長崎に投下の原爆は広島より破壊力が強かった。G7大使式典欠席

2024-08-09 | 歴史、

私は長崎市で生まれ、4歳頃広島市に移り、昭和20年春、富山に疎開し、終戦を迎え

再び長崎に戻り成長期を過ごしました。生まれたのは港の見える丘で明るく楽しい思い出

ですが、戦後住んだのは被爆地近くの郊外、(多くの人が犠牲になった跡地の地相のせいか)

そこでの生活は人生で一番不幸な時期だったと思い返します。

の時期になると家族や孫達、親戚にも私の世代の体験を知ってもらいたく

毎年彼の地のことを自分史の一部として書き残したくなります。

79年前の今日、小倉市に投下予定だった原爆が長崎市に投下されたのですが、

その破壊威力は広島が約16キロトンで、長崎のが21キロトンで長崎のモノの方が

強力だったことを最近知りました。それなのに長崎の被害は広島より少ない結果に

なっているのです。

犠牲になった死亡者数は

  広島 約14万人 (当時の人口は約35万人)

  長崎 約7.4万人 (当時の人口は約24万人)

一般に言われているのは

  広島は平坦な地形であったので爆風や熱線の影響が広範囲に及んでしまった。

  長崎は小高い山々に囲まれている為、この山で被害を軽減した。

付け加えて想像しますと当のアメリカの爆撃機は第1予定の小倉市が視界不良だったので

急遽長崎市に旋回して、市の中心部ではなく慌てたのか少し外れた地点、浦上方面に投下しています。

長崎市の中心部の人々、中心街は勿論大きな被害、影響を受けています。

只多くの歴史的建造物や家屋建物は破壊されずに残ったのです。

残った建物は修復されて観光地、長崎に寄与していると思います。

79回目の式典にG7の権威ある国々の大使が欠席されたそうですが、それは自由ですが

その理由付けは如何なものでしょうか?

この件、戦争をしているパレスチナもイスラエルも両方招待しなければ良かったのでしょうか。

無念の思いでこの日に突然命を絶たれた多くの原爆犠牲者を慰霊し平和を願う式典を

主催する長崎市の権威を傷つけないよう、遺族、市民に更なる苦しい追い打ちをかける

ことににならないよう,尾を引かないことを祈ります。

長崎市は主催者でありその判断を尊重して欲しいと思います。

 


