散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

「歩いて探す地域の魅力」講座

2014年10月13日 | ★メタ坊徒然草

「歩いて探す地域の魅力」をテーマに、横浜シティガイド協会会長・嶋田昌子さんの講座がありました。
居住区が瀬谷区で、勤務先が泉区になり、気分転換が千葉県勝浦市と、歳を取ったせいか、行動範囲が限定的になりました。
若いころのように、興味がわいたら即、現地に行って確かめてみるという元気がなくなったせいもあります。
そこで、昔からやっている町歩きをそれなりに整理するヒントが得られないかと思った次第です。

先にあった「横浜の生糸貿易と泉区の製糸業」をテーマにした横浜開港資料館主任調査研究員・平野正裕さんの講座をきっかけとして、泉区を横浜の生糸貿易を支えた地域として眺めることで、「何もないまち」と思っていた地域が「実は歴史に深く関与していたところ」で、さまざまな出来事や人間がからみあい、それが今の街並みと人情を形成していることを知り、実は「魅力あるまち」「誇れるまち」と思えるようになり、それを一人のものとしないで、まわりの人に教え、伝えていくことが、より一層まちの活性化につながっていくというお話でした。


平野さんの講座では、ヨーロッパに蚕の病気が流行り、良質の生糸を求めて、開港間もない横浜に、生糸貿易をする国内外の商人が集まったこと。その物流を支えるための仕組みと都市が発達するとともに、均質で、良質かつ安定的な生糸を供給するニーズに応える必要から製糸場が増えていき、泉区に初めて蒸気機関(鉄釜)を使った機械製糸場「持田製糸場」が稼働したこと。それがやがて、化学繊維・レーヨンの登場により衰退していったことなどを話されました。

嶋田さんは、開港130周年のとき、記念に「横浜の女性史」を編纂する機会を得ます。そこで、文献史料から読み解いた歴史的背景の中に「女性」がどんな役割を果たしていたのか、今一度書籍などの図書資料にあたってみるのでしたが、女性の立場から記録された文献が横浜にはないことに気づきます。たまたま尋ねた家でむかし、製糸場を営んでいたことを知り、当時の様子を聞き書きします。その話の中には、女工哀史や野麦峠で書かれていた女性とは違い、働くことで現金収入を得、教養を身に着け、忙しくも生き生きとした女性たちの姿があったことを発見します。
数字や文献をもとに現れる歴史以外に、会話や言い伝えの中から民俗学的な歴史の必要性を感じ、まち歩きをする中で埋もれた歴史に光をあてることの大切さと、多くの人に故郷横浜の文化や歴史を伝えていくことへの使命感が芽生え、横浜シティガイド協会の設立へと進んでいきます。

広く浅く(興味のあることには深くとことん)、好奇心旺盛で、よく人の話に耳を傾け、そうそうのことでは怒らない、という感じの嶋田さんを見ていると、メタ坊にとって、地域デビューは簡単なようで、でもまずキャパシティーのある自分を作るところから始める一歩が必要なんだと痛感した講座でした。


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