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ウイークデイのデパートは空いているはずなのに、主に
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持ち合わせた本や新聞を読みながら待つこと
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積んである食品群はこの前とあまり変わっていませんでした。
やっと暑さも峠を越したようで蝉の声に残暑を感じる日々になりました。
猛暑が始まって間もなく暑くて寝苦しいと感じていました。
私共高齢者夫婦は鈍感になっていて、和室の寝室のエアコンの
熱交換機が壊れ始めているのに気付くのに時間がかかってしまいました。
販売店に修理依頼の電話をすると、出向くまでには約1週間
かかるとのことで、その間、私共は難民の様に、
リビングや空部屋を移動して過ごしていました。
実はこのエアコンは2013年末から使い始めて、その2年半後に故障し、
1回目の熱交換器交換をしていて、今回2回目の交換となりました。
幸いなことに10年保証が付いていて6年目でしたので、
無償でした。でもこの調子だと、3回目の不具合がありそうな
感じもしています。今まで家中で使っていたM社のエアコンでは
熱交換器の交換など一度もなく、10年~15年持ちこたえたのですが、
省エネ目的も兼ねて買い替えたこの寝室のメーカーのものは、
(機器の当たり外れもあるのかも知れませんが)よく壊れます。
以前大型冷蔵庫を購入して、1か月目位で庫内の冷えの異常に気付き
100円ショップの温度計を各所に配置して調べたら庫内が15度も
あることを発見、故障かと調べてもらうと、初期不良とのことで、
別のメーカーのものに取り換えてくれたことがありました。
又別の中型冷蔵庫も4年半目に冷蔵部分の温度が上がり修理をして
貰いましたが、5年保証を付けていたので無償でした。
最近の家電製品はIC回路とかAIで動いている様で、
デリケートなのか壊れやすい感じがします。
取扱説明書や保証書の管理を怠れません。
休暇施設から帰ってきた翌日は、男声合唱団マーキュリーグリークラブ
(一橋大学コールメルクールのシニアグループ)の定期演奏会が、何と
東京オペラシティコンサートホールで開かれました。
夫は、三商大OBということで賛助出演させて頂く為、
ずっと暑い最中、片道2時間もかけて、何回も遠い練習会場に
通っていましたので、家族で応援がてら出かけました。
驚いたのは、今年一番暑い日だったにも拘らず、
会場が満席だったことです。
殆どがリタイアされたシニア層とそのご家族のようで、
本拠地ながら凄いなーと思いました。
オーケストラの演奏会では8割方入れば大入りの感じなのに、
上階も殆ど空席がなかったように見受けられました。
プログラムの目玉は福永陽一郎さんの編曲によるワーグナーの歌劇
「タンホイザー」の男声合唱曲でした。成程、これを歌いたいが為に
夫は頑張っていたのだということが、聴いていて良く分かりました。
10月には神戸文化ホールで旧三商大OBの交歓演奏会があるそうで
夫は、引き続きそちらを目標に頑張っています。
今年で最後のTシャエアリング施設の利用ですがやはり2か所に
分けました。少し前になりますが8月初めに去年と同じく都内の
多摩川沿いの(楽天の入っている)ビルの施設が取れましたので
行ってきました。ここを選んだのは、暑い中、旅支度をして
遠出する元気がなく、面倒で億劫になってしまったからです。
自宅から車で1時間足らずのところで4日間、タワマン住いの
非日常を少し体験出来ればいいと思ったからです。
(28階から多摩川上流を写す。)
楽天が入っているビルの最上階(28~30階)です。
下は楽天本社の入り口付近です。
そこでゆっくり過ごせるかと思っていたのですが、
早速、孫娘たちが「大学に近いから泊ってもいい?」とか、
娘達が入れ替わり立ち替わり泊りにやって来ました。
昼間はテレビやPC、ブログやデパートとのんびりしたのですが
夕方からは毎日5~6人の集合で定員近い状態で賑やかな4日間となりました。