その4日後8月6日に広島に原爆が投下されたのでした。

2024-08-06 | 歴史、

祖母は戦争が激しくなるまでは文京区弥生町に住んでいて小杉町の家は小作人の方頼んでいたそうです。

この家には大勢の叔父、叔母、従弟達が入れ替わり立ち替わり住んでいて賑やかな大家族でした。

当時母は9人兄妹でいとこは20人以上いました。、ここで生活している間に私は多くの親族の

出入りを見ていて自然に全体のファミリーツリーが耳学問で頭に刻まれたように思います。

そこに我が家族6人は1年以上も居候をしていたのですから、仕方がないとはいえ厚かましい

限りでした。祖母の大らかな人柄には全家族が尊敬と感謝の気持ちを抱いていたと思います。

空襲の翌日だったと思います。公園で松ヤニ遊んでいました。

街道を見ると富山市方面から全員白装束の服装の人達が列をなして次から次ぎへとリヤカーに

白い服の人を寝かせて黙々と高岡方面に行列を組んで通り始めたのです。

高岡市は戦災を免れていたので怪我や病気の人達を高岡に移動していたのだと思います。

長く続く余りに異様な光景だったので不気味で不安な思いで最後まで見送りました。

それから数日後の8月6日に、ついこの間まで住んでいた広島市街に

人類史上初めての核爆弾が投下され14万人の命を奪ったのでした。

その恐ろしい惨事については後から後から伝わってきたのでした。

偶々弟達の出生ということで富山に疎開し免れたた私共一家ですが、広島・長崎の

被災についてはずっと他人事ではない思いを抱いて今日に至っています。

現在もその恐ろしさ悲惨さを知りながら戦術核で威嚇しながら戦況を進めている国が

あるのは言語道断で容認出来ないことです。世界が一致して反対することが出来ないことが

不条理でもどかしい限りです。。


昭和20年、8月2日富山市大空襲

2024-08-02 | 歴史、

6月に毎年自治体から来る高齢者検診の一部を受診していました。

いつも大体問題なしで通過しているので、結果を聞きに行ったのが7月半ば過ぎになっていました。

いつもの血圧の薬(アダラート)を処方して戴きに行ったのですが、いつもと違う先生から

いきなり「肺のレントゲンが要精密検査になっているので、紹介状を書きますから総合病院に

行って下さい。」といわれて予期せぬことで戸惑ってしまいました。右肺の下方に小さな

塊のようなモノがあるそうでした。

「手術なんかになったらどうしよう」などと急に目の前に黒い雲が降りてきたような気持ちになり

呼吸器内科の予約をとって、CT検査を受けました。結果、担当医は直ぐに「悪いモノではありません。

過去に咳ぜんそくなどが長引いた時の痕跡のようなものです。心配入りません。」と診断して

下さりホッと一安心しました。最近益々作業が鈍くなりやり残していることが山積しています。

79年前の8月2日未明の富山市街大空襲のことを思い出しています。

↓大宅壮一さんのご親戚の方が記録された当時の空襲実体験の記録本です。

私は隣町の小杉町で5歳の時にこの恐ろしい空襲の様子を体験しました。

20年の4月ごろまでは広島の今の爆心地近くに住んでいたのですが、

母が7月に出産を控えていて頼る人もいないし、富山市と高岡市の中間にある、小杉町の

母の実家に先ず母子3人で疎開しました。父は7月初め頃に高岡に転勤してきたように思います。

7月10日に弟達がそこで生まれました。1人かと思ったら2人!双子で伯母達が駆けずり回っていました。

月満ちて生まれたようでしたが物資のない折、2人分の衣類等用意していなかったと思います。

夏でしたからなんとかなったのでしょう。

(お米もミルクも配給制で飢餓の時代に生まれても2人とも来年は傘寿を迎えられそうです。)

