ルカ福音書第24章
32節「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(新共同訳)
1節「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」小見出し『復活する』。四つの福音書に復活記事があるが、それぞれ特徴がある。ルカ福音書は特に違った記述である。葬られた墓を見届けたのはガリラヤから一緒に来た婦人たち(23章55節・8章2~3節see)で、週の初めに香料をもって墓に早朝出掛け、遺体が見当たらなかったのである(2~3節)。マタイは二人、マルコは三人、ヨハネは一人だった。
4節「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」。婦人らは墓と周囲を捜したが、見当たらないで途方に暮れていた時、二人の人(神から遣わされた)が、あの方は復活なさった、ガリラヤで告げられた十字架と復活の事(9章22、44節)を思い出せと言った(6~7節)。そこで彼女たちはこの一部終始を11人の使徒たちに話したが戯言として取り合わなかった(8~11節)。
13節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら」。エルサレムから南方十二キロ程の村である。婦人たちが話していた墓にイエスの遺体が「見当たらなかった」(3節、33~34節)ことを話し合い論じて合っていた。そこにイエスが近づいて来て、一緒に歩き始められた(14~15節)。
16節「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。ここに重要な出来事が示されている。復活の主イエスの方から近づいて同伴者となられたこと、そして「何を論じているのか」とイエスの方から声を掛けられたことである。これは復活信仰の原点となる。二人は「暗い顔をして立ち止まった」(口語訳・悲しそうな顔をして~)。そしてこの数日エルサレムで起きたこと事を一部始終伝えたのである(17~22節)。
25節「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。鈍くなった心を砕かれ、神の約束であるメシア復活の出来事を、イエスご自身が聖書全体にわたり説明されたのである(27節)。ここで起きた事柄は何か。詩127篇130節である。
29節「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」。ここではまだ同伴者が復活のイエスであることを知らない。先に行こうとするのを無理に引きとめ、その方が夕食の席で賛美と祈りをささげ「パンを裂いて」(割って、ちぎって=クラシス)」(22章19節と同じ)、手渡された様子を見て、最後の晩餐の時と同一人物だと二人は直感した。この方が復活のイエスだと判った時、そのお姿は見えなくなった(31節)。
32節「二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」。彼らは時を移さず、直ちにエルサレムに引き返して、弟子たちにこの出来事を伝えた。この時の二人は、エマオ村に帰ってくる時とは打って変わり、心燃やされ新たな生きる望みを与えられエルサレムに引き返した。ここに人生の方向転換がある。キリスト者は、このエマオ途上の復活主イエスとの出会を必要とする。
32節「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(新共同訳)
1節「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」小見出し『復活する』。四つの福音書に復活記事があるが、それぞれ特徴がある。ルカ福音書は特に違った記述である。葬られた墓を見届けたのはガリラヤから一緒に来た婦人たち(23章55節・8章2~3節see)で、週の初めに香料をもって墓に早朝出掛け、遺体が見当たらなかったのである(2~3節)。マタイは二人、マルコは三人、ヨハネは一人だった。
4節「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」。婦人らは墓と周囲を捜したが、見当たらないで途方に暮れていた時、二人の人(神から遣わされた)が、あの方は復活なさった、ガリラヤで告げられた十字架と復活の事(9章22、44節)を思い出せと言った(6~7節)。そこで彼女たちはこの一部終始を11人の使徒たちに話したが戯言として取り合わなかった(8~11節)。
13節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら」。エルサレムから南方十二キロ程の村である。婦人たちが話していた墓にイエスの遺体が「見当たらなかった」(3節、33~34節)ことを話し合い論じて合っていた。そこにイエスが近づいて来て、一緒に歩き始められた(14~15節)。
16節「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。ここに重要な出来事が示されている。復活の主イエスの方から近づいて同伴者となられたこと、そして「何を論じているのか」とイエスの方から声を掛けられたことである。これは復活信仰の原点となる。二人は「暗い顔をして立ち止まった」(口語訳・悲しそうな顔をして~)。そしてこの数日エルサレムで起きたこと事を一部始終伝えたのである(17~22節)。
25節「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。鈍くなった心を砕かれ、神の約束であるメシア復活の出来事を、イエスご自身が聖書全体にわたり説明されたのである(27節)。ここで起きた事柄は何か。詩127篇130節である。
29節「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」。ここではまだ同伴者が復活のイエスであることを知らない。先に行こうとするのを無理に引きとめ、その方が夕食の席で賛美と祈りをささげ「パンを裂いて」(割って、ちぎって=クラシス)」(22章19節と同じ)、手渡された様子を見て、最後の晩餐の時と同一人物だと二人は直感した。この方が復活のイエスだと判った時、そのお姿は見えなくなった(31節)。
32節「二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」。彼らは時を移さず、直ちにエルサレムに引き返して、弟子たちにこの出来事を伝えた。この時の二人は、エマオ村に帰ってくる時とは打って変わり、心燃やされ新たな生きる望みを与えられエルサレムに引き返した。ここに人生の方向転換がある。キリスト者は、このエマオ途上の復活主イエスとの出会を必要とする。