(暑い日の午後、蔦谷家電では涼を求めて読書する人々で一杯です。)
こちらの施設ははセキュリティ上、エレベーターから大浴場、階段まで
全てカードがなくては動けないので、迂闊な私には大変不便で疲れました。
高速直行エレベーターは耳が変になることもなく揺れもない感じでした。
眺望はたまには富士山まで見渡せる素晴らしさで凄いと思ったのですが。
毎日見ているとどうなのでしょうか?マンションだとベランダが
あって窓も開くのでしょうが、ホテル仕様では窓は開かないようです。
(駅近スーパーの風景)
近くのデパ地下では5~6時過ぎるとお惣菜のディスカウントセールが
始まりますのでキッチンはありましたが、そちらのセールを大いに利用
しました。貧乏症が抜けません。家事に追われることのない4日間でした。
20年前に「東急ビッグウイーク」という期間1週間限定の
シェアリングリゾートマンション施設が売り出されました。
自炊式で特に夏場は割安な価格であった京都の施設が私共の希望に
一致していたので契約しました。早いもので、今年で期間満了になります。
(最近はシステムや価格が大きく変った様です。)
昔、娘達が小学生の頃には毎年、夫の実家のあった舞鶴に帰省していたのですが
夫の両親亡き後も、縁のあった関西方面を孫達と一緒に旅行をして
知って欲しいという思いがありました。
(私の祖母宅や叔母宅も桃山や北区にあって、いつも夏休みに逗留していました。)
孫達が小学生の頃には、毎年今より静かだった京都に、一緒に出かけていました。
只、1週間を通しての滞在となると夫達の勤めの関係などで、
全部消化することは難しく早めにく切り上げて帰京していました。
(後に7日間を3日と4日に分けることも出来るようになりましたので、
箱根や軽井沢に振り分けることも出来ましたが)
成長期に何回か京都を始め関西各県に足を運んだせいか、
現在、社会人や大学生になった孫達が、関西圏に馴染んでいる様子なので
嬉しく思っています。3人とも夫や私のガイドで多くの神社仏閣回りを
しましたので日本史には興味をもったようです。
自炊が出来たので、外食することも少なく主婦にとっては、
結構忙しい休暇でしたが、孫達とのいい思い出となりました。
今迄多くのお薬のお蔭で健康を維持してこられたと思っています。
高齢と言われる歳になりワクチンはしていますが風邪からの肺炎を恐れています。
漢方薬の「葛根湯」や早めの「パブロン」はきらさない様に常備しています。
50代の終り頃、上の血圧が3年程150から下がらない状態が続き、医師と話し合い、
60歳過ぎた頃から、血圧降下剤のカルシュウム拮抗剤を少量ですが
ホームドクターで処方して頂いて飲み続けています。
10数年前に首が外れたような吐き気を催す一過性の変なめまいに襲われて
一時的に体のコントロールを失い怖い思いをしました。
後で検査しても何も症状が残っていなかったのですが、
血管内で何かが起こっていたのでしょう。
若い頃から、入眠困難症があり、入眠導入剤は頓服薬として頼ってきています。
精神的な安心の為に常備しています。セルシン、ハルシオン、デパス、
そして現在はマイスリーですが、いずれも半錠~1/4錠で効果があります。
特にマイスリー錠は作用時間が短いので、早朝覚醒にも効きます。
(それと入眠に何よりも効果があるのがホットミルクです。)
以上のお薬とは相性が悪くないのですが、コレステロールや骨粗鬆症のお薬
リカルボンとは相性が悪く、耐え難い筋肉痛と関節痛と
インフルエンザ症状で体調を崩してしまいました。
昨年、足底筋膜症になって歩くのが辛かったのも、その副作用だったのでは
ないかと思っています。リカルボンを止めてからは、
ビタミンD錠を飲んでいますが、2か月たった現在、
筋肉や節々の痛みもなく身体が軽くなった感じがしています。
私が一番注意しなければいけないのは血糖値のようです。
ヘモグロビンA1Cが6.2~6.5なので食べ過ぎに注意してよく身体を動かして
運動をしなければいけないのですがこの暑さではなかなか実行できません。
今年も広島、長崎で核廃絶を訴える平和祈念式典が行われましたたが、
世界の、特に原爆保有国には、被爆国日本の被爆者達の訴えは
どのように届いているのでしょうか?