その22日後、8月2日の夜半、私はもの凄い飛行機の爆音と閃光で目を覚ましました。

2時間、閃光と爆音と地響きが続きましたが、あの空襲が一般市民も標的にした

どれだけ惨いものであったを知ったのはずっと後のことでした。

2時間の空襲で焼夷弾50万発が投下され、富山市内の99%が消失したということでした。

死者3000人と記されていますが、亡くなられた方はもっと多く上まわると思います。

ウクライナやガザの子供達も未だにこの様な怖い体験をしているのでしょう。

80代半ばにになりますが、何かにつけて今の生活のベースにあるのは子供の頃の生活体験です。


日経連載の「陥穽・陸奥宗光の青春」頑張って読み終えました。

2024-02-10 | 歴史、

私は読書家ではないのですが、新聞を読むのが大好きで新聞小説も最低1本は読んでいます。

辻原登氏の「陥穽」は明治維新の頃、日本外交の礎を築いた陸奥宗広の青春期までを描いて

ありました。コツコツ読んでいましたが浅学微才の私にはかなり難しいものでした。

その頃の歴史には弱いのですが、勉強になりました。

本棚の終活整理をしていた時に、外交官で評論家の岡崎久彦氏の書かれた陸奥宗光(上・下)を

発見したことを思い出し手にしました。岡崎久彦氏は、外交官として在タイ、サウジアラビア、

イエメン大使などを歴任され又評論家としても活躍された超秀才でエレガントな風貌の方でした。

残念ながら2014年に84歳でお亡くなりになっています。

今回知ったのですが岡崎久彦氏の祖父の岡崎邦輔氏は陸奥宗光の従弟に当たるとのことで

外交官を目指されたのも外交官になられてからも陸奥宗光の影響が強かったのではと思いました。

上下で5~6センチ厚さの著書ですが、分かりやすい文章ですので、その内にパラパラと

読んでみようと大切に保管しています。


日経歴史小説「ふりさけ見れば」を読み終えて。

2023-03-19 | 歴史、

あまり小説を読んだりしない私ですが興味のわく新聞小説を読むのは毎日の楽しみの一つです。

連載1年8ヶ月にわたる氏の歴史小説「ふりさけ見れば」が2月に終りました。

主人公の遣唐留学生、阿倍仲麻呂は「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の

望郷の歌で有名ですね。浅学微細な私はえっちらおっちら充分理解出来ないまま読んでいましたが、

フォーローしているブロガーさんが時折、要約文を書いて下さるので内容を理解する助けになりました。

思い起こすと2010年に平城京1300年祭のイベントが奈良平城京跡で開催されていました。

小学生だった孫娘二人を連れて京都を基点の関西旅行の一環として平城京跡を訪れていました。

あまり興味を持つ人が少なかったせいか、人出は多くなく広い平城京跡をゆっくり見学出来ました。

下の平城京歴史館では映像で当時の出来事を思い起こすシーンが上映されていました。

そこで強烈に今でも脳裏に残っているのは遣唐留学生の阿倍仲麻呂が日本への帰国途中、大嵐に遭遇して

波に飲み込まれそうなる壮絶なシーンです。私は船は難破してしまって無念と勘違いしていたのですが

その後、ベトナム方面に漂流して再び唐の玄宗皇帝のもとで活躍したことを今回知りました。

玄宗皇帝に取り立てられ楊貴妃の姉と縁づいていたとは目からうろこで浅学微細な私は

ひとりで驚いていました。

話が飛びますが、平城京跡付近の地図を見ていました。一番近い駅が近鉄大和西大寺駅です。

安部元首相が銃撃に襲われたのがこの駅近くであったことを知り愕然としました。

明治以来、何人もの首相が駅の近くで凶弾に倒れています。それにも拘わらずしっかりとした

セキュリティで民主国家の首相を守ることが出来なかったのです。このことを深く反省しなければ

国や人々の安全も脅かされるのではないかと思いました。


安房の竜島辺りに上陸した頼朝一行ですが、追われる身でした。(5)

2022-02-26 | 歴史、

頼朝達の小舟は真鶴から相模湾を西に安房の鋸南町竜島辺りに上陸したと

伝えられています。散歩会で2003年頃この辺りに行きました。

頼朝上陸の碑と説明版、この場所から眺める夕日は圧巻だそうです。

今でもよく覚えているのは鋸南町は「見返り美人」の絵で有名な江戸時代の浮世絵画家、

菱川師宣の生誕地だということです。

頼朝は上総介や千葉介に応援を要請する使者を送る際、洲崎神社に参拝をしたと云われています。

そして又、航海の無事を感謝して、参拝したといわれています。洲崎神社は標高110mの

御手洗山中腹にあり、太平洋を一望出来るほか、富士山を眺めることもできます。

その後、外房川の鴨川市太海の海岸から50mほど離れた、海に浮かぶ仁右衛門島に渡りました。

頼朝が追手に追われた際に平野仁右衛門氏の先祖がこの島に匿い、そのお礼として、

頼朝からこの島を与えられたという伝説が残っています。

先代の仁右衛門さんが81才でご夫婦ご健在でした。現在の仁右衛門さんは38代目です。

仁右衛門島で頼朝が匿われた洞窟。撮り方が悪いのですが、奧の赤門の後方に洞窟が見えます。

仁右衛門島は頼朝や日蓮聖人の伝説が残る風光明媚な場所です。2017年にも娘と訪れました。

島内には南国を思わせる樹齢600年以上の大ソテツや海浜植物も豊富で島主の住居もありました。


真鶴のしとどの窟、頼朝の房総行に貢献した湯河原の土肥実平(4)

2022-02-19 | 歴史、

湯河原山中の窟屋の他に真鶴港の近くにもう一つの窟屋がありました。

頼朝はここに実を隠して土肥実平等の協力を得て房総半島に脱出したと伝えられています。

真鶴の窟屋は頼朝の時代には奥行き130ⅿほどで大変広かったようですが、800余年の間に

地震やその他の自然災害、岩石の切り出しなどでかなり狭いものになっていました。

中には石仏があったように覚えています。

周りの人達が手助けをしたそうで、頼朝が手助けの内容に因んた姓を与えたという言い伝えが

あります。木の枝で入り口を隠したものには「青木」、食料の手配をした者には「吾味」身張り役には

「御守」だそうで真鶴に古くからある名字だそうです。下の看板にそのように書いてありました。

湯河原の駅から成願寺に歩いて行きました。途中にリゾートトラスト湯河原の脇を通った

ように記憶しています。熱海の近くの湯河原は温泉地としても有名です。

城願寺は、この地の豪族土肥実平一族の菩提寺です。古くからの歴史があります。

今でも土肥の地名がこの辺りに残っています。境内に登っていきました。

             

