。
16節「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」(新共同訳)
1節「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である』」小見出し『赦し、信仰、奉仕』。弟子たちに留まらず、キリストに結ばれている者の対する勧めである。躓かせる罪の負債はお互いの赦しに結ばれるものである。「躓き」(スキャンダロン)は、獣の首に仕掛ける罠である。首にひき臼を掛けられ海に投げ込まれるよりましだという。
3節「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。神は赦しに制限しない方だから、何度でも赦すのである(4~5節)。「七回」とは何回でも、ということである。
5節「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき」。弟子たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下せ』と言えばその通りになる(6節)。神の支配の力は、人の思いを超えるのである。
11節「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」。ある村で、重い皮膚病の男十人が出迎えて、声を張り上げ「わたし達を憐れんでください」と言った(12~13節)。ひとりサマリア人で九人はガリラヤ出身だったが、彼らは一緒に生活していた。病気でなければ在り得ない。何故ならここには二重の差別があったからだ。紀元前七世紀イスラエルがアッスリヤに滅ぼされ、アッスリヤ人らが移住し、そして生まれた混血人がサマリア人と呼ばれ、ユダヤ人とは長く反目し合う因縁の仲だった(ネヘミヤ13章28節)。更に「重い皮膚病」(ハンセン氏病)は感染のため隔離されていた。社会的偏見と宗教的差別の精神的苦痛があった。
14節「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた」。病を癒された動機は「憐れみ」で同情ではない(13・15章20節)。ここでは、直ちに祭司たちのところに行って、体を見せなさいと伝えた。15章と違うのは、必ず癒されるというイエスの言葉と先取りの信仰であり、反芻し腹の底にストンと落ちるまで信じて歩いていたに違いない。彼らは、そこへ行く途中で清くされた理由がそこにある。イエスの言葉を信じた通りになることが「からし種一粒ほどの信仰」(5節)である。そして十人は、願い通りに癒された。
15節「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」。二重の差別を受けていたサマリア人だけが踵を返して、大声で神を賛美し足もとに平伏し感謝した。それは肉体の癒しに留まらず、イエスを通して神との交わりの回復が与えられ感謝した。他の九人は何故来なかったのか(17節)。
彼らはおそらく神殿に馳せ参じ、祭司に証明を貰い懐かしい我が家に帰ったであろう。問題は祭司から証明を貰う必要があったのか。イエスにより与えられた新しい日々を(有り難き事として)感謝し賛美を神に表わすことではなかったか。差別からの解放はそこから始まる。イエス御自身が呪いとなり罪と死の病に打たれて十字架にかかり、失われた人間性を回復し癒された。祈りと賛美はその神の御業に対する感謝の応答であり「立ち上がって、行きなさい」(19節)は、イエスの証人となることである。