エゼキエル20章
34節「強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、わたしはお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める」(新共同訳)
1節「第七年の五月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老たち数人が、主の御心を問うために来て、わたしの前に座った」。小見出し「エジプトからの救いと背信」。前半31節までは出エジプトの罪の歴史。エゼキエルの許に長老たちが訪ねてきた。将来に明るいことを期待したのか。主はお前たちが尋ねても答えないという(3節)。何故か。
4節「あなたは彼らを裁くのか。人の子よ。彼らを裁くのなら、彼らの先祖たちの行った忌まわしいことを彼らに告げなさい」。それはイスラエルを選んだ日、その時主は彼らをエジプトから連れ出し、乳と蜜のながれる地、最も美しい土地に導く(6節)。そして眼の前にある憎むべきものを投げ捨てよと言われた(7節)。しかし捨てなかった(8節)。そこで憤りを彼らに注いだ(9節)。
10節「わたしは、彼らをエジプトの地から連れ出し、荒れ野に導いた」。そして荒れ野で掟を与えた。それを行えば、それによって生きる(11節)。安息日を与え彼らを聖別したが、掟に背き、安息日を汚し偶像に引かれていった(13~16節)。
17節「それでも、わたしの目は彼らを憐れんで、彼らを滅ぼさなかった。彼らを荒れ野で滅ぼし尽くすことはしなかった」。そして重ねて神の掟を守り安息日を聖別し、偶像礼拝に陥らないよう諭した。そして諸国民の前で、わたしの名を汚すことがないようにした(19~26節)。
27節「それゆえ、イスラエルの家に語りなさい。人の子よ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちの父祖は、わたしに対して裏切りを行い、またもや、わたしを冒涜した」。新しい土地に入っても主を冒涜し子供を献げ物とした(31節=モレク礼拝)。わたしは決して求めに応じない。
32節「お前たちは『我々は諸国民のように、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう』と言っているが、お前たちが心に思うそのようなことは決して実現しない」。主なる神はそれを阻止する。バビロン捕囚という審判によってである。
34節「強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、わたしはお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める」。荒れ野に導き、そこで主は顔と顔を合わせて民を裁く(35節)。それは、お前たちの父祖をエジプトの国の荒れ野で裁いたように裁く(36節)。お前たちを牧者の杖(鞭=口語訳)の下を通らせて、契約の絆のもとに導き(37節)。わたしに逆らい背く者を選り別けるが(新改訳)、イスラエルの地に入ることはできない(38節)。寄留の地で偶像のもとに行きそれに仕えるが、その後二度と偶像に献げものをして、必ずわたしの聖なる名を汚すことはなくなる(39節)。
40節「わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める」。神が求める献げ物が示される。わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる(41節)」。口語訳「こうばしいかおりとして、あなたがたを喜んで受けいれる」。すべてを焼き尽くす供え物であり、全き悔い改めである(詩51編19節see)。
43節「お前たちは自分の歩んだ、自分を汚したすべての行いを思い起こし、あらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる」。ここでは罪との決別である。
34節「強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、わたしはお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める」(新共同訳)
1節「第七年の五月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老たち数人が、主の御心を問うために来て、わたしの前に座った」。小見出し「エジプトからの救いと背信」。前半31節までは出エジプトの罪の歴史。エゼキエルの許に長老たちが訪ねてきた。将来に明るいことを期待したのか。主はお前たちが尋ねても答えないという(3節)。何故か。
4節「あなたは彼らを裁くのか。人の子よ。彼らを裁くのなら、彼らの先祖たちの行った忌まわしいことを彼らに告げなさい」。それはイスラエルを選んだ日、その時主は彼らをエジプトから連れ出し、乳と蜜のながれる地、最も美しい土地に導く(6節)。そして眼の前にある憎むべきものを投げ捨てよと言われた(7節)。しかし捨てなかった(8節)。そこで憤りを彼らに注いだ(9節)。
10節「わたしは、彼らをエジプトの地から連れ出し、荒れ野に導いた」。そして荒れ野で掟を与えた。それを行えば、それによって生きる(11節)。安息日を与え彼らを聖別したが、掟に背き、安息日を汚し偶像に引かれていった(13~16節)。
17節「それでも、わたしの目は彼らを憐れんで、彼らを滅ぼさなかった。彼らを荒れ野で滅ぼし尽くすことはしなかった」。そして重ねて神の掟を守り安息日を聖別し、偶像礼拝に陥らないよう諭した。そして諸国民の前で、わたしの名を汚すことがないようにした(19~26節)。
27節「それゆえ、イスラエルの家に語りなさい。人の子よ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちの父祖は、わたしに対して裏切りを行い、またもや、わたしを冒涜した」。新しい土地に入っても主を冒涜し子供を献げ物とした(31節=モレク礼拝)。わたしは決して求めに応じない。
32節「お前たちは『我々は諸国民のように、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう』と言っているが、お前たちが心に思うそのようなことは決して実現しない」。主なる神はそれを阻止する。バビロン捕囚という審判によってである。
34節「強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、わたしはお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める」。荒れ野に導き、そこで主は顔と顔を合わせて民を裁く(35節)。それは、お前たちの父祖をエジプトの国の荒れ野で裁いたように裁く(36節)。お前たちを牧者の杖(鞭=口語訳)の下を通らせて、契約の絆のもとに導き(37節)。わたしに逆らい背く者を選り別けるが(新改訳)、イスラエルの地に入ることはできない(38節)。寄留の地で偶像のもとに行きそれに仕えるが、その後二度と偶像に献げものをして、必ずわたしの聖なる名を汚すことはなくなる(39節)。
40節「わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める」。神が求める献げ物が示される。わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる(41節)」。口語訳「こうばしいかおりとして、あなたがたを喜んで受けいれる」。すべてを焼き尽くす供え物であり、全き悔い改めである(詩51編19節see)。
43節「お前たちは自分の歩んだ、自分を汚したすべての行いを思い起こし、あらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる」。ここでは罪との決別である。