境内からの相模湾の眺め。

成願寺にある実平お手植えと言われている樹齢800余年のビャクシンの木

七騎堂は頼朝と共に房総阿波の国に船で逃れたという安達盛長ら主従7人を祀ってあります。


敗走した頼朝一行は箱根山中の「しとどの窟」に身を隠したと言われています。(3)

2022-02-12 | 歴史、

石橋山で敗れた頼朝一行は道なき箱根の山中をさ迷って箱根権現の方に逃れ

山中の「しとどの窟」、と呼ばれる洞窟に身を隠したそうです。散歩会の一行は湯河原から

中型バスで傾斜のきつい道路を登っていきましたが、当時馬に乗ってこの場所に辿りつくのは

至難の業だと思いました。体力のある武将達ですが、エネルギー源は玄米とか野菜、魚だった

のでしょうか?追手も沢山いたはずなのに、頼朝はとりわけ運のいい人だったと思いました。

バスを下りた地点です。芦ノ湖が眼下に見えました。この辺りは箱根ターンパイクの終点

かと思われました。

一行は山道を窟にに向かってどんどん下っていきました。

(真鶴の土肥実平がこのあたりに詳しく案内をしたとか。)

15分位どんどん下っていって思ったより遠いので帰り道のことが気になり梶先生に

「帰りの登り坂を戻れるか心配です。」と問うと、「登ってこれない人は置いて

いきますから山姥になるしかないですね。」とすました顔で言われてしまいました。

誰一人諦める人は無く全員無事に歩き通せました。

20分位歩いたと思います。途中所どころに、あと250Mとか道しるべなどがありました。

頼朝一行が身を隠したと言われる「しとどの窟」です。山水も流れていて夏なら数日

過ごせたでしょう。やはり梶原景時がここらをチェックにきたようです。

そうして岩屋に隠れている頼朝を見て見ぬふりをして見過ごしたとか。

 頼朝の何かに魅了されたのでしょか?やがて頼朝に仕えるようになります。

                                                                                       

現地の案内板です。

 


石橋山の古戦場はかなりの急傾斜地でした。(2)

2022-02-08 | 歴史、

大河ドラマは殺傷シーンが嫌なので見ないという友人が結構います。私もそれは嫌なの

ですが、さらりと流してほしいと思っています。ディレクターの感性次第でではないでしょうか?

伊東方に狙われていた宗時が斬られしまってとても残念です。宗時ロスになりそうです。

回想シーンでもいいので愛之助さんに又出てきてほしいと期待しています。

さて数年前に訪れた石橋山ですが、相模湾沿いを走るの西湘バイパスの石橋料金所を出た

目立たないところに入り口があったように思います。きつい斜面なので、私達一行は

バスから降りて歩いて登っていきました。

左側の坂を上って東海道線のトンネルの上の道を更に登りました。

上まで行くと佐奈田神社があり、駐車場がありました。

梶先生の講談風の説明を聞く。

8月23日に大庭景親軍3000人に対して頼朝軍300人で戦う羽目になっ壮絶な石橋の合戦

(和田の援軍1000兵が加わる手はずだったそう)ですが、もしかして負ける覚悟で

逃げ道も考えていたのかと思ったりもしてしまいます。→(しとどの窟)

