(1953年)稲垣潤一誕生日
大学浪人時代(1990年4月~1991年3月)、僕は勉強は程々に?ラジオばかり聴いていた。
キー局での放送時間・曜日は分からないが、僕が住んでる地域のFM局では土曜日の朝に稲垣潤一氏の番組がオンエアされていて、とりたててファンではなかったものの、好きな曲は結構あったので、それ聴きたさに耳を傾けていた。
この時はちょうどニューアルバム『Self Portrait』がリリースされたタイミングだったこともあり、収録ナンバーが頻繁に流されていた。
なので、そのアルバムを聴くと今でも浪人時の気分に戻される。
稲垣潤一と聞いて思い付くことがもうひとつ。
彼は宮城県仙台市出身だが、高校生の時にヤマハのライトミュージック・コンテストに応募し、そこで同じく出場していた小田和正さんに遭遇したらしい(ということは1969年の第3回の時か)。
小田さんのいたオフコース(当時はジ・オフコース)は全国大会にまで勝ち進み、「赤い鳥」に次いで第2位に輝き、プロデビューのきっかけを掴む。
この全国大会のエピソードは広く知られているが、仙台地区予選の様子を語る人は滅多にいないので、彼の証言は大変貴重だ。
稲垣氏は残念ながら地区予選で落ち、そこからプロになるまでに10年以上を要することになる。
時間はかかったものの才能が認められ、今なお息の長い活動を続けており、多少回り道だったかも知れないが、それはそれで幸せな人生だと言えよう。