日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

わたしの血による新しい契約である

2015-08-22 | Weblog
  ルカ22章 

  20節「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(新共同訳)

  1節「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」小見出し『イエスを殺す計画』。イエスに対する殺意は宣教の当初からあった(4章29節、6章11節)。受難の予告も12弟子選任の後に既に告げている(9章22節、43~45節)。ヘロデの殺意も早くからあった(13章31節)。ここから祭司長や律法学者らがその策を図っている時、ユダの相談が持ちかけられその機会が来たと考えた(2~4節)。
  5節「彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた」。ユダは承諾し、群衆のいない時、イエスを引き渡すよい機会を狙っていた(6節)。
  7節「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」。ユダヤ暦ではニサンの月第1週で、除酵祭は4日目と定められ、過越の食事をする準備をペトロとヨハネに依頼し、何処でするかを尋ねたので、水甕を運んでいる男と出会い、その人の家について行くようにと指示された(8~11節)。ついて行くと席の整った二階の広間を見せてくれて、そこに準備をした。イエスの言われた通りだった(13節)。ユダの密かな計画を察知した上で、場所を定めたと言える。「時刻になった」とは弟子が揃ったということである(14節)。
  15節「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた』」。しかし神の国で過越が成し遂げられる迄、この過越の食事をとることはないと言われた(16節)。イエスが示される過越とは、旧い形骸化した「過越祭」でなく、御自身が成し遂げられるものである(16節)。
  19節「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」。これこそが「神の国」の食卓である。イエスご自身が十字架で体を裂いて神に献げられた仔羊となるのである。
  20節「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。ここではキリストが十字架上で血を流された出来事である。このパン裂きと杯はキリスト教会における聖餐の制定語となっている(第一コリント11章23~25節)。画家ダビンチの「最後の晩餐」はこの場面が描かれているが、聖書学から考察すると、当時のユダヤ教が執り行い、繰り返されていた「仔羊の肉と血を盛った器」が描かれる筈の「過越祭」の会食でないことを知る必要がある。
  21節「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」。イエスの弟子として裏切るイスカリオテのユダが、食卓から去って行くのは、自らの罪と過ちに気付くことが無かったからで、申しそうならば、罪の贖いを示し与えられる神の国の食卓に着くことができた。弟子たちの議論はそれを示す(23節)。