私の家族は原爆投下の翌年、昭和21年末に爆心地の北、
浦上方面の住吉町に建てた家で生活を始めました。
長崎の場合、爆心地は市の中心より少し北の郊外に差し掛かる地点の松山町でした。
市内の被害の大きさを左右したと思われるのは金比羅山という山と
当時の風向きだったという話を聞いたことがあります。
被害が大変大きかったのは、爆心地の北側の浦上地区、城山町などの西側、
三菱製鋼所や三菱造船所の一部などの南西側であったと実感しています。
市の中心部の繁華街や東側の建造物は辛うじて破壊を逃れています。
大浦天主堂やグラバー邸などは今も長崎の観光に寄与しています。
戦前に住んでいた港の見る丘とは異なり、被爆の影響の大きかった地区での生活でした。
残留放射能のことなど知らずに、水道が敷かれるまで、井戸水をくみ上げての、
私設水道の生活でした。天井裏では夜毎に元気なネズミの運動会でした。
近所で生まれた子猫を飼い始めたせいか、ネズミ捕りが効いたのか、
いつの間にかいなくなったのでした。大きな蛇も堂々と現れていました。
その家での生活を13年、後に父は91歳で中皮腫という癌で亡くなりましたが、
姉弟4人、皆、体力はあまりないのですが、今のところ大病なく過ごせています。
それにしても最近の隣国でのミサイル実験が気がかりな今日の情勢です。
長い梅雨が空けて今年も猛暑となりました。
昼間家事をしていると、一部屋だけ冷房するわけにもいかず気付いたら、
汗だくだくになっていたりします。気を付けなければと思っています。
7~8年前のことでした。斜向かいのお宅の奥様Tさんと朝のゴミ出しの時、
集積所で一緒になりました。挨拶しながら「今日も暑くなりそうねー」と
声を交わしたのですが、それが彼女との最後の会話となってしまいました。
Tさんはご長男が近くに家庭を築かれていてお孫さん2人も時々お見かけしていました。
次男さんは現在50過ぎで今も独身ですが同居しておられました。
その翌朝、パトカーと救急車が来て、不安を感じました。後で知ったのですが、
その晩、次男さんは遅く帰宅、早寝早起きのTさんはいつも1階で
早く休まれていたので、そのまま用を済まされて2階で休まれたそうです。
翌朝お母さんが起きて来られないので、具合でも悪いのかと部屋を覗かれたら、
普段着でうつ伏せに倒れておられて反応がなく、急ぎ救急車を手配されたと
いうことでした。前夜確認すればよかったと後悔されていました。
Tさんと私は1つ違いでしたが、誰ともお付き合いなさらない
引きこもりタイプの方でした。ご主人様も50代の現役の時、
夏ではななかったと思うですが、朝起きてこられなくて、同じ状態であられて
救急車とパトカーが来て逝かれてしまわれていたのでした。
この辛い猛暑の季節になると、彼女はやはり熱中症で逝かれたのではないかと、
毎年彼女のことを思い出してご冥福を祈っています。皆様お気を付け下さいませ。
生田緑地をずっと上まで登りつめていった高台に専修大学の学生食堂、カフェテリアがあり、
そこで昼食を頂きました。学生食堂だけにボリュームたっぷりなので少なめにして頂きました。
お安いわりに、結構美味しかったです。専修大学には学生食堂が4か所あるそうです。
隣が川崎国際ゴルフ場です。現在はパブリックになっています。
私はゴルフはしませんが、夫は時々友人グループと来ています。上り、下りが激しいそうです。
「岡本太郎美術館」は生田緑地の斜面と地下を生かした設計で斬新なデザインでした。
岡本太郎さんのご両親の岡本一平、岡本かの子さんが、かの子さんのご実家が川崎の
豪商だったこともあってか高津区の二子を拠点に生活をされていたご縁もあって、
川崎市が「川崎市岡本太郎美術館」建設の受け入れをしたしたように覚えています。
丁度「20周年記念展」これまでの企画展みんな見せますが
7月13日(土)~10月14日(月)まで開催されていました。
岡本太郎さんの作品というとまず大阪万博の太陽の塔ですね。
期間中、場内の写真撮影許可ということでしたので少しスマホで撮影させて頂きました。
表題をメモするのを怠りました。 ↓
夜道?
場内は大変広々としています。見学者は、私共のグループや土曜日なので親子ずれの一家、
若いカップルがチラホラとあと学芸員の方々で空いていてじっくり鑑賞出来ました。
確か赤字だと聞いていますが、場所が交通の便のあまりよくないところのせいかもしれません。
個人的には色のコントラストが生き生きしていて気に行っています。
フランスに長く滞在されて多くの影響を受けられたと思います。
私はマチスの絵が好きなのですがマチスに較べて曲線が非常に多い様に感じます。
お住い兼仕事場のあった東京の港区南青山6丁目にも「岡本太郎記念館」が開館されています。