頼朝方は佐奈田与一が先陣について15騎対75騎で戦闘開始になったそうです。

与一は8人討ち取って、敵方の大庭景親の弟俣野景久を組み伏せていたのに刀が前戦の

錆で抜けず、又声枯れで援軍に声が掛けられず、壮絶な戦死を遂げたそうです。

この辺の畑で採れる農作物はねじれているそうですが、農家の方の確認は得ていません。

後ほど頼朝がここを訪れて墓が築かれて、それぞれ(佐奈田霊社)、親がかりで

家臣の文三は(分三堂)に祀られています。佐奈田霊社には美味しいのど飴がありました。

丸い飴で確かに声枯れや喉に優しい作用があるみたいです。沢山買ってきました。

佐奈田与一塚と文三堂の説明版

文三堂方面にも上って見てきました。


訪れたゆかりの地(点)が大河ドラマのストーリーで(線)になって繋がっていくのが楽しい。

2022-02-05 | 歴史、

ドラマ鎌倉殿の13人、毎回わくわくしながら見ています。三嶋大社祭礼の日、

1本の矢が放たれて源平合戦が始まりました。

50代後半の頃、三島には歴史散歩で参りました。

その頃は、海外旅行に行きたかったのですが、夫は働き盛りで、孫の手伝いで呼び出される

ことも多々あって、家を長く空けることは憚られて、お話の面白い梶さんの日帰り歴史散歩に

魅せられて参加するのが楽しみになっていきました。

三嶋神社は立派でしたが、今、一番印象に残っているのは楽寿園にある楽寿館の建物や庭園、

池の美しい光景です。室内の美術品のような美しさや池や庭園の光景が忘れられません。

小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王の別邸として建てられた明治期の建造物だそうです。

頼朝と政子がお参りをしてデートをしたという伊豆山神社にはスマホを手にしてから

参りました。急な長い石段を上がっていきました。

 

