当地平塚市は戦前、軍需工場・火薬廠などが沢山作られていたため、太平洋戦争の末期には米軍による空襲の標的にされたと聞きます。中心部が焼け野原になり、東海道53次の一つに数えられた「平塚宿」の多くの建物は灰燼に帰したのです。それなので、この地には明治大正から残るような「歴史的建造物」は皆無であります。
温泉も出ません。老舗の旅館もなし、戦前からやっている著名な飲食店なども聞いたことがありません。
終戦後、市の復興で平塚駅を中心に、大々的な区画整理と道路網の整備が行われ、マス目のように広い道路が作られました。隣接する大磯や茅ケ崎・藤沢は空襲に遭わなかったため、細い不規則な道路、迷路のような不規則な市道がそのまま残ったのとは対照的であります。調子に乗って交差点に片端から信号機を設置したので、信号待ちの多いこと、市外のタクシーの運転手は、平塚に行くのを嫌がると聞いたことがあります。
一方で、平塚市には新幹線が走り高速道路もありますが、その駅もインターCもありません。またJR東海道線一路線のみで、私鉄がありません。平塚が交通の要衝として栄えた歴史を忘れた馬鹿な役人や議員、地元の有力者は、新たに線路が出来たり自動車専用道路を誘致することに反対の姿勢をとったのです。もともと南全体が相模湾、東は相模川で仕切られているので、町としての拡大や隣市などとの交流や人流に制約が多いのです。戦後の振興策が競輪場と七夕まつり(笑)。
もし東海道線が止まると、すぐに孤立します。茅ケ崎まで行って相模線、厚木か小田原まで足を延ばして小田急です。せっかくの「圏央道」も相模川を越えて茅ケ崎が終点であります。
案の定、今となっては人口も減り始め25.7万人 、中心部の町中は開発の余地は無く古いペンシルビルばかりが目立ちます。駅前の通りや商店も寂れシャッター通りと化しています。以前あった3つの百貨店はいずれもつぶれてしまいました。まとまった駐車場がなく駐輪から路駐までうるさく取り締まるために駅前の商店や商業施設に寄り付きません。ちょっといいものを買い物するなら辻堂のテラスモールか横浜まで足をのばすしかありません。南地区の周辺にあった3商店街もほとんど消滅いたしました。焦点はほとんど住宅とマンション、コインパーキングに代わってしまいました。
町おこしに何かやってるなどの話は聞いたこともありません。病院や学校誘致もなく、市役所がやったことは市庁舎の新築と、競輪場のメインスタンドの建替えしか記憶に無いのです。
競輪場と紅谷町の飲み屋や風俗店ばかりが有名になり、風体の怪しい人間や外国人が増えて治安が悪くなりました。暴力団も事務所を構え幾度か殺人を伴う抗争事件も起こっています。
数少ない観光資源となりうる「平塚漁港」は、カラスと地域猫以外に寄り付きません。なにか飲食店が出来ているそうですが、地元住民すら行ったことが無い人がほとんどです。真鶴、小田原や三崎の方では朝市・海の駅などで観光客を呼び込んでいるのですが。
こんな魅力のない町に誰が越してきますか?。若い親御さんが、こんな物騒な街で子育てしようと思いますか。そんなこともわからないで、街全体が活気を失い、衰退し薄汚れていくのを行政はほったらかしにしてきたのです。
「デパートねぇ、高速ねぇ、電車もねぇ、人もいねぇ、たまに見かけるのは猫ばかり」吉幾三の歌じゃあるまいし。
さて、ワタシの住む地区は、その平塚市の南側で、相模川沿いにある住宅地であります。少しの公園や駐車場を除いて、ほとんどが戸建て住宅小規模のアパートであります。古くは半農半漁の田舎町で、戦後になって急速に宅地化されたのです。
住民は、その戦前からの家も多く、「鳥海・府川・水野」などといった海山にちなむ同姓の家が多く見られます。特に海に近い南側は、東海道からはかなり離れていて、本陣などを中心に栄えていた宿場町とは様相が違っていました。おそらくは見渡す限り葦の原っぱや農地が広がり、農家や漁師の家が点在していたのだろうと思います。その空いている土地に徐々に親戚などが家を建てていったのでしょう。
かく言うウチも、近所に家内の先代の父親・母親両家の一族が住んでいて、近い親戚だけで20戸以上在ります。ご近所さんで聞けば、「お宅とは、遠い親戚だ、曽爺さんの奥さんがうちの先祖だ」などという人が数人います。昔は、葬式やら祝言やらで、親戚が集まるとそれはにぎやかだったのであります。
御多分に漏れず、当地も高齢化が進み「限界集落」モデル地域みたいになってきました。空き地と小さな駐車場が多く、ぽつぽつ空き家も増えました。日中は人っ子一人歩いておりません。「おらこんな村嫌だぁ」と嘆きたくなりますな。
さて、本題は、その遠い親戚「裏のおばさん」のつもりでありましたが字数が予定を過ぎておりますので、そのうちに(__)
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