植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

明治が近くなりにけり あっと驚く玉手箱

2023年01月26日 | 篆刻
明治時代に創業して今なお事業を続けているのは、明治製菓・明治安田生命・明治乳業あたりでしょうか。明治の時代から続く自動車・化学・薬品・電気などの会社はあるはずがありませんから、食べ物に関わる産業になるのですね。
また「財閥」と言う言葉は、その明治になってから用いられるようになったようで、その名前にちなんだ財閥グループを作って行ったのです。

商業はどうかというと、明治の会社を冠した会社は思いつきませんね。商人は年号より場所や名前を優先しました。長く続ける商売などに天皇の代が変わるたびに変わる年号はつけたがらなかったのかもしれません。江戸時代から続く豪商などは自分のところで屋号を持っていたので、それを踏襲するのが当然であります。

その商人さんたちは、近江国(現在の滋賀県)に本宅(本店、本家)がある近江商人、大阪商人、伊勢商人(大阪府和泉市) が江戸時代に三大商人と呼ばれ、後の財閥になって行ったようであります。

さて、その近江商人の先祖を持つのが花登筐さんであります。旧姓が川崎さんであったのですがお姉さんが近江商人の花登家へ嫁いだあと養子に入ったそうです。その明治の商人とお名前「筐(こばこ)」にちなんだ話です。

ヤフオクで古びた箱を落札しました。この品に注目したのが①明治時代初期の品と窺われる ②印譜に捺された印に「早瀬為治郎」の字が読み取れる ③木箱が時代物で可愛らしい といったところでした。

明治時代のものならば、今では出回らないような種類の印材が見つかるかもしれないし、自刻印ながらかなり熟練した刻に見えたのです。また、早瀬為治郎さんは、明治時代の大阪商人家督屋号を襲名した「早瀬太郎三郎」さんではないか、そうだとすると相当な大金持ちで印材にも金をかけた可能性がある、とやや邪な想像をしたのです(笑)。印に「九世早瀬保英」という記載もあったので、江戸時代からの名家であった可能性が高いのです。

さて期待のお品が届きました。第一感は、時代が違うか?でした。額面通り受け取れば130年以上前のお道具です。明治19年ごろの印だとしても、箱がとても綺麗(状態がいい)で、真鍮の金具も確りしているのです。ちゃんとした指物師の手によるのは見て取れますが、それにしても汚れが無い。普通は墨と朱肉を扱うので印箱にはほとんど墨で黒く汚れていたりします。少なくとも箱は、昭和の物の様な気がします。これを開けたとたん!?白い煙が靄もやと立ち上り・・・それはないか。一気に明治の香りがいたしました。

ここから下は額面通り「明治」の初期の品物であることを前提とします。何故なら、特に著名でもない一族らしき出品物をわざわざ手間暇かけて明治のものに見せかける必然性が無いからです。江戸や明治の文人や書人由来の品物ならば、大変な高値となるので「偽装」する甲斐もありありますが、この手の文物(旧家から出たような品だが、ガラクタに近く歴史的・学術的価値は低い)であれば時代はあまり関係もなく、その価格も大して変わりません。状態がいいのは、代々子孫の方がそれなりに大切に保管されてきたものであろうと思うからです。


中の状態は非常にきれいで、持ち主(早瀬さん?)が印譜・記録にしていたように見える黄ばんだ半紙は虫食いもシミも無く、鮮やかな朱印が30種ほど捺されていました。これに何か所も小さな几帳面な墨書き付きです。石は未刻3個を含み20個ほど。入札時には見過ごしていたらしくなんと古い手作りの「篆刻刀」が2本同梱されていたのです。

こちらは、恐らくこれから作るつもりだった印のデッサン・構図でしょうか。(九世)早瀬保英さんの自刻印である記載があるのですが残念ながら現物はありません。


これも同様で、墨で印のデザインを描いたようです。ここで興味深いのが「早瀬為治郎」の名前であります。前述のように為治郎さんは家督を継いで太郎三郎の襲名する前の実名ですが明治17年生まれとあります。一方これらの印の製作者は明らかに早瀬保英さん(雅号?は観泉さん)で、制作年はだいたい明治19年であります。

早瀬保英さんの名前は残念ながら、ネットで検索しても見つかりません。「五雲楼」の印や遊印らしきものもいくつかあって、この方が書か絵画・あるいは茶などを嗜んでいたと想像されます。

考えられるのは保英さんが父親で、産まれた子供、将来家督を継ぐことになる「為治郎」の印を彫ったか、そもそも早瀬さんでも全く違う人の為治郎さんであったかでしょうか。為治郎さんのお父さんも何代目かの「太郎三郎」であったことから、その幼名・前名が「保英」さんだったと考えるのがいいかもしれません。

こちらが同梱の印の印影で、几帳面な墨書で「観泉自刻ス・すり潰した・改刻した」などが書き込まれています。

ともあれ、非常に興味深い品々であり、その刻の風情、あるいは印材を調べる愉しみが増しました。
石の大部分は、想像通り「旧青田石」と思われ、肌理が細かい良材と見えました。江戸時代末期と言えば1800年の末期であります。石印材のほぼ100%は中国産で、青田石は1000年位から採掘されていたようです。文彭さんが青田石を採り上げて篆刻を世に広めたのが1500年代です。交易が復活した明治に入って中国からの印材も流入するようになったのでしょうが、この頃の印材はまだ高価で入手が難しかったのだろうと思います。いずれにせよ130年以上前に採掘された石は、今出回っているものとかなり違うのではなかろうかと思います。今では良材を出した坑は次々に乱掘で閉坑となり、質の悪い寿山・青田ばかりが販売されています。

豪商であっても、石印材は貴重であったと見え、上下両面に彫ってあるのも数点ありました。また、紫の斑紋が入った「月尾紫」という珍しい印材も含まれていたのです。

それからもう一つ。出品時点で掲示されていた10枚の商品の写真には、印刀2本は映っていませんでした。これは、出品者がおまけにくれたというより、小箱の中に入っていただけだろう、と思います。もしこれが130年前の篆刻刀なら更に興味深く、ワタシにとっては大層値打ちものであります。

というわけで、思い切って出した27千円というワタシにとっては高額の入札金額ではありました。しかし、篆刻の奥行きを感じつつ、明治と言う時代に思いを馳せて少しばかりの知識が増え、もしかしたらこの「玉手箱(小箱)」を含め、骨董的価値のあるお宝を入手できたので、不満があろうはずも無いのです。

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