昨年の豪雨による土石流被害があった場所はそのすぐ西側のようで

眺めは最高にいい所なのに急傾斜の上の山の土地工事が禍の原因のように

報じられています。突然の被害を受けられ犠牲になられた方々へのご冥福を祈ります。 


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」楽しみにしています。

2021-12-30 | 歴史、

NHKドラマ「青天を衝け」が終わりました。明治維新の偉大な実業家

渋沢栄一の生涯を分かりやすく大河ドラマで観ることが出来てよかったです。

只、写真で見る渋沢栄一さんと吉沢亮さんが演じる91才の最後まで若々しい栄一さんの

イメージに違和感を持ちましたが。吉沢さんの熱演で渋沢栄一の世の為人の為に

尽くされた生涯、そしてそれが今日も引き継がれている流れを知ることが出来ました。

このドラマのテーマ曲を指揮された有名な指揮者の尾高忠明さんは渋沢栄一の曾孫に

当たられるそうですが外見も渋沢栄一似だと思います。

そして来年の「鎌倉殿の13人」は鎌倉幕府初期の歴史上の有名人が13人も登場する

という三谷幸喜さんの脚本とあって豪華絢爛の大河ドラマになることでしょう。

私は50代半ば頃から約20年間、「髭の梶さん」こと梶本晃司先生のドラマティックな

解説つきの「歴史文学深歩会」に友人に誘われて参加してきました。

月に1回ぐらいでしょうか。関東圏が主ですが、日本各地の神社、仏閣、史跡めぐり、

街道歩きに健康目的のウォーキングを兼ねて参加していました。

孫3人の子育ての手伝いで忙しい時期でしたから、日帰り散歩が主でした。

現場に佇み歴史秘話を聞き、その時代にタイムスリップしてのめり込んでいました。

鎌倉歩きはその原点でした。体力も脚力も衰えて今はもう無理な現場巡りの

歴史散歩ですが、ドラマを見ながら解説書や昔のテキストや梶さんの本を眺めながら

楽しめたらと期待しています。


私の戦争体験「8月2日、富山は天まで焼けた」

2021-08-15 | 歴史、

父の転勤で昭和18年頃、私共一家(父母と妹と私4才)は長崎から広島市に転居しました。

その頃には戦争の影響が子供心にも分かるくらいに顕著になってきていました。

社宅の庭には防空壕があり、空襲警報がなると「お結び」を持って急いでそこに入ったことを憶えています。

幼稚園にも行けないまま、2年後の昭和20年5月頃、母が7月に出産を予定していたので、母と妹と私は

富山と高岡市の間にある小杉町の母の実家に疎開を兼ねて引っ越しました。数か月差で原爆を免れたのです。

7月10日には弟が二人も自宅出産で生まれて叔母達が慌ただしく立ち回っていたことを憶えています。

祖母の家には従妹達も疎開してきていて、多い時には20人位で賑やかでした。

一方食料不足で栄養失調状態になっていたせいか、ある朝、柱に縋りつかないと

立ち上がれなくなったことがありました。おやつは庭になっている柿だけでした。

そうして弟達が産まれて1か月も経たない8月1日の夜の12時頃、物凄い爆音と閃光で目が覚めました。

近くの富山市内でB29による爆撃が始まったのです。弟達は泣くしその怖さで身が縮まりました。

10年ほど前に機会があって「8月2日、天まで焼けた」(奥田史郎さん・中山伊佐男さん著)と

いう本に出会いました。そこには大空襲の時の富山市内の悲惨な出来事が書かれていました。

あの2時間余りの雷よりひどい地響きと爆音と閃光の下で富山市内が炎熱と火風で

八方ふさがりの地獄の様な状態であったのを知りました。米軍の記録によると、184機ものB29が

容赦なく落とした爆弾は2時間余で1465トン。1坪あたり1キロの爆弾が、10数万の市民の頭上に

降り注ぎ、一晩で市内全域が焼き尽くされ死者は3千人に迫っていたたそうです。

爆撃の方法が市内を囲むように外側の東西南北から始まったので郊外へ逃げるようとする

市民の多くは炎熱で行く手を阻まれる状態であったそうです。

12才だった奥田少年の(大宅壮一氏の昌夫人の甥で大宅瑛子さんの従兄弟)

お母様は3才半になる妹さんを背中におぶって少し先を歩いていらしたそうですが、

こともあろうに直撃弾が頭に当たってその場で倒れられてお亡くなりになられたのです。

享年38才、医師で県の衛生課の技師であられたお父様との間に7人のお子様を残されて。

一方お母様の背中に負ぶわれていた妹さんは頭一つの差で無事であったと記してあります。

この爆撃は意図的に人員殺傷を目指していたのではないかという意見もあるそうです。

それにつけても、1945年3月10日の東京大空襲がどれだけ恐ろしく酷かったのかが想像出来ます。

下町を焼き尽くしたこの空襲での死者は11万5千人以上、爆撃被災者は約310万人,

損害家屋は約85万戸と一般市民に多大なる犠牲と被害を及ぼしています。

軍は勝つと思って始めた戦争なのでしょうが、ここまで犠牲が出て敗色濃い中でも降伏

しなかったのは国民を道連れに「一億玉砕」するつもりだったのかといつも疑問に思っています。

イタリアは1943年に、ドイツも1945年の5月始めに降伏しているので、せめて時を同じくして

降伏することが決断出来ていれば、その後の悲惨な爆撃も原爆の被害もなかったのではと

思いながら今年も終戦記念日を迎えました。

 


本当は「火葬場にたつ少年」

2021-05-03 | 歴史、

2019年11月にローマ教皇が長崎に来られて「戦争がもたらすもの」として

世界に発信されたこの写真はアメリカ軍カメラマンのジョー・オダネルが

被爆後約2ケ月の昭和20年10月中頃の日中に撮影したものだということが

今回の調査で分かったそうです。

 

 

 

オダネルは次のように説明しています。

「遺体を火葬する焼き場で弟を背負う少年に出会った。

小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着て裸足だった。

背中には(死んだ)幼い男の子が括り付けられていた。

少年は焼き場の淵まで進むとそこで立ち止まった。

係員は背中の幼児を下し足元の燃え盛る火の上に乗せた。炎は勢いよく燃えあがり

立ち尽くす少年の顔を赤く染めた。少年は気を付けの姿勢でじっと前を見続けた。

急に彼は回れ右をすると背筋をピンと張り、まっすぐに前を見て歩み去った。

一度も後ろを振り向かないまま」と。

孤児となって共に生きてきた弟を亡くし遺体を焼いた少年にはこれから先

生きていかねばならない現実があり泣き言は言っていられなかったのでしょう。

調査によると、少年には一定以上の放射線量を浴びることによる鼻出血が

あったのか、鼻栓らしいものが見られたそうです。

撮影場所はほゞ特定されていて(2説あり)、今回のコンピューター調査では

長崎市北部、道ノ尾、長与、大草方面となっています。

 

