2019年8月14日朝日新聞朝刊より
長い冬が過ぎ、田んぼに厚く積もった雪が溶けていく。田植えが終わり、稲が育ち、収穫が終わるとまた冬がきて、一面が、雪に覆われていく。
平成の約30年の大半をひきこもり状態ですべてが過ごした青森県弘前市の男性(52)が、自宅2階から眺めていた景色だ。「このままではダメだ」と焦燥にかられたながら、1年、また、1年と過ぎていった。
始まりは、20代前半だった。日本中がバブル景気に沸いていた1980年代の終盤。外出先で突然、吐き気に襲われた。その後の人混みに入ると、しびれるような刺激が走るように、苦しむ姿が不審に思われているような気もして、外に出られなくなった。当時は病院に行かなかったが、振り返ると、パニック障害や対人恐怖症に特徴的な症状だったと思っている。
男性にはいじめられた経験がある。幼稚園で仲間外れにされ、遊戯会のダンスは職員と踊った。小学校では靴を隠され、給食は一人、教室の隅で食べた。中学校では、殴られ、蹴られ、金をせびられた。
なぜ標的にされたのか。思い当たる節はない。高校を出て就職した首都圏のスーパーでも同僚に無視された。3年で退職し、地元へ。発作が起こり始めたのは、その翌年からだ。
20代でひきこもり状態になり、6畳間でラジオを聴いたり、ベッドで寝そべったり、新聞を読んだり。約30年も続くとは考えもしなかった。
昭和の初めに生まれた両親と、3歳上の姉との4人暮らし。土木建設関連の会社を営んでいた父には「怠けるな。働け」と毎晩のように怒られた。「人が怖い。体調が悪い」と訴えても聞き入れてもらえなかったという。当時は「ひきこもり」が今ほど理解されていなかった。穏やかな性格の母は男性を責めなかった。だが、男性は一緒に食事をする時も、無言でたべるとすぐに自室へ。「タダメシの罪悪感」があった。
公共職業安定所には、20代の頃に何度か行った。だが、履歴書にある失業中の「空白」を職員に駄目出しされ、嫌気がさした。30代には発作がひどくなり、気力がさらに衰えた。40代になると床屋にも行けず、母に切ってもらった。
「仕事もせず、家庭も築かず何をしているんだ」と自己嫌悪。「抜けださなくては」と思っても何もできない焦燥感。「取り残されている気がした。苦しみを誰にも相談できない孤独が一番しんどかった」
突然、訪れる引きこもり
現在、未来の羅針盤をなくし、その場で立ち止まり、漂う。時計の針が停止し、明日への希望もなくし、自分の世界に浸る。孤独の世界、隔離された次元に入り込んでしまいます。今日一人、明日一人、増え続けることでしょう。引きこもりの人たち、60万人社会で活躍していれば、外国人実習生はいらなかったはずです。病める国日本はどこをめざすのか?一蓮托生、次は、私がひきこもりになるかもしれません。