散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

5.29横浜大空襲

2009年05月29日 | ★メタ坊徒然草
今年もこの日がやってきて、新聞の一部に記事があり、そして何の変化も見せずに過ぎ去った。何年か前までは、このことの記憶を忘れない信念を持った人がいたためか、昭和20年5月29日午前9時15分の空襲が始まったとされる時間に黙祷を促す文書が配られていたのを覚えている。それがいつの間にか目にすることがなくなって、気が付けばその日の夕刻だったり、翌30日の朝に「あっ!大空襲の日だった」なんて急に思い出したりしている。多くの犠牲の上に、今の繁栄と平和があるのに、記憶は風化し、伝承は消え、そして「敵国に対するミサイル基地への先制攻撃は法理上可能」という首相発言まで飛び出した。かく言う私も五十代、戦争の経験も記憶もないが、横浜大空襲に関して知る機会があり、資料や文献にも触れる機会があったから、アメリカ同時多発テロの「9.11」と同じように「5.29」は心の中の引き出しにある。
語り伝えることが大切だといわれるが、私自身聞いたことを伝えようとしても説得力がないのか、相手に聞く耳がないのか、戦争の恐ろしさ、空襲の悲惨さについて話し始めても、最後まで聞いてもらえたことがない。災害にしても、戦争にしても、自分の体験したことのないものには、結局、無防備にならざるを得ない状況を自ら作り出している訳だ。まさしく歴史は繰り返される。
横浜大空襲の話の中の「ザーザーという音をたてて、焼夷弾が雨のように頭上に降ってきた」というフレーズを、多くの証言者たちが異口同音に語っている。そのフレーズに対し、社会科のカリキュラムで戦災と空襲を教えるという教師から「なぜ傘をさして防ごうとしなかったのか」とまじめに質問されたことがある。そこで、集束焼夷弾の仕組みを図式で示したが、現物を手にしなければ真に理解してもらうことは難しかった。
横浜開港150周年の主会場・新港ふ頭から出港した船が、浦賀沖で待ちかまえる米潜水艦の魚雷攻撃で次々に撃沈されていることを知らず、同時に空襲を受けると思われていた横浜が無傷だったのは外国人が多く住んでいるからだと信じ、3月10日の東京大空襲で焼け出された多くの市民が避難した。彼らは5月29日の空襲にあって帰らぬ人となったにもかかわらず、罹災証明のみで寄留していたため、公式記録に死者として算定されなかったのでは?といわれている。写真のような資料が図書館などで手にすることができる。ぜひ一度、読んでみて横浜大空襲とはどのようなものだったのかを知り、150周年を祝うことの意義を再確認して欲しい。

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