私共が上京した昭和30年代半ば頃は地方から東京に住居を求めて
転居することは今に比べれば簡単だったと思います。
山手線の外側の駅から少し離れた所でしたら,こじんまりとした建売の家は
300万円位で買えたのです。物価水準が今とはかなり違いましたが。
母は文京区弥生町育ちで府立第一高女に通っていました。(沢村貞子さんとは同級生でした。)
親戚や友人の多い東京の生活にいつも郷愁を感じていました。父がサラリーマンを止めているから
転勤の可能性もありません。それやこれやで(もしかしたら渡りに船と)子供と共に東京に
出ることを決めた様です。
なにより吉祥寺に住む母の妹の美しい叔母が親身になってなにかと世話をしてくれたのでした。
お茶の水出の叔母は私共にとって女神様のような存在でした。恩返しも出来ぬまま
見送ってしまいましたがいつも感謝の念を忘れていません。
そういう訳で叔母の住む近くの杉並区に家を求めて弟達と5人で上京しました。
(イメージです。)
Sさんも都庁の母方の叔父さんのお世話になったようです。まず弟さんの大学進学前後に
弟と2人で上京して自炊から始めて最終的にお母様も上京されたと聞いています。
お父様が北関東に単身赴任中だったのですが戻られなかったようです。
戦後間もなく父は大企業を辞めて今でいう起業をして個人事業でしたが
一応軌道に乗っていましたのでそのまま仕事を続けて最後は全部倉庫にして貸していました。
Sさんのところも私のところも父親たちは親として子供達に対する責任は果たしてくれたように
思います。男の子達は皆大学に行きましたし、親同士の葛藤はあったと思いますが
今思えば、それぞれの望む人生を選択をしてよかったのではないかという気がしています。
親子の縁は切れません。 我が家の娘達(孫)は父に懐いていました。
「人間万事塞翁が馬」ということわざがありますが、Sさんも私も上京したお陰で間もなく
良き伴侶に恵まれ、似たような郊外の分譲地で、それなりの生活を送ることが出来ました。
優しそうなご主人と親思いの娘さん息子さんに囲まれて彼女は幸せだったと思います。
それぞれの兄弟姉妹達も恙なく暮らしていることが今回お通夜に行って分かりました。
Sさんとは共に首都圏に住んで繋がっていることで安心し満足しきっていました。
子供の時の遊び相手の印象が先入観で染みついていて、大人になってからの遊び方がうまく
出来なかったことが少し残念です。一緒に楽しく過ごしてもっと多くの思い出を残したかった
ような気がします。