日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

気を落とさずに絶えず祈らなければならない

2015-08-18 | Weblog
  ルカ18章 

  1節「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(新共同訳)

  1節「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」小見出し『やもめと裁判官のたとえ』。この祈りの譬は神の国待望という終末信仰に関連しており、その到来の遅延にともない孤独と絶望に陥る時、神の義が貫かれるよう失望せずに絶えず祈ることを教えたものである。
  2節「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」。この裁判官は「不正な管理人」(16章)と同じユダヤ的対立対比の表現法である。裁判官は複数制であったが、ひとりで采配出来るのはヘロデ配下の異邦人で、神殿の献金から高給を取っていた神を恐れない裁判官がいたといわれる。
  3節「ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」。そこに財産を奪われようとして訴えてきたやもめがいた。彼女は、金銭で賄賂を贈るすべを持たない貧しい女だったので、只々訴え続ける以外になかった(口語訳“たびたび来た”)。裁判官も取り合おうとしなかった(“拒み続けた”・4節)。
  5節「しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから裁判をしてやろう。さもないとひっきりなしにやって来て、さんざんな目に遭わすにちがいない」。「さんざんな目に遭わす」(フポピスゾー)を祥訳聖書は「襲いかかって、わたしを絞め殺す」となっている。この裁判官にしてこの寡婦である。困窮のあまり自暴自棄になり、裁判官を世間一般に破産させた人間だとなじる事となる。
  7節「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。これと対比して、真実な神は正しい審判をしない筈はないと言われた。正しい審判とは、神の国と義の実現であり、キリストの再臨を指している。選ばれた人たちとは、キリスト者である。ユダヤ教では、間断なき祈りで神を煩わせてはならない。人は一日三回以上祈るべきではない。くどくど祈ることは禁じられていたのである。絶えず祈る事こそ、キリスト者にだけ与えられた、最も相応しい信仰の証しに外ならない。
  9節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」小見出し『ファリサイ派の人と徴税人』。ここも7節の祈りに関する教えである。
  10節「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」。ファリサイ派は十戒の三の掟「姦淫、盗み、偽証しない」を忠実に守り、二度の断食と十分一献金をしているという。一方徴税人は胸を打ち「罪人の私を憐れんでください」と祈る。二人のうち神に義とされて家に帰ったのは徴税人だとイエスは答えた(14節)。見下す者をしりぞけ、謙る者を受入れる神を示された。次の乳飲み子を祝福された箇所(15~18節)も同じ視点で、律法を守りえない乳飲み子は神の救いに値しないとする律法主義をイエスは廃し、神の国はこのような者たちであるとし、乳飲み子を叱った弟子たちを諭したのである(16節)。