たしか秋ごろに一輪咲いた白梅今日はまたツボミを見つけました
そして、2021年の12月31日も、もうすぐ終わり
2022年が始まります
お昼頃まで風花が舞う
冷たい年の瀬になりました
今年はどんな年でしたか?
新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、1年延期になった東京オリンピック本当にやるのかやらないのかもわからないまま、その準備のZoom会議があり
1月下旬からは、テスト大会の時に使用した本番で使うオペレーションシステムの訓練が始まりました
毎週木曜日・金曜日・日曜日の夜8時から3時間、他国のサーバーにアクセスし、英語のマニュアルを見てひたすら練習する日々が始まりました
途中からはスコアリングオペレーターの4名+予備員1名の計5名に指導する役割が加わり
WBSCの記帳練習と、自分の本業の仕事に、母の介護の手配など、目が回るような忙しい毎日が続きました
4月からは日本リーグが始まり、全ての試合のバックアップもしながら…今思えば、本当に考えられないようなボリュームでした
母が介護認定を受けて父が自宅で看ていましたが、それが難しくなり、母を施設に預けて10日目
私が東京オリンピック関係者用の2回目のワクチン接種の帰り道
品川駅にいた時に電話が鳴り
体調を崩した母を救急搬送することになりました
まだ、コロナ対策が厳しかったので、私はもちろん母に会うことは出来ませんでした。そのまま検査入院となった母を弟や妹に任せて、東京オリンピックに行くことになりました
東京オリンピックでは、日本人スコアラーチームのリーダーを任され
WBSCの外国人スコアラーとのやり取りなども、大切な業務の一つで
日本のスコアとの違いなどからの対応もありましたが、代表チームの金メダルで大会が無事に終わりました
私がオリンピックに行っている間は、病院から何の連絡もなかったということでしたが、さすがに2週間経ったので、途中経過でもと病院に問い合わせ、先生からの説明を受けました。もともと食が細かった母ですが、食べると血便が出るということで、点滴の水分補給以外はほぼ食べれない状態でした。延命治療はしないという約束でしたので、もう病院で出来ることは何もないと言われました。コロナがひどくなっていく中、別の病院を探そうと考えていたところ、妹が3か月の介護休暇を取って母を看たいと言い出し、8月23日に退院して父と2人での介護が始まりました。一日に100ml程度の流動食しか口に出来ず、退院当初は点滴もしていましたが、むくむだけで効果がなかったことから点滴もやめ、飲めなくて食べれない母を看るのは本当に辛かったです。血圧が50くらいになって、それでも一所懸命息をしている母は、孫のももかのお願い「明日は夜勤だけど、ももかが帰ってくるまで元気でいてね」という話もたぶん聞こえていて、夜勤明けで帰ってきた9月19日の夕方、みんなに見守られて息を引き取りました。この土日と、お通夜とお葬式をやった翌土日だけ日本リーグがお休み
みんなのスケジュールをすべてお見通しで、母は旅立ちました。相続の手続きなど、盛りだくさんのことをやりつつ、10月は4週連続で日本リーグ。4週目の第10節は山梨へ派遣
このあと個人表彰のデータを作り、1週空けて今度は決勝トーナメントで福島に出向き
2週間後にZoom会議
このあと認定会の準備をして、クリスマスの土日に千葉へ第1種公式記録員認定会の講師として出掛け
本当に怒涛のような1年が終わろうとしています。
今晩は、いただき物の白金豚の生姜焼きと味噌漬けを弟と手分けしてソテーイカも焼いてくれたんだけどね、肉とイカかぁ…母の作るメニューにはないものばかり
ばーばがいたら「私の食べるものがないじゃん」って言うだろうねーって、じーじと3人で話しながら
ばーばがいない、初めての年末年始を迎えます
毎朝毎晩、母が書いた般若心経を見て、頑張ってるよって話し掛けています。「出来ることを出来る時に出来るだけ」一所懸命やることしか能がありませんが、そうすることで誰かの役に立てればと思います。
今年も1年間お世話になりました。来年も時間を見ながら少しずつ続けて書いていきますので、応援よろしくお願いします推し!焼津「焼津ぐるめぐり」
焼津エール飯
応援してまーす
日本ソフトボール協会HP
日本女子ソフトボールリーグ機構
静岡県ソフトボール協会HP
東京2020オリンピックで野球とソフトボールが復活し、アベック優勝
見事に金メダルを手にしました
野球とソフトボールがオリンピック競技として続くよう
さまざまな立場や角度から機運を高めていきましょう
平成20年(2008年)9月15日upBACKSOFTBALL
オリンピック競技への完全復活に向けて
子どもの目標の場に