道ノ尾駅は私が戦後住んでいた住吉町から12~15分位北で土地勘のある場所です。

大草は伊木力ミカンの産地です。

僭越ながら私の感覚では原爆の被害が大きく及んだのは道の尾駅あたりまでです。

道の尾駅のすぐ近くには、戦争孤児収容の向陽寮があります。

その頃まで少年が生きながらえていたら、こちらに保護されたでしょう。

「どんな大人に出会えたか」又「どこに引き取られたか」によって

生死が分かれたと言われています。

(一部資料はNHKETVにお借りしました。)

 

 


焼き場にたつ少年

2021-05-01 | 歴史、

先頃、年賀状の整理をしながらお年玉の当選調べをしていました。そして

長崎市の小学校の旧友Wさん(10年前に60年ぶりに再会した)に久しぶりに、

ご無沙汰伺いに電話をしたのです。Wさんは大病を克服後、明るく元気な昔の

社交性をを取り戻していました。お互いの無事を確かめた後、彼女は

堰を切ったように昨年の88日にEテレで放映された「焼き場にたつ少年」に

纏わる話を聞かせてくれたのでした。

(原爆で幼い弟と二人、孤児になった少年が被爆から、凡そ2か月後、亡くなった

弟を背負い近所の焼き場で順番を待っている写真、ローマ教皇が来埼された折、

「戦争がもたらすもの」として世界中に発信された写真です。)

私はその番組見ていなかったのですが、終りのほうで話をされていた方が

名前(Zさん)年齢(81才)とあって、彼女の中学校での同級生だとすぐ分かった

そうで、その後、伝手を辿って連絡を取ることが出来たのだそうです。

Zさんは原爆で戦災孤児になり「向陽寮」という施設でお母さんと慕う

餅田千代寮長さんの下で育ち地元の学校に通っていたのでした。

そして今も健在で数少ない当時を語れる方なのです。

小学校の頃を振り返ってみると、私のクラスにも「向陽寮」から通っていた男子

同級生が2人いたことを思い出しました。年齢が12才上なので存在感があり

クラスでは皆一目置いていました。2人共、明るく頼もしい生徒で

寮での団体生活がよかったのか精神的にも落ち着いていたと思います。

M君は中学卒業後、自衛隊に入隊したそうです。

H君はお菓子屋さんになったとか聞いています。

その後Wさんが「是非見て」と上記のNHK-Eテレの「焼き場にたつ少年をさがして」の

DVDを送ってくれたのです。このドキュメントは涙なしには見られません。

NHK長崎放送局の制作だと思いますが、再放映があるといいと思います。

Wさんとはラインで繋がり、彼女が続く情報を送ってくれたのです。

こういう話題は我が家の娘達や孫達には余りピンとこないようです。

確かに若い人達はこれから先の不確実な人生を乗り切ることで

精一杯なのだと思います。

向陽寮の餅田寮長の記録が [戦争孤児の母になる 餅田千代」という

題名で、来る5月8日(土)午後1:00~2:00にEテレで放映されます。

地味な番組でしたが、よろしかったらご覧ください。朗読は上戸彩さんです。


近隣散歩には思わぬ発見や出会いがあります。

2020-04-30 | 歴史、
先日は、桜の森の公園の石段を降りていると、目の前に茶色の毛の

長い小型犬らしい後ろ姿の動物がいて、首輪もリードもしていないのです。

脇にうごいたので、よく見つめ合うとリス似の可愛い小動物でした。

スマホで写真をとろうとしているうちに、森の中へ逃げて行ってしまいました。

調べてみるとどうもムササビのようでした。
 

又、いつも行くスーパーとドラッグストアの近くの電柱の上に

藁らしいものがはみ出て見えて、カラスの巣ではないかと毎回、

注意していましたら、案の定、今日カラスの出入りを確認しました。

これから子作りの時期に入るらしいです。


一方今年も庭のハナミズキにはスズメバチ捕獲器を取り付けています。