長崎に投下の原爆は広島より破壊力が強かった。G7大使式典欠席

2024-08-09 | 歴史、

私は長崎市で生まれ、4歳頃広島市に移り、昭和20年春、富山に疎開し、終戦を迎え

再び長崎に戻り成長期を過ごしました。生まれたのは港の見える丘で明るく楽しい思い出

ですが、戦後住んだのは被爆地近くの郊外、(多くの人が犠牲になった跡地の地相のせいか)

そこでの生活は人生で一番不幸な時期だったと思い返します。

の時期になると家族や孫達、親戚にも私の世代の体験を知ってもらいたく

毎年彼の地のことを自分史の一部として書き残したくなります。

79年前の今日、小倉市に投下予定だった原爆が長崎市に投下されたのですが、

その破壊威力は広島が約16キロトンで、長崎のが21キロトンで長崎のモノの方が

強力だったことを最近知りました。それなのに長崎の被害は広島より少ない結果に

なっているのです。

犠牲になった死亡者数は

  広島 約14万人 (当時の人口は約35万人)

  長崎 約7.4万人 (当時の人口は約24万人)

一般に言われているのは

  広島は平坦な地形であったので爆風や熱線の影響が広範囲に及んでしまった。

  長崎は小高い山々に囲まれている為、この山で被害を軽減した。

付け加えて想像しますと当のアメリカの爆撃機は第1予定の小倉市が視界不良だったので

急遽長崎市に旋回して、市の中心部ではなく慌てたのか少し外れた地点、浦上方面に投下しています。

長崎市の中心部の人々、中心街は勿論大きな被害、影響を受けています。

只多くの歴史的建造物や家屋建物は破壊されずに残ったのです。

残った建物は修復されて観光地、長崎に寄与していると思います。

79回目の式典にG7の権威ある国々の大使が欠席されたそうですが、それは自由ですが

その理由付けは如何なものでしょうか?

この件、戦争をしているパレスチナもイスラエルも両方招待しなければ良かったのでしょうか。

無念の思いでこの日に突然命を絶たれた多くの原爆犠牲者を慰霊し平和を願う式典を

主催する長崎市の権威を傷つけないよう、遺族、市民に更なる苦しい追い打ちをかける

ことににならないよう,尾を引かないことを祈ります。

長崎市は主催者でありその判断を尊重して欲しいと思います。

 


その4日後8月6日に広島に原爆が投下されたのでした。

2024-08-06 | 歴史、

祖母は戦争が激しくなるまでは文京区弥生町に住んでいて小杉町の家は小作人の方頼んでいたそうです。

この家には大勢の叔父、叔母、従弟達が入れ替わり立ち替わり住んでいて賑やかな大家族でした。

当時母は9人兄妹でいとこは20人以上いました。、ここで生活している間に私は多くの親族の

出入りを見ていて自然に全体のファミリーツリーが耳学問で頭に刻まれたように思います。

そこに我が家族6人は1年以上も居候をしていたのですから、仕方がないとはいえ厚かましい

限りでした。祖母の大らかな人柄には全家族が尊敬と感謝の気持ちを抱いていたと思います。

空襲の翌日だったと思います。公園で松ヤニ遊んでいました。

街道を見ると富山市方面から全員白装束の服装の人達が列をなして次から次ぎへとリヤカーに

白い服の人を寝かせて黙々と高岡方面に行列を組んで通り始めたのです。

高岡市は戦災を免れていたので怪我や病気の人達を高岡に移動していたのだと思います。

長く続く余りに異様な光景だったので不気味で不安な思いで最後まで見送りました。

それから数日後の8月6日に、ついこの間まで住んでいた広島市街に

人類史上初めての核爆弾が投下され14万人の命を奪ったのでした。

その恐ろしい惨事については後から後から伝わってきたのでした。

偶々弟達の出生ということで富山に疎開し免れたた私共一家ですが、広島・長崎の

被災についてはずっと他人事ではない思いを抱いて今日に至っています。

現在もその恐ろしさ悲惨さを知りながら戦術核で威嚇しながら戦況を進めている国が

あるのは言語道断で容認出来ないことです。世界が一致して反対することが出来ないことが

不条理でもどかしい限りです。。


昭和20年、8月2日富山市大空襲

2024-08-02 | 歴史、

6月に毎年自治体から来る高齢者検診の一部を受診していました。

いつも大体問題なしで通過しているので、結果を聞きに行ったのが7月半ば過ぎになっていました。

いつもの血圧の薬(アダラート)を処方して戴きに行ったのですが、いつもと違う先生から

いきなり「肺のレントゲンが要精密検査になっているので、紹介状を書きますから総合病院に

行って下さい。」といわれて予期せぬことで戸惑ってしまいました。右肺の下方に小さな

塊のようなモノがあるそうでした。

「手術なんかになったらどうしよう」などと急に目の前に黒い雲が降りてきたような気持ちになり

呼吸器内科の予約をとって、CT検査を受けました。結果、担当医は直ぐに「悪いモノではありません。

過去に咳ぜんそくなどが長引いた時の痕跡のようなものです。心配入りません。」と診断して

下さりホッと一安心しました。最近益々作業が鈍くなりやり残していることが山積しています。

79年前の8月2日未明の富山市街大空襲のことを思い出しています。

↓大宅壮一さんのご親戚の方が記録された当時の空襲実体験の記録本です。

私は隣町の小杉町で5歳の時にこの恐ろしい空襲の様子を体験しました。

20年の4月ごろまでは広島の今の爆心地近くに住んでいたのですが、

母が7月に出産を控えていて頼る人もいないし、富山市と高岡市の中間にある、小杉町の

母の実家に先ず母子3人で疎開しました。父は7月初め頃に高岡に転勤してきたように思います。

7月10日に弟達がそこで生まれました。1人かと思ったら2人!双子で伯母達が駆けずり回っていました。

月満ちて生まれたようでしたが物資のない折、2人分の衣類等用意していなかったと思います。

夏でしたからなんとかなったのでしょう。

(お米もミルクも配給制で飢餓の時代に生まれても2人とも来年は傘寿を迎えられそうです。)

その22日後、8月2日の夜半、私はもの凄い飛行機の爆音と閃光で目を覚ましました。

2時間、閃光と爆音と地響きが続きましたが、あの空襲が一般市民も標的にした

どれだけ惨いものであったを知ったのはずっと後のことでした。

2時間の空襲で焼夷弾50万発が投下され、富山市内の99%が消失したということでした。

死者3000人と記されていますが、亡くなられた方はもっと多く上まわると思います。

ウクライナやガザの子供達も未だにこの様な怖い体験をしているのでしょう。

80代半ばにになりますが、何かにつけて今の生活のベースにあるのは子供の頃の